第4話
*
「壁の外を見てみたいの」
「ことばに気を付けた方がいい」
「壁の向こう、ね。大丈夫よ。そうでしょ?」
「ああ、チクる気はないさ、ただ他の客が……」
「信用してるのよ、ミスター」
「ああ、そう……」
「あなたは行ったことがあるのよね?その……」
「暗黒界」
「そう、暗黒界」
「つまらないところさ……」
*
壁を越える仕事は、裏社会ではそう珍しくない。多くの場合、北か西の土地へ、地下を通って向かうことになる。映像の記録や、取り残された資源の回収が主な仕事だ。危険は小さく、報酬も少ない。
つまらないところ。その通りだ。暗黒界に、子供たちが期待するようなロマンはない。枯れた大地に、腐敗した文明の残骸が点在し、そこに身を寄せ合うように、痩せた灰色の人間たちが居る。彼らは皆膝を抱えて座り、じっと黙っている。ただそれだけ。逃げもせず、攻撃もしない。視線はこちらに向いているが、気がついているのかはよくわからない。近づくと面倒くさそうに立ち上がり、近くの穴へと消えていく。地底人。退化した人間。文明にスポイルされて、野生に戻ることすら叶わなかったものたち。
唯一見応えがあるのは、北方の壁に吊るされた死体の群れだ。頭上にずらりと並ぶ、何百、何千という数のミイラ化した国賊たち。どれもひどく崩れているが、かつて人間だったことはわかる。無数の、なにかしらの夢のあと。壁の外とは、まさにこの光景そのものだ。灰色の人間、乾いた死体、貧困、荒廃。それ以上でもそれ以下でもなく、恐怖もなければ神秘もない。ただの余白だ。
海を越えない限りは。
*
「暗黒大陸を知ってるか?」
「南の海の向こうの?」
「あそこは怖い」
「海を見たことがあるの?いいなあ」
「上陸もした……恐ろしい場所だ」
「どう怖いの?」
「二十人が上陸して、生きて戻ったのは俺一人だ」
「さみしいね」
「あの土地は、夜になると黒いなにかが現れる」
「黒いなにか」
「あの暗闇じゃ、何も見えない。それは闇に紛れて人間を食うんだ。音もなく。それは肋骨で人を食う……」
「ふふ、からかわないでよ」
「なに?」
「
*
暗くしてると、
躾のための決まり文句だ。Qはおよそ躾というものを経験しなかったので、それを知らなかった。彼の父はギャンブル狂いのろくでなしで、母はチューブ依存の末期患者だった。十四才のとき、彼は両親を見限った。そして暗闇依存を治さぬままに、中年になってしまったのだ。
しかしやがて彼は気づく。彼は荒野の夜を知らなかった。壁の向こうでの仕事は、いつも朝に始まり、昼過ぎには終わった。彼はその理由を理解した。
*
「ミスターみたいな悪い子は、真っ先に食べられちゃうわね」
エラの細い、オレンジ色に光る人差し指が暗闇を泳いだ。Qは黙って頷いた。
*
次の日から、自宅では電気を点けたまま眠るようになった。彼はエラのいない暗闇が怖くなった。しかし、習慣の変更は苦痛を伴う。光の中では、彼は満足に眠ることができなかった。うまく眠れても、いやな夢を見た。疲れがとれず、日中はいつも苛立っていた。
暗闇を恐れ始めてから、日常に点在する影が目につくようになった。影を作らない。それは不可能だ。建物の隙間、ほそい路地、蛍光灯の切れたトンネル、人のいないトイレ、冷蔵庫の中、自販機の下……。永遠の昼なんて、そんなものはどこにもない。国の欺瞞を、彼は改めて痛感した。夜は偏在する。いついかなるときにも。
*
気がつくと、視界は黒一色であった。彼は慌ててヘッドライトを点けた。白い光が辺りをぼんやりと照らすが、ここかどこかは分からない。雪が降っていることだけは分かった。彼は歩き始めた。
やけに静かだ。彼は怯えていた。二メートルより先は暗くて見えない。何か潜んでいるような気もした。しかし、進むしかない。
不意に、黒い影が彼の鼻先を掠めた。尻餅をつく。暫し呆然とする。体が動かない。
(ああ、俺はここで死ぬのか)
彼は立ち上がり、再び歩き始める。
なにかを踏んだ。やわらかい感触。見ると、枕のようだ。前方を照らす。シングルベッド。毛布が膨らんでいる。ちょうど、人間一人ぶんくらいの大きさ。
「誰だ」
膨らみがもぞもぞと動く。
「何をしてる」
「ああ……」
Qは銃を向ける。
「何をしてる?」
「読書」
「なに?」
「こんな時代だから、本屋は感染症特集を組んでる……カミュの『ペスト』、デフォーの『ペスト』、ジョン・スノーの伝記、小松左京の『復活の日』……」
「なんだ、なんの話だ」
「いまいちばん気になってるのは、『赤死病』というSF小説だ……知らない作家だが、有名らしい……題名はポーの短編から取っているんだろう……私はあの話が好きだ……」
「ここはどこだ」
「海の底さ」
「なに?」
「深海は私を惹き付けて止まない……」
毛布が発光し、弾け飛ぶ。青い光が辺り一体をオーロラのように照らす。Qは愕然とする。
ゆっくりと降る雪。浮遊する黒い軟体動物。岩のような、無数の牙を持った魚。あちこちから吹き出す煙。噴火口に群がる夥しい数の海老。宙を泳ぐ黒い蛇は、その体の半分を口が占めている。
突然、青い光が消える。再びの暗闇。近くから声がする。
「……ルーグ……ルーグ……ルーグ……」
声のほうを向くと、そこはインクのように黒い。ヘッドライトの光を全て吸収する黒。視界の端に、開いた肋骨の先端が見える。
(
暗闇が彼を呑み込む。
*
目が覚めた。見慣れた天井。点けっぱなしの蛍光灯。最悪の朝だ。しかも月曜日。時刻はまだ四時だった。彼は起き上がり、風呂場へ向かう。汗だくだ。
シャワーを浴びながら、彼はエラの部屋をイメージした。心の緊張を和らげる最良の方法だ。一〇五号室。八畳ほどの広さ。ダブルベッド。その横の小さな棚には、コンドームと、彼の蝋燭やマッチがストックしてある。白いシーツの上の、少女の裸。褐色の裸。黒髪、黒い陰毛。細い手足、控えめな胸の膨らみに、その先のいたずらっぽい乳首。紅い唇……。
……電気を消さないの?……
……ああ、いま消すよ……
シャワーの音。
早く、あの女を自分のものにしなければならない。体を拭きながら、彼はエラの購入を決意した。
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