2-③


   * * *


「お茶をお持ちしました」

 フォルテは久しぶりに屋敷の茶話室に足をみ入れた。父が亡くなってから初めてだ。

 南向きのテラスに面した、お気に入りの部屋だった。両親が健在だった頃は、よくこの部屋で家族四人過ごした。時には、そう、このペルソナの一家も加わって午後のひと時を楽しんだ。五歳年上のペルソナはやさしい兄のような存在だった。

「やあ、久しぶりだね、フォルテ。元気そうでよかったよ」

 ゆうにマルベラとテーブルにつくペルソナは、屈託くったくなく微笑んだ。薄い茶色の髪をおかっぱにした、見るからに温室育ちのタイプである。五年ぶりの姿は、あんまり変わってないように思えた。

「ずっと気になっていたんだ。急にご両親が亡くなられて、こんなことになるなんて思いもしなかったからさ」

 当時十二歳だったフォルテには、五歳年上の彼がずいぶん大人に思えたけれど、自分がそのとしになってみると、そうでもない。でも、あの頃は大人で頼れる婚約者だと好ましく思っていたのは確かだ。初恋はつこいだったのだろうと思う。

 結婚相手が決まっていることに、特に疑問もいだかなかったし、嫌とも思わなかった。フォルテもペルソナも、良くも悪くも与えられるままに貴族のレールに乗って生きていくことに異議を唱えるような反抗心はんこうしんも気骨もなかった。

 そしてペルソナは、今もそのレールに乗ったまま、親に言われるがままにマルベラと婚約しようとしている。なんの疑問も抱かずに……。

「ピットがチョコケーキを焼いてくれたの。ペルソナ様、好きだったでしょ?」

 フォルテがワゴンの上のケーキを取り分け、茶葉に湯を注ぐ。

 この五年ですっかりきゅう仕事も板についた。

「ああ。よく覚えているね。マルベラも好きだよね」

 ペルソナは、向かいに座るマルベラに照れたように微笑みかけた。

「ええ。ペルソナ様。ピットの作るチョコケーキは最高ですもの」

 情熱的な黒髪がほどよいウエーブでこしまで伸びて、赤を基調としたドレスは胸が大きく開いて色っぽい。ちゃかっしょくの瞳はなまめかしく、真っ赤な唇もわくてきだ。初めてまいだとしょうかいされた時、美しい人だと思った。深窓の姫君にはいないタイプの美人だ。

 マルベラを見つめる様子を見ただけで、フォルテはペルソナがすっかり心を奪われているのを理解した。その程度には、この五年、人の顔色を読むことを覚えた。

 幸か不幸か、公爵令嬢として苦労知らずだったフォルテのその苦しい経験が、占いに生かされるとは思いもしなかったが。

 フォルテがペルソナを兄のごとくしたうように、ペルソナもフォルテを妹のように思っていた。恋と言うには、おたがいに近過ぎてげきのない仲だった。だからきっと思いがけず現れた魅惑的な恋人に、夢中になっているのだろう。

 マルベラが代わりの婚約者になった事を心から喜んでいる。

 別に悪気はない。悪気はないけど、りょの足りない人だ。

 マルベラに夢中になり過ぎて、給仕をしているフォルテの境遇さえも思い量る視野が欠けている。いや、きっと不幸というものを知らなさ過ぎて、気がつかないのだ。

 こんな人を頼りにして慕っていたのだと、むしろ過去の自分におどろいた。

(幸せは人の成長を止めてしまうのね)

 この五年のらん万丈ばんじょうで、自分だけが実年齢ねんれい以上に歳を重ねてしまった。

 だから、ペルソナが世間知らずで幼い弟のように思える。そのおかげなのか意外なほどショックを受けず冷静でいられる自分に、少しほっとした。

「どうぞ、ごゆっくり」

 テーブルの上にお茶とケーキをセッティングして、フォルテは頭を下げた。

「え? フォルテも一緒いっしょにお茶を飲もうよ。いいよね? マルベラ」

 平気でこんなことも言えてしまうペルソナの無神経が悲しい。

「ええ。どうぞお座りになって、お義姉ねえ様」

 大人びているが、マルベラは一つ年下だ。あくのような表情は見下しているようにも見える。

《この能天気男めええ!! 何考えてんだ! 元婚約者のくせに!! ぺっ! ぺっ! ぺっ! つば入り紅茶を飲みやがれ!!》

 まんしきれなかったゴローラモが現れて、ペルソナの紅茶に唾を吐きかけた。

だが、もちろん実害は加えていない。

 フォルテは仕方なく、紅茶だけ持って席についた。

「知っている、フォルテ? マルベラは今社交界で一番話題の姫君なんだよ。舞踏会が開かれるたびにマルベラの前にダンスの順番を待つ列ができるほどなんだ」

 興奮したようにマルベラをたたえるペルソナにフォルテは張りついたがおを向けた。

《それをフォルテ様に言うのか!! どんだけ無神経なんだああ!!》

 ゴローラモがペルソナを蹴っ飛ばしている。

「そうそう。この間の白いドレスもてきだったよ。レースで作った薔薇ばらが散りばめられて、いつもと違うふんだったね」

 フォルテは、紅茶を持つ手をぴたりと止めた。

「レースの薔薇?」

「ええ。お義姉様がわたくしに似合うだろうってクローゼットに置いていってくださったのよね」

 マルベラはフォルテの反応を楽しむように意地悪なしょうを浮かべた。

 ちがう。人にあげたりするはずがない。だって、あれは……。

 あれは母テレサが生前、フォルテの社交界デビュー用に準備してくれたものだった。

 二人で話し合ってデザインして、仕立ててもらった特別な……。 

《ゆ、ゆるさん!! 親愛なるテレサ様、この者をてる暴挙をお許しください!》

 そんな事情をよく知っているゴローラモの怒りは頂点に達し、腰のけんをざっと引き抜き、目にも止まらぬ速さでマルベラを斬り捨てた。

 ……といっても、もちろんすべて彼女の体をすり抜け、少しも傷ついてはいない。

 一方のフォルテは騒ぐ霊騎士の声も耳に入らないほど、絶望に打ちひしがれていた。

 傷ついた表情のフォルテを前にして、マルベラは一層満足げに目を細め、ペルソナ一人が何も気づかずニコニコと笑っている。

《このっ! このっ! 出ていけ! 意地の悪い泥棒どろぼう女!!》

 ゴローラモは項垂れるフォルテの代わりに、斬れない剣でマルベラを斬り刻み続けた。


「お姉様、何かあったの?」

 今年十二歳になったビビアンはベッドに体を起こして、しずんでいる様子の姉に手を伸ばした。

「ちょっと考え事をしていただけよ。心配しないで。私のことよりあなたはどうなの? 今回はいつもよりいい薬が買えたのよ。少しは効果があった?」

 フォルテと同じキャラメル色の髪の少女は、おだやかに微笑んだ。

「ええ。お姉様のおかげでずいぶん楽になったわ。ありがとうございます」

「本当に? じゃあまたこのお薬を買ってくるわね。先日のお客様がとてもお金持ちだったみたいで一万リルも置いていってくださったの。これで当分薬の心配はないわ」

 明るく言うフォルテと反対にビビアンは瞳をかげらせた。

「苦労をかけてごめんなさい、お姉様」

「何を言うのよ。全然苦労なんてしてないわ。占いは趣味みたいなものなんだから。あなたが気にむことなんて何もないのよ」

「でも私さえ病気でなければ、お姉様一人ならなんでもできたのに……。ペルソナ様でなくとも、お美しいお姉様なら妻に欲しいという貴族もたくさんいたはずだわ。それなのに私のせいで……」

「バカね。そんなことを思っていたの? 私は実はね、これでよかったと思っているのよ。もし、こんな境遇にならなければ、私は何も疑問を持たず、何にも怒りを感じず、何も考えないままに良家の貴族と結婚して人形のように生きるだけだったと思うの」

 今頃いまごろは、あの善良で思慮の欠片かけらもないペルソナの妻だっただろう。

「きっと私は何も知らず、そうね、幸せだったのかもしれないわ。でも、世間のじんも、王国のやみも、婚約者の無知にも気づいてしまった。もう知らんぷりなんてできないのよ。そして知らないままのおろかな自分でなくてよかったと思っているの。私は、私が正しいと思う人生を生きるわ。私はこちら側の人生を選べてよかったのよ」

 選んだのではなく、こちら側の人生しか残っていなかったのではあるが。

 ただ――心残りが何もないわけではなかった……。


「私のドレス……。お母様と一緒に選んだ宝物だったのに……」

 ビビアンが眠りについたのを見届けて、フォルテはつぶやいた。

 当時、翌年の十三歳の社交界デビューに備え、あのドレスを用意していた。母はまるで自分のことのようにフォルテのデビューを楽しみにしていた。だがデビューの直前で母は亡くなり、社交界に出ることもないまま部屋を追い出され、ドレスもゆく知れずになっていた。

 あれだけは手元に取り戻そうと密かに探していた。いつか社交界で着る日がくると信じていたのに。

 フォルテと同年代の友人は、みんな社交界デビューをしてはなやかなダンスパーティーやサロンの音楽会や歌劇に興じている。そしてたくさんの恋をしている。

「ほんの少しだけね……経験してみたかった……」

 この年頃の少女なら当然の願いだった。

 そして本来ならその資格をじゅうぶんに持っていたのだ。

「せめてビビアンには経験させてあげたいわ。来年までに病気を治して、ドレスを新調して……ふふ……無理だわね……」

 薬さえまともに買うお金がないのだ。

 食事だけはピットのおかげで不自由ないのが救いだった。

「ううん! きっと占い師で成功して、ビビアンを社交界デビューさせるわ! そしていつか国王陛下をとっつかまえて、ヴィンチ家の家督のことをめてやるの!」

 決心したように立ち上がるフォルテは、翌日に起こる災難を知るよしもなかった。

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