エピソード9 コロナウィルス ボルシチ
8-8=N
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一週間前
僕は、僕の頭の中がおかしくなってしまったと思った
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その日の朝、目が覚めると一ヶ月前に投身して自らの命を絶った妻がベッドの枕元に腰掛けていた
おはよう、ずっと見ていたのよ
と彼女は言った
僕は夢を見ているのだと思い、妻の顔ををじっと見ていた
なあに?
彼女は少し照れたようにうつむいた
ごめんね、こんなふうに出てきちゃって...
私、おばけみたいよね...おばけってことば...なんかイヤな響きね
妻はクスクスと笑った
これって夢だよね?
僕がかすれた声で聞くと、彼女は僕に顔を近づけた
触れる事は出来ないけれど...夢ではないのよ
彼女は僕に優しくキスをした
けれども彼女の唇の感触はなかった
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妻はすべての出来事を覚えていた
コロナウィルス感染の後遺症で、味覚障害になった事
食べる事が苦痛で、身体が痩せて心が病んだ事
僕に冷たく接した事
実家に帰った事
そして 自分の舌を切り、投身して自らの命を絶った事
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味覚がなくなっただけなのに...ぜんぶ壊れちゃって
彼女は静かに泣いていた
*
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そんな彼女がいる生活が一週間を過ぎると、次第に僕も慣れてきた
*
*
良い香りね
キッチンで僕の横に並び、嬉しそうに僕が作るボルシチスープを見ていた
食欲とかはあるの?
彼女は首を振った
とても残念なのは...
臭覚はあるのに何も食べることが出来ない事と、お腹が空かない事
彼女は僕の腰にそっと手をまわした
それと、あなたに触れる事が出来ない事
僕の腰には彼女の手の感触はやはりなかった
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究極のバーチャルリアリティよね
ベッドの上で僕の横にいる裸の妻は小さく笑った
自殺なんてしなければよかった
彼女はそう言って僕の肩に頭を乗せた
けれど彼女の頭の重みや柔らかい髪のしあわせを感じる事はできなかった
*
ねえ、
さっきのビーツという野菜の入った赤いスープの味が知りたいの
あなたの言葉で表現してみて
彼女は頭を上げ、上目遣いで僕を見つめた
僕を見つめる妻は驚くほどに素敵だった
*
僕は、僕の頭の中は正常だと思った
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8-8=N
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