第1話「ある女の日常」

太陽系第三惑星・地球。


時に、西暦2070年。


全ての戦争が終結し、人類は国連の発展的解散により誕生した「地球連合」の元に、平和を謳歌する時代。


………と、教科書や公的資料ではそういう事になっている。



実際は、世界の各地で戦争や自然破壊は、規模こそ縮小したが続いている。


其々の国が抱える経済問題や、貧富の差も変わらず横たわっている。


学校に行けない子供も、親から粗末に扱われる子供も、未だに存在している。



そんな、欺瞞に満ちた現実的な未来の世界。

東方の島国・日本。

経済特区・東京にて………。





………………





「………あ」



ピピピと、目覚まし時計が奏でる機械音の中、彼女の一日は始まる。



「………うーん」



もぞもぞと、下着姿のまま布団から這い出る。


パジャマなど、着替える間さえめんどくさいのが、彼女の持論だ。


そしてお世辞にも、ブラウンの地味な下着に包まれた彼女の身体は、美しいとは言いがたい。


世間でいう“ナイス・バディー”からは遠くかけ離れた、色んな所からはみ出るお肉。

肥満とまでこそいかないが、それがいかに彼女がズボラな女かを物語っている。



「………ういしょっと」



部屋と一緒についてきたという姿鏡の前で気だるそうに、昨日脱ぎ捨てたブラウスの裾に手を通す。


ふと、鏡の中の自分と目が合った。


寝起きという事もあるが、半開きの目は睨み付けているよう。


そばかすのある顔と、セットされてないボサボサした髪。


全体的にもっさりとしていて、絵に描いたような地味さを醸し出している。



しばらく自分自身とにらめっこをした後、彼女は毎朝そうするように、髪の毛をといてまとめ、洗面台で顔を洗って目を覚ます。


ブラウスの上から、同じく脱ぎ捨てていた仕事の為の制服を纏う。

最後に、いつもかけているメガネをかける。


それら全てを終え、鏡の前に戻ってくる。

そして。



「………うへっ」



慣れない笑顔を作ってみる。

雑誌のモデルのように、にっこりした笑顔を浮かべてみる。


………だが出来たのは、お世辞にも可愛いとは言いがたい顔。


もし漫画なら「げへ」という効果音がつくような、そんな感じの物だ。



「………あー、虚し」



鏡の中のそれなりにブスな自分に落ち込み、買いだめしておいたパンを頬張る。

見れば、時計は8時に迫っていた。



「………いってきます」



誰もいない我が家に、彼女はそう言い残し、出掛けて行く。

自業自得ではあるが、朝から気の滅入った事になってしまった。


鍵を閉め、彼女は我が家たるアパートの階段を駆け降りてゆく。


カンカンカン、とヒールの底が鉄製の階段を鳴らし、丁度いい暖かさの朝日が出勤する彼女を暖かく照らす。


ほんの少しだが、彼女の心も明るくなった。





………………





「浅倉春香(あさくらはるか)」は、ごくごく一般的な人間である。


決して美人というわけではなく、メーター的には不細工に分類されるのであろう地味顔。

が、二度と見られないほど不細工というわけでもない。

港区の女子のようなセレブという訳でもなく、飛び抜けて貧乏というわけでもない。


東京の片隅にある安いアパートに一人で住み、家と仕事場を往復する生活を送る、会社勤めの27歳の女性である。


結婚の予定は無いし、彼氏を作る余裕もない。



何時ものように家を出た彼女は、いつも通る道を通り、

まだいくつかシャッターの閉まった商店街を抜け、

仕事場に向かう為にバス停の前でバスを待っている。



「………おっ」



バスを待つ春香には、毎日のある楽しみがある。


バス停から道路を挟んだ向こう側にある公園。

春香の見つめる先に、その人物は現れる。



見たところ年齢は小、中学生ぐらいだろうか?


絹のようにサラサラした、綺麗な金髪。


遠くからでも解る、キメの細かい白い綺麗な肌。


西洋人形のような綺麗な顔に、くりくりした瞳に輝く青い瞳。


美少女か?と一見思うが、よく見れば骨格は少年のそれ。


それが、どこか憂いを帯びたような表情で佇んでいるのだから、

まさに鬼に金棒状態の美しさだ。


紅顔の美少年。


そんな言葉が浮かぶ。

まるで、絵画の中から飛び出してきたような美少年が、公園で一人佇んでいた。



「今日は会えた………ラッキーだなっ」



公園に一人佇む少年を前に、春香の表情はほころぶ。


バス停で待っている間の、春香の日々の楽しみ。

それは、この時間になると公園に現れる、この美少年を見つめる事。


………断っておくが、春香には小児性愛の気があるわけではない。


美しい物を見つめる事は、それだけで人の心を幸せにしてくれる。

春香も、その例外には漏れない。

それだけだ。


毎日いるという訳ではなく、いない日もあるので、これはラッキーともいえる。



そうこうしている間に、両者の間にバスが割り込んできた。

今日の美少年観察もこれで終わりだ。


プシューとバスの扉が開き、春香は他の客と一緒にバスに乗り込んでゆく。


少しでも長く少年を観察するため、右側の席に座る。

今日は空いていた。

通勤時間は空いてない日の方が多いので、これもラッキー。



『発車いたします』



アナウンスと共に扉が閉まる。

間を置き、バスがゆっくりと発車してゆく。



「………あの子、近くに住んでるのかな」



遠ざかってゆく少年を前に、春香はそんな事を考えたりしている。


春香の一日の楽しみは、今日は三分で終わりを告げた。

だが、これで今日一日は幸せに過ごせそうだ。





………………





春香の勤め先は、都内に社屋を構える「丸山株式会社(まるやまかぶしきがいしゃ)」という会社。


元は映画会社から始まり、今は「ラブピュア」のようなアニメや「お面ライダーザ・オー」のような特撮作品も手掛ける、日本有数の大企業。



春香も、そんな会社で特撮やアニメの製作に参加しているものと、皆が思うだろう。


だが、現実はそうはいかない。



会社での春香に与えられた仕事は、パソコンを使った事務だ。


企画部や出資者に紹介するためのプレゼンや、社内で使われる資料を、上からの要求通りに編集する。

それが、彼女に与えられた仕事だ。



この日も、春香はパソコンに向かい、文章ソフトを使って文字を打ち込んでいる。


カタカタとキーボードを叩く音と息づかいが、空気の籠ったオフィスに響いている。


ようやく、現在編集中の仕事が片付こうとした、その時。



「これ、明日までにやっておいて」



上司が、次の仕事を持ってきた。

とても、今からでは間に合わないような量の仕事だ。


この量なら、もう少し早く教えてくれても良かったんじゃないか。

そうしたら、それに合わせて今やっている仕事も早く終わらせたのに。


春香の中に不満と怒りが渦巻く。

だが社会人である以上、爆発させる事も上司にぶつける訳にもいかないので。



「はい、わかりました」



仕事中と変わらぬ無表情で、返事を返した。

大人として返すべき物を返した。

だが。



「………はあ」



がっかりするように、上司がわざとらしくため息をついた。


まずい、地雷を踏んだ。

無表情で返した事を、春香は後悔していた。



「あのねぇ、そんな無愛想な態度はよくないよ?まるで俺が君をいじめてるみたいじゃない」

「は、はあ」

「というか浅倉君、27でしょ?そんな態度じゃ結婚もできないよ?」

「はあ………」



余計なお世話だ。

実際いじめてるようなモンだろ。


口にこそ出さないが、春香は心の中で何度も上司に毒づく。


この上司、自分の立場を利用して、よくこうやって女子職員に説教をする。

誰から見ても解るパワハラ、セクハラであるが、立場上誰も文句は言えない。



結局、仕事を再開できたのは15分後。

ただでさえ仕事を増やされたのに、時間を無駄にされてしまった。


21世紀が始まってもう70年だというのに、ここだけ20世紀のようだ。

春香は心の中で、SNSで見つけたそんな文句を呟くのだった。



………昼食を食べ終わり、今からやれば定時まで間に合うか?

と、休憩時間を返上して仕事に取りかかり、数時間。


定時から1時間ほど過ぎたが、ようやく終わりが見えてきた。



「………あと少し、あと少し」



栄養ドリンクで無理矢理気力を出し、ボロボロになった身体に鞭を打ち、春香は仕事を進める。


もう少しだ、もう少しで。

ラストスパートをかけようとした、その時。



「ごめーん、これやっといて!」



同僚の女が、仕事を追加してきた。

まるで、学生が何かを奢ってもらうような、軽いノリで。



「………はい?」

「今日私デートあるから、それじゃ!」

「ちょ、ちょっと!」



引き留める春香を完全に無視して、同僚の女は笑顔でタイムカードを押し、オフィスから出てゆく。


呆然とする春香は、同僚の女が渡してきた仕事を見つめる。


数十枚の紙の資料からなるそれは、昼間に上司が渡してきた物と比べれば遥かに少ない。

だが、片付けるには時間がかかる。


これは、今夜も残業ルート確定だろう。

そう思うと、先程までのペースもがくりと下がってしまう。



「………ふざけんなよ、クソが」



デートという理由で、平気で他人に仕事を押し付け、平気な顔で笑う女。


それを咎めようとも引き留めようともしない上司や廻り。


その全てに対する憎悪と怒りを込めて、

尚且つ極力誰にも聞こえないような小声で、春香はぼそりと呟いた。


沈む夕日はそんな無情な世間を表すように、途方に暮れる春香の顔を、熱く照らした。



………結局、その日の仕事が終わったのは、電車が終電を向かえる一歩前。

バスの方は、もう走ってすらいない。


それならまだいい方だ。

酷い時には終電すら間に合わず、女一人で会社に寝泊まりする事もあるからだ。



「………保存っと」



今日した仕事を保存し、うーんと背伸びをする。

ようやく、一日の仕事が終わりを告げた。


当たり前だが、窓から見える景色は真っ暗。

オフィスで明かりが点っているのは、春香の机だけだ。

彼女以外に働いている人間は、一人もいない。



「………まったく、なーにがデートだ、なーにが結婚できないだよえらそーに」



この場にいない上司と同僚に毒づきながら、春香はパソコンの電源を落とし、机の電気を消す。



「………ああ、ダメだダメだ、楽しい事考えなきゃ」



闇に沈みかけた意識を振り払い、楽しい事を考える。


たとえば、今朝の少年の事。

可愛かったなあ、綺麗だったなあ。


これで、春香の心は闇に沈まずに済んだ。



「………お疲れ様です」



誰もいない仕事場に向かい、自分に対してそう言葉をかける。

そしてタイムカードを押し、春香の一日は終わりを告げる。


バスも通らないような深夜に帰る事になっても、明日の出勤時間が遅くなる訳ではない。

早く帰らなければ。


春香は、部屋を後にして駅に向かう。

歩けば終電に間に合うが、彼女の足取りは急いでいた。





………………





外に出ると、窓から見たように夜闇が広がっていた。

終電が近い事もあってか、ネオン輝く夜の店も、店を閉めている所がちらほら。


会社については、自分よりも遅く残って仕事をする人間がいるらしく、夜景を彩る光を灯している。


丸山の方も、振り向いてみれば明かりがついている部署が見えた。



そんな夜の町を一人、駅を目指して歩く春香。

見上げても、空気の淀んだ町中では星は見えない。



「………はぁ」



ため息を吐く春香の脳裏に、ふと、考えが浮かんだ。



「………私、何のために生きてるんだろ」



考えてもみれば、春香は毎日が同じ事の繰り返し。

夜遅くまで働いて、寝る。

それの繰り返しだ。


同じ事の繰り返しは一見すれば楽だが、これはこれで辛く苦しい。

趣味も持たず、休日も疲れから寝て終わる春香からすれば、直の事。



実家で暮らす親から、何度も結婚の催促の電話やメールがかかってくる。


自分ももう27で、身を固めなければならないのは解っていたが、行動を起こす体力は全て労働に回される。



「………私、多分仕事しながら死ぬんだろうな」



身体にガタが来て、入社当時のように働けなくなってきている。

しかし、会社は容赦なく仕事を与えてくる。


最近、働きすぎた人間が仕事中に突然死を起こすニュースが多発している。


春香は、きっと自分も働きながら限界を迎え、倒れるのだろうと思っていた。


だが、恐怖は感じなかった。

労働は、恐怖を感じる心すら麻痺させていたからだ。



「………早く帰ろ」



そんな事よりも、家のベッドに早く入りたい。

ふらつく足で、春香は帰路を急ぐのだった。

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