その4
『こんなことが本当にあるんですね・・・・信じられません』
夕方、やっと弁当屋の仕事が終わった大島康雄を、近くの児童公園に呼び出し、報告書を手渡す。
彼は穴の開くほどに何度も読み込み、ため息とともに言葉を吐き出した。
『俺だって正直信じられない気持ちだ。事実は事実だからな』
そういうと俺はベンチから立ち上がってシナモンスティックを咥えた。
『さあ、これで俺の仕事は終わりだ。これが請求書、ギャラは教えた通りの口座に出来るだけ早く振り込んでくれ。こっちにも都合があるからな』
『ちょっと待ってください』
大島は書類から顔を上げ、俺の顔を見上げた。
次に出てくる言葉は大方予想がつく。
ベイカー街の名探偵じゃないが、その程度の推理ぐらい、新宿の三流探偵にだって容易だ。
『”追加料金は払います。その代わり杉田春美さんの家に一緒に来てください”だろ?』
彼は唾をのみ込み、何も言わずに頷いた。
肩をすくめ、俺はスティックの端を噛む。
『乾さんのやり方に反しているのは分かっています。でもどうしても力を借りたいんです。何しろ僕はこの年になるまで・・・・』
『”女性と付き合ったことがない”かね?』
再び大きく頷いた。ほら来た。
やれやれ・・・・俺はどうしてこう商売が下手くそなんだろう。非情に徹しきれないってのは、探偵にとっての
『仕方がない。受けてやるよ。その代わりギャラを倍増しだ。そのくらいしないと割が合わん』
大島君は助かりますと言って、何度も頭を下げた。
午後五時半、俺と大島康雄は、吉祥寺の先にある、その木造アパートのドアの前に立っていた。
ノックしたのは俺の方である。
まったく、何から何までこっちにやらせる気かよ。
腹の中でぶつくさいいながら、俺は隣を見る。大島がごくりと唾を飲み込む音が、俺の耳にもはっきり聞こえた。
応答はない。
二度目にノックした時、やっとドアが10センチほど開いた。
”どちら様ですか?”
陰気な声が中から聞こえ、肩まで伸びた長い髪の女性が顔を覗かせる。
痣は隠していない。
『杉田春美さんですね?私は私立探偵の
俺はそう言ってから、
『実はある人に貴女について調べてくれと頼まれましてね』
『お話することはありません。お帰り下さい』
相変わらず陰気なトーンは変わりないが、実にきっぱりとそう告げた。
『一度だけでいいんです。一度お話して、それでも駄目なら退散します』
『依頼人は僕です。お願いします!』
大島康雄が、意を決したような調子で前に進み出た。
1分ほどの間があったろうか。
彼女が手を伸ばし、ドアチェーンを外す。
『どうぞ、お入りください』
そう告げると、俺達二人を室内に通してくれた。
飾り気のない部屋だった。
リビングと寝室が兼用になっていると思われる四畳半と簡単なキッチン。
そしてどうやら奥には浴室とトイレが一緒になっているらしいドアがもう一つあった。
四畳半の真ん中には、足の短い座卓があり、その上には何やら定規のような四角い穴の開いた横長の器具と、先端の丸い千枚通しの短い感じの器具が置いてあり、後は一冊の分厚い本と、その下には白い紙が何枚も重ねてあった。
『点訳のボランティアをしているんです。すみません。今片付けますから』
彼女はそう言って、座卓の上を片付けると、座布団を出してきて俺達に勧め、
キッチンに下がると、盆に湯呑を三つと急須、それから片手にポットをぶら下げて戻って来た。
『何もありませんけれど』
彼女はポットから急須に湯を注ぎ入れ、しばらく待ってから湯呑に淹れ、一つを俺、一つを大島、そしてもう一つを自分の前に置いた。
こげ茶色のタートルネックのセーター、くるぶしまで隠れる黒いロングスカートという地味な身なりの彼女は、湯呑をとり、ゆっくりと茶を飲んだ。
『それで、御用と言うのは?』
彼女はまた低い、かすれたような声で言った。
真正面から彼女の顔を見たのは初めてである。
確かに彼女の顔はちょうど半分が、さながら『オペラ座の怪人』におけるファントムの仮面のように、見事に痣に覆われていた。
俺は何も言わず、上着のポケットから、茶色い封筒を出して座卓の上に置く。
『東亜薬品工業の現社長、小野道夫氏、ご存知ですね?彼から託されたんです』
封筒の中に入っていたのは、言うまでもなく、先日託されたあの二つの瓶である。
『貴女の事は失礼ながら全部調べさせて頂きました。杉田春美さん』
彼女は黙ったまま、また茶を一口啜った。
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