脱皮
久永在時
第1話
踏みにじられて、踏みつけられて。思えばそんな事ばかりの人生だった気がする。恋人に振られ、仕事をなくし、アルコールに逃げるように溺れる。典型的な屑の人生だ。ビールの空き缶が散乱する六畳一間の部屋の中、セミの鳴き声だけがいやに煩い。
「死ねたならどれだけ楽だろうか……」
部屋の中央にシャンデリアのように飾り付けられた輪っか状の縄をボーっと見上げる。生きていても死んでいても変わらないと気付いたのはいつのころだっただろうか。きっといつでもない。気づいたらそうなっていた。
「死にたい死にたい死にたい」
壊れたラジオのように同じ言葉をエンドレスで呟き続ける。部屋の蛍光灯は切れかけており、チカチカと点滅を繰り返す。
「生きている価値なんてない。こんな人生に価値なんてない」
子供のころの頃は夢と希望にあふれ、何でもできると思い込んでいた。そう思い込めば傷つかなくて済んだ。でも年を経るにつれ、思い上がりを思い上がりだと理解するようになった。否、なってしまった。
「死んでいるように生きている」
生きるだけならだれにでもできる。死なないだけならだれにでもできる。只日々を無意味に浪費し、死へと近づいていく。どんなものにも始まりがあるなら終わりがあって、マルで文章が終わるように人生もいつか必ず終わる。
「まぁ、私の場合はバツだけど」
自嘲気味な笑みがこぼれた。バツの悪い空気、気の利かない奴、できない奴。自身の人生を振り返るとバツばかりで埋まっているような気がする。仮に人生に通信簿があればさんさんたる成績であろう。
「死にたいが私にはその勇気がない」
死にたいと思うなら死ねばいい。でも、私にはひどくその勇気がないのだ。一人ごちりながら、空調で冷えた冷たい床の感触を名残惜しみつつ、立ち上がる。数歩歩き、乾いた木色の本棚から夏目漱石の『こころ』を引っ張り出す。古びた本の独特な臭いが鼻を衝いたが、私は構うことなく頁をめくった。記憶が確かなら物語の中で先生は『明治天皇の崩御』を死の機会として利用している。
「あぁ……」
やはり記憶は確かだった。こんな人間の記憶でもあてになるものなのだなと苦笑が漏れる。一層の事私も何かを契機として死んでやろうか。遺書も書きやすいし。くだらないことを考えながら本を閉じると、一枚の紙が落ちた。
「なんだ、これ?」
床に立膝を着き、紙を拾い上げる。紙を開くとそこにはひどく汚い文字が書かれていた。ぐちゃぐちゃの線で何かが書かれているというのはかろうじて理解できる。理解できるが何が書かれているかがさっぱり理解できない。
「いや、本当になんだっけこれ?」
記憶を掘り返してみるが全く思い出せない。人差し指を唇に重ねて探偵の真似なぞしてみるがやはり思い出せない。霞がかかったように、霧がかかったロンドンの街のように私の思考も迷路へと迷い込んでいく。深呼吸をくりかえし、目を瞑る。ふいに記憶が再生された。浮かんできたのは若かりし日の父の姿と小さく大海を知らなかった幼少期の自分。
※※※※
暖房器具のついた暖かな部屋の中、幼少期の自分が髭を生やした中年、世間一般的には父親と呼ばれる人物に話しかけている。
『ねぇ、パパ。学校の宿題で将来の自分について書きなさいって宿題が出たんだ』
『へぇ、それでなんて書いたんだ?』
『書けばいい内容が分からなくて。だからパパだったらなんて書くかなって』
『パパだったらかぁ。難しいことを聞くなぁ』
記憶の中の父は困ったように笑っていた。人差し指を口に当てる所なんかも親子だなと思わされる。
『でも、書かないと宿題が終わらないんだ』
『それは困ったねぇ。うーん……』
目線をフローリングに落とし、父は考え込んだ。考え込んで考え込んで視線の熱でフローリングが焼き切れるんじゃないかと思うくらい考え込んだ。
『そうだなぁ、僕なら優しい人になりたいって書くかな』
『優しい人?』
『そう、自分にも他人にも優しい人。』
※※※※
「あぁ、そうか……」
幼き日の記憶を思い出した。記憶の中の自分は美化されているような気もしたがそれでもあの頃の私は必死に生きていた。今の私とは違って必死に生きていた。
「父さん、僕も優しい人になれますか?」
父の生前にかけるべきであっただろう言葉を呟いた。帰って来ぬとわかっている言葉。今更となっては遅すぎる言葉。
—–『人生に遅い早いなんかないよ。やるかやらないか。ただ、それだけ』
ふいに頭の中に父がよく言っていた言葉がリフレインした。そのやるだけというのが死ぬほど難しいからこうなってしまっているというのは野暮だろう。
「墓参りに行こう」
私は六畳一間の部屋の中から出る事を決意した。きっと外は暑いのだろう、苦しいのだろう。でも、それが生きてるって事じゃないか。部屋の外のセミは今も懸命に鳴いている。
脱皮 久永在時 @aritoki13
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