第16話 パンサー号

 そこには俺の知っている月宮ではなく、髪の毛は三つ編みでまとめられ、四角縁のメガネ、そして今のような明るい笑顔ではなく、沈んだ表情でこちらを見つめる月宮紬がいた。

 別人だと言われても納得できるほどの違いに、俺は思わず名前を確認したが、やはりそこには『月宮紬』の文字しかない。

 一言で言えば『地味』という言葉を具現化したような少女だった。

 初めて月宮に遭遇した時の言葉が頭をよぎる。


『メイクとかファッションとか、姿勢とか表情とか! もうめちゃくちゃ頑張りました!』


 その言葉に嘘偽りは微塵もなかった。

 この証明写真が月宮の努力の全てを物語っていた。

 よく漫画やアニメで髪型と服を変えるだけで別人のように美人になったりイケメンになったりするが、現実はそう簡単にはいかない。

 確かに、見た目の部分だけで言えば、そういったことで変わるかもしれないが、自信のなさだったり表情の暗さといったものは、今までの自分に根付いたものであり、簡単に変えることは難しいだろう。

 月宮の努力は並大抵のものではないことぐらいすぐに理解できた。

 俺だったら、たかが人を好きになっただけでここまで変わることはできない。しかし、月宮にとってはその恋愛こそが彼女自身を変える大きなきっかけだったのだ。


「あいつ、すげえ頑張ったんだなあ」


 不意に口からそんな言葉が漏れ、同時に月宮が振られた日のあの表情を思い出す。

 努力してやっと掴んだものが、手のひらからこぼれ落ちていくどうしようのない感覚。自分の努力は無意味だったのではないかと打ちのめされる感覚を、あの日の月宮は全身で感じていたのだろう。

 月宮のあの性格が北代を遠ざけてしまったことは否めない。だが、それでも月宮を責めることは、今の俺にはできなかった。

 俺は、もう一度学生証に写る過去の月宮を見つめ、大きなため息をついた。


「やっぱりな……、こりゃどうしたもんか」


 胸がしめつけられ、月宮に対して罪悪感が芽生える。

 月宮に本当のことを言えば、この胸のざわつきも消えるのかもしれない。ただそれでスッキリするのは俺だけだ。月宮が今まで抱いていた純粋な気持ちに水を差すようなことは、俺にはできない。

 知らない幸せなんて、世の中にはたくさんあるのだから。



 月曜日の駅は、清々しい朝の空気とは裏腹に、憂鬱な表情をした学生やサラリーマンに包まれていた。

 もっとも、学生に関しては憂鬱な表情ながらも、若々しい輝きすら感じられるが、サラリーマンに関しては、希望もクソもないこの世の終わりみたいな表情で改札から出て行く。あんな社会人にはなりたくないなと思いつつも、自分もいずれあの人たちの仲間入りとなるのだろうと半ば諦めを感じる。

 そんな沈んだ空気の奥から一人だけ場違いなほど明るいオーラを醸し出しながら改札を抜ける少女が一人。


「すいません先輩、待ちました?」

「いや、俺も今来たところ」


 電車から降りて走りながらここまで来たのか、月宮の息は上がっていて、膝に両手をつきながら俺を見上げる。

 首元から汗が滴り落ち、豊満な胸の中へと吸い込まれて行く。

 そのやけに色っぽい姿は、俺に目のやり場を無くさせた。


「どうしたんですか先輩。なんか顔赤いですよ?」

「暑いんだよ」


 今が夏で良かった。


「ですよね。もう歩きたくないですもん」


 月宮は何の疑いもなく俺の意見に賛同しながら、胸元をつまみ手で風を送り込む。

 だからそういうことはやめなさい。


「ほ、ほらこれ」


 これ以上暑くなっても困るので、話を本題に移すことにした。


「ありがとうござます! どれどれ」


 月宮は袋を受け取るや否や、中からパスケースを取り出し、上下左右くまなく確認する。

 ついには学生証を抜き出し、俺に見られないように背を向けてなにやら確認をしている。


「な、なにか変なことでもあるのか?」


 大丈夫大丈夫。あの後プリクラはしっかり貼り付けたはずだ。


「…………」


 長い沈黙が、俺の鼓動を早くする。


「大丈夫です! ありがとうございます」

「よ、よかったあ」


 安堵に包まれ、気づけば声に出してしまっていた。

 その瞬間、月宮の目が光った。


「なにが良かったんですか?」

「あ、ええと、そのあれだ。お前の大事なもんをちゃんと渡せて良かったなって。ほら、不備がったらお前が困るだろうし」


 瞬間的に気温が四十度まで上がったのかと思うほど、ひたいからダラダラと汗が流れる。


「……ふーん。そうですか」

「そうそう」


 いつもは勘の鋭い月宮だが、なんとかごまかせたみたいだ。

 バカな俺はまたほっとため息をついてしまった。

 はっと月宮を見ると、訝しげな表情で俺を見つめていた。


「何かいいことあったんですか?」

「いいこと? そりゃお前、いいことなんて山ほど……」


 目まぐるしく泳ぐ俺の目玉が、駐輪場を視界に捉えて、ぴたっと止まった。


「いいこと、あったわ!」


 俺は駐輪場の脇に捨てられるようにして置かれていた薄ピンク自転車を見つけ走りだした。


「ちょ、先輩どうしたんですか? その自転車がどうかしたんですか?」

「返って来たんだよ……」


 まるで生き別れた兄弟との再会かのように俺は優しくサドルを撫でる。もうなんか涙すら出て来ちゃいそう。


「その自転車……先輩のですか?」


 せっかく俺が再会を喜んでいるというのに、月宮は不審な目を向けてくる。


「そうだよ。なんか文句あんのか? こいつはな、俺が中学一年生の頃から付き添って来た大事なやつなんだよ。それなのに二ヶ月前……、くそ誰だよ俺のパンサー号を盗んでこんなに錆びさせた奴は……。許せん。見つけたら処す」

「そそそ、そうなんですか、よかったですねえ」


 月宮は口元を引きつらせて不自然な笑顔を向ける。


「ふっ、お前には俺とパンサー号の絆などわからんだろうな」

「じゃあ今から私もパンサー号との絆を深めますね」


 そう言って月宮は、後ろの荷台にまたがった。


「おい! 俺もまだ再会して乗ってないのにお前……」


 月宮は俺のことなど無視して、学校のある方角に人差し指を指す。


「レッツゴー!」

「お前……」


 先日月宮に同情していた気持ちが、嘘のように消え去った。こいつ一ミクロンも可愛くない。

 俺は怒りを力に変えて、学校までの道のりを全力で漕ぐ。


「てかパンサー号ってなんですか? ピンクだからですか?」


 ぶふっと吹き出す声が背中から聞こえる。


「おい、降ろすぞ」

「ええ、怪我したらどうするんですか」

「知るか唾つけとけ」

「うええ、きったなーい」


 こいつ文句しか言わねえな。振り落としてやろうか。

 しかしさすがはパンサー号、サドルのフィット感がたまらない。固すぎず柔すぎず、俺の尻をちょうどいい硬さで包み込む。乗り心地が最高。


「これやっぱり乗り心地最悪ですね」


 俺はすぐさま大きく車体を左に傾けた。


「うわあああ、危ないじゃないですか!」


 くそ、落ちなかったか。体幹ハンパないなお前。


「ちっ」

「あー! 舌打ちしましたね! 仕返します! ちっ」


 そうだった……、こいつバカだった。

 月宮を乗せたまま、坂道を登る。後ろから『ファイト』と応援する声が聞こえてくるが、余計腹が立って体力が奪われる。誰と競ってるだけでもないのに、早くこいつをパンサー号から降ろしたい、その一心で坂を駆け上がった。


「先輩運動不足なんじゃないですか?」

「お前……のせい」


 呼吸が荒くなり、言葉がうまく出せないせいで、恨みが溜まった幽霊みたいな喋り方になった。月宮の言う通り少し運動不足かもしれない。

 サッカーしてた時は有り余るぐらい体力があったのだが、今じゃこのザマだ。まあ体力使うことなんてこれからないし、そう言う仕事に就くつもりもないからいいけど。

 昇降口を見ると、登校ラッシュのため、かなり人だかりができている。今の完全に火照った体であの人混みに入っていくのはかなり気がひける。


「月宮……、先……いって、俺……休む」

「わ、わかりました。先輩遅刻しないでくださいね」


 さすがに心配なのか、月宮はちょこちょこ振り返りながら昇降口へ向かう。

 すると、月宮はいたたまれなくなったようで、俺の元まで帰って来た。


「パンサー号、また乗せてくださいね」


 違った。ただ追い打ちをかけに来ただけだった。一生乗せねえ。

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