三日月

ドリサマ

三日月


塾の帰り道。蝉が五月蝿く鳴き喚く。スマホの時計は二十二時を差していた。

僕はその日は家に帰りたくなくて、半年後に迎える受験の対策模試の結果を親に見せたくなくて、いつもとは違う帰り道を歩いていた。

小さな公園をすれ違う時、突然ギターと女性の声が聞こえた。いや違う、これは歌だ。夜だから当然音量は抑えられてる。家の中にいたら気づかない程度の音量だ。けれどもパワフルで、透明な、美しい歌声だった。

顔が知りたい。誰が歌ってるんだろう。一度出た好奇心はもう止まらない。僕は全力で耳を澄まして声の主を辿って歩き出した。


手すりやら取っ手やらがたくさんついていて、真ん中に大きな穴が一つだけある、半球体型の遊具。そこから声が聞こえてきた。彼女はこの遊具の中で歌っている。近くで聞くとますます綺麗な歌声だった。ギターは何かそういう加工をしているんだろうか、静かで、しかし芯のある音を響かせていた。

声をかけたい。顔を見たい。しかし急に現れて怖がらせてしまったらどうしよう。プラスの感情とマイナスの感情が鬩ぎ合う。

どうしようどうしようと葛藤している内に彼女の歌とギターの音は止んだ。曲が終わったのだ。ガサゴソと遊具の中で物音がする。帰り支度をしているのだと気づいた。声をかけるか、逃げるか。選択の瞬間は刻一刻と迫ってくる。僕が決めきれずにいると大きな穴から黒髪が飛び出した。時間切れ。

「あれ、そこに誰かいる?あ、その制服…高校生なんだね」

黒檀のような黒髪が腰まで伸びた少女が穴から姿を現した。

第三の選択肢、「彼女に声を掛けてもらう」はもしかしたら最善手だったのかもしれない。


彼女に遊具の中に来るように言われたため渋々中に入ると高校生2人でギリギリの大きさだった。

彼女は猫のような三白眼を細めてニヤニヤ笑った。

「それで?君は、なんでこんな時間にここに居たのかな?」

「そ、それは…君の歌声が聞こえて、それが綺麗だったから…誰が歌ってんのかな、て…それで」

「ふぅん…つまり君は私の歌声に惚れ込んだ、という訳だ」

「ち、違う!そういう訳じゃない」

だってそうじゃなきゃ夜に公園で歌ってる女の子に近寄んないでしょ変態、と彼女はケラケラ笑った。彼女のペースに乗せられて思わず砕けた口調にしてしまったが、まぁいいか。

そういえば彼女について何も知らないことに気づく。

「君の名前は?歳は?何で歌ってたの?」

「アハハちょっとちょっとそんな矢継ぎ早に質問しないでよ、うーん…名前はウタ、歳は十八、夢は…歌手。これで充分?」

彼女は、ウタはニコニコと、しかし夢を語ったその一瞬だけ真剣な表情で自己紹介した。

ほらほら次は君の番だよ、とウタは急かす。

「鈴木。高三。塾の帰りだった」

「それで私に惚れたと」

「違う惚れたのは君の歌声だ、あ…」

やーいばーかばーかと彼女はまた笑った。よく笑う子だ。とても同い年か、もしくは一つ上だとは思えない。

あはは、あぁ笑った笑ったと満足そうに言ったウタはギターケースからギターを取り出した。

「不思議なギターだね」

「うん、普通のと違って音が静かだから外で弾く時はこっちにしてるの」

空洞だらけの不思議なギターだったが彼女が持つとそれはどんなギターよりも素晴らしいものに見えた。

「特別に弾いてあげるよ、何がいい?」

「んじゃあ、最近超流行ってるあの曲がいい、CMの」

おっけーといって彼女はギターを構えた。二人きりの小さな小さなドームライブ。観客は僕一人。遊具の中の狭い空間を、反響した彼女の声が包み込む。こんなに興奮したライブを僕は後にも先にも経験したことがなかった。



次の日。HRの時間にこの前行われた期末テストの結果が担任から返ってきた。順位は中の上。僕が目標にしていた順位よりも何十位も下だった。鐘が鳴る。担任は去っていく。代わりに友人が僕の机に近寄ってきた。

「なあなあ、一位はまたまた山田さんだってさ」

「山田さん?」

「そうそう、同じクラスの。一年の頃からずーっと一位なんだけどずーっと学校に来てねえの。明らかに出席日数足りてないのに何故か進級出来てんだよなぁ。やっぱり頭いい人は違うのかなぁ。」

「あんまり人の詮索するのは良くないよ。そんな事よりさ、今回の順位…何位だった?」

「んあ、俺?ほれ見てみ」

友人が見せてくれたテストの結果は僕の目標にしていた順位よりももう少し上の順位だった。

「今回なんもやってねえけど思ったより耐えたわ〜!あ、そうだ今日カラオケ行かね?」

「行かない。今日も塾だからね」

友人は、僕より勉強してない。俺よりも努力してない。なのに、僕よりも上を行く。劣等感がずっと心の奥底で燻って、燻って、そろそろ燃え広がりそうだった。

中学校までは学校一の神童で有名だった。だからそこそこの勉強をするだけでその地域で一番学力のある高校に入学出来た。本気でやらなくたって結果は伴うと完全に驕っていた。高校一年生までは基礎学力で何とかなった。けれど段々授業で分からないところが増えてきて、どんどん落ちぶれていった。中学校の頃は一位しか取ったこと無かったのに今では一教科だって一桁台になってない。神童はただの凡人に成り下がった。テストの結果が来る度に自己嫌悪に陥る。しかし今日は違った。ウタを思い出したのだ。夢を必死に追いかける彼女を。僕も出来るなら彼女のように天才のままでいたかった。彼女は僕の理想だった。



某日、塾が終わる。スマホは今日も二十二時を指す。公園の奥に聳える半球体の遊具の中に入る。遊具の中にはウタがギターを構えて待っていた。

最初に会ったあの日から僕とウタは毎日この遊具の中で会っていた。僕が塾が終わる二十二時からぴったり一時間。それが僕らのタイムリミット。このくらいだったら僕の親も帰りが遅いと心配にならないだろうという計算だった。

「そういえばさ、ウタはどうしてここで、こんな時間に歌ってるの?」

最近はウタのリサイタルだけでなくこうした世間話もするようになった。

「えー、それ訊いちゃう?まじかー!アハハ」

「いや別に嫌ならいいんだけどさ」

ううん、構わないよとウタは先程まで弾いていたギターを片隅に置いた。いつも通り口元はニヤニヤしてたが、目は珍しく泳いでいた。何かを迷ってるみたいだった。

「少しだけ、暗い話になるけどいい?」

「勿論。聞きたい」

分かった、と言ったあとウタは深呼吸をして話した。見たことないくらい真剣な表情だった。

「私ね、昔から変わってたの。先生が質問した時にはすぐに手を上げたり、昼休みに友達と鬼ごっこするより本読んでる方好きだったりね。学校が求める模範的な生徒でしょ?だけど世界ってさ、少し規律からズレてる方が正義なんだよね。クラスメイトは異端者を排除しようと躍起になっていじめて担任は見て見ぬ振り。学校に行くのが怖くなってなにもかも嫌になってもうこのまま死のうかーって思った時に、昔学校で受けた将来の仕事の適性検査の結果用紙を見つけてね、それが」

「ミュージシャンだったの?」

そう、ウタは照れながら頷いた。

「もうこれに縋るしかなかったの。じゃないと私何も無い、ただのはみ出しものだからさ。だから私は歌手になる。ならないとダメなの。だから必死に練習してる」

「家で練習するんじゃなくて公園で」

「うん、不登校になってから家も居心地悪くてさ。こで弾いてるのが一番落ち着く。夜に弾くのは単純に人がいないからだよ。人目が多いとどうしてもほら、思い出しちゃって」

「…ごめん、根掘り葉掘り訊いて…他にも、色々…」

いいんだよ、私も話したかったしとウタはケラケラ笑った。

「違うんだ…その、今の話聞いて僕、ウタに嫉妬しちゃったから」

「嫉妬?」

ウタの目が真ん丸に見開く。

「うん、僕は線引きされた側になりたかったから」

「え、なにイジメに遭いたいの?」

「違うよ。奇人天才神からの贈り物、そういう突出した何かになりたかった」

「私には何もないよ」

「あるよ、その歌声がある。僕は君みたいな才能はないし天才には逆立ちしたってなれない。けれども凡人には成り下がりたくない。余計なプライドが邪魔して、境界線の上で棒立ちになってるのが僕だ」

言ってる間に涙が止めどなく溢れてきた。ずっと僕の心の中で塒を巻いていた思いは、言葉にしたらここまで汚い感情だったのか。

ウタは何も言わなかった。十分くらいだろうか、本当は一分だったかもしれない。長い長い沈黙の後、ウタは言った。

「私、もう逃げない」

「え?」

「鈴木くんがここまで鼻水垂らして泣いて私の才能を信じてくれたんだ。もう少し足掻いてみるよ、鈴木くんを見習ってね」

ふふ、と静かにウタは笑った。見たことない笑い方だったので思わず尋ねた。ウタは何でもないように答える。

「あぁ、昔からの悪癖。愛想を良くしないとって思うとついつい大袈裟に笑っちゃうの。本当の私はこっち」

いつもの大口を開けて笑うのが満月なら今の静かな笑い方はまるで三日月だ。お淑やかにウタは笑った。

時は移ろう。スマホは二十三時を指した。

「それじゃ、帰るね」

遊具から抜け出し、まだ中にいるウタに声を掛ける。

「うん、また明日」

そういや今日はウタの歌を一度も聞いてなかった。


朝、校門を潜り、教室に行く。いつもの光景。しかし今日は何故だかうちのクラスが騒がしかった。

いつも空いていた「山田さん」の机には少女が座っていた。黒檀のような長い黒髪。猫の様に丸い三白眼。

「なんで、」

「また明日って言ったでしょ。初めまして。詩歌の詩でウタ。山田詩です」

彼女の口元に三日月が浮かんだ。

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三日月 ドリサマ @yume_yume

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