2章第2話

「ようこそおこしやす」


 タクシーで三十分余りもかけて辿り着いた睡雲閣なる温泉旅館は、辺鄙な山の中にある割には壮麗だった。八畳敷きの和室は庭園露天風呂付き、もちろん大浴場にも自家源泉かけ流しの広い露天風呂がある。


「ひゃっほう」


 リオンは部屋に上がって案内の人間が去るや否や、畳の上にひっくり返って転がり始めた。こいつ、どんどん時間を追うごとに子供っぽくなっていってる気がするんだが、名前を半分おれに貸し与えているのが影響しているのか、姿かたちに引っ張られているのか何なのか。


「ダンテ、何をぼさっとしている。余は茶を所望だ」

「あいよ」


 おれは部屋のポットで湯を沸かし、煎茶を淹れ、お着きの菓子を添えてちゃぶ台の上に置いた。茶の淹れ方くらいは、分かる。何故ならダンタリオンの半身を与えられたときに、人間として最低限必要な知識・所作などはこの身体から引き出せるように備わっていたからだ。


「このあとどうするんだ?」

「どうって、好きにしろ。さっき聞いた通り夕餐は六時だ。それまで自由だ。温泉入るか?」

「そういうことじゃなくてな」


 おれがじとっとした目でリオンを見据えて言うと、リオンはひっくり返って上を向いたままこちらを見て、一瞬真顔になり言った。


「そう焦るな。今日の今で慌てて何処かを駆け回ったところで、お前の正体の手がかりなど見つかりはせん。それより、今は今しかないんだ、せいぜい今のうちに楽しんでおけよ」


 そう言うと、リオンは一体どこから取り出したのかハードカバーの大きな本を読み始めた。取り付く島はなさそうだ。仕方がないので、とりあえずテレビを付けてみる。


「テレビ京都、天気予報のお時間です。九州を縦断してそのまま日本海に抜けるかと思われていた台風5号ですが、進路を変え、東に進み始めました。その影響で、明後日から近畿地方でもお天気が大きく崩れることになるでしょう」

「おい、台風だってよ」

「じゃあ明日は観光だな。明後日からは旅館の中でのんびりしていよう」

「観光するのか。そしてここに長逗留するのか」

「しては悪いという法はない」

「そりゃあそうだが」


 観念した俺は適当にテレビのリモコンをいじった。


「見てください、この身の詰まった大きな蟹! これが今なら二ハイで——」

「マンバイキン! やめるんだ!」

「へぇ、お武家様方。水炊きでよろしゅう御座いましたら、すぐにご用意の方が出来ますが」


 テレビショッピングにもアニメにも時代劇にも特に興味はないのでチャンネルを変え続けていたのだが、やがて教育番組をやっているのにぶつかった。いかにも学者然としたコメンテーターが、何か天文学の話をしている。


「……といったように、以上のような星の事を彗星・小惑星遷移Comet-Asteroid Transition天体または枯渇彗星核と呼びます。1999年から地球の遠周を軌道周回するようになり、地上から肉眼では見えないものの現在通称を“第二の月”とも呼ばれる小惑星ペレグリヌスも広義の分類ではこのCAT天体の一種であり……」

「そんなことがあったのか」

「あったな。魔界でも結構話題になったぞ。見に行った暇な悪魔もいた」

peregrinusペレグリヌスという言葉は、元々ラテン語で《異邦人》ないし《放浪者》を指すものです。中世にはそこから転じて、《巡礼者》という意味でも用いられていましたが……」

「リオンも持ち前の好奇心とやらで行ったのか?」

「いや。宇宙空間を移動できる存在は神や悪魔の中でもごく限られる。そういう意味では、アポロ計画はまったくもって人類の偉大な快挙だったな」

「ふーん」


 その他とりとめもなく、四方山話をして時間を過ごす。


「さて、そろそろ風呂に入るか。飯の前に」


 と言ってリオンが立ち上がったので、おれは警戒する。だが、リオンは(今回は)その場で服を脱ぎ棄ててすっぽんぽんになったりはしなかった。浴衣を手にし、髪をゴムで留める。


「……部屋風呂じゃないよ。大浴場に行くんだよ。何だその顔は」


 表情を読まれた。おれはどんな顔をしていたのだろう。


「行ってくる」


 ぶすっとしているのか何なのか、よく分からない表情を浮かべ、リオンは部屋の戸を開けて出ていった。テレビはまださっきの番組を流している。


「……というわけで、ペレグリヌスによる太陽蝕が観測できる日はまもなくやってきますので、天文ファンの皆様におかれましては……」


 おれはテレビを消し、自分は部屋風呂を使うことにした。いい塩梅だった。




【ペレグリヌス】?


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