第3話

  *


 ある月曜日の朝、電車に揺られながら、Qは珍しく新聞に目を通していた。記事は光の党のプロパガンダが大半で、残りは全て犯罪についてだった。犯罪のニュースは、真っ白に消毒されたこの国における数少ない娯楽だ。殺人、暴行、誘拐。今日の一面は昨日の銀行強盗だった。そして月曜の朝刊では毎週、前の週に出た行方不明者の国内総数と、州ごとの内訳が発表される。Qが新聞を買ったのもこれが目当てであった。先週の行方不明者は四百七十八人。Qはにたりと笑う。発表欄の横に、小さな記事が添えられている。


〈行方不明者 三週連続四百代〉

「一週間のうちに報告された行方不明者の総数が、三週連続で四百人代となった。昨年は平均して週あたりに約百五十人だった。」


 残りは不自然な空白。政府の検閲の跡だ。大方、これは異例のことだ、驚くべきことだ、原因はなんなのか、などと書かれていたのだろう。あまり意味のない修正だ。ちなみに、光の党は黒塗りを使わない。黒は悪い色だから。

 それはさておき、異常事態だ。どうやら、〈消防局〉を管理する組織と、情報を管理する組織との間で、連携が上手く取れていないらしい。まあ、それはQにはどうでもよいことだった。むしろ今回は助かった。彼が最近肌で感じていた違和感を、とりあえずは消化できたのだ。

(やれやれ。最近、妙に忙しいと思ったんだ)

 彼は新聞を畳み、窓の外を見た。よく晴れた空。金持ちの乗る黄色い気球。灰色の団地が広がるその向こうには、北方の壁が見える。今月のスローガンは、「大いなる行動」。


  *


 あれ以来、Qは毎週エラのもとに通った。

 金はあった。週四十八時間の訓練で安定した時給が手に入ったし、〈外回り〉一回につき結構な額の臨時収入が手に入った。そして〈外回り〉の要請は日に日に増えていた。最近では一日に三人以上始末することも少なくない。高級チューブを常用するようになっても貯金は増えるばかりであった。数年前には想像もできなかった生活だ。

 傭兵稼業と日雇い仕事で食い繋ぎ、貧民街を駆けずり回って暮らしいた彼からすれば、訓練も任務も楽なものだったし、リスクを背負うことに抵抗も無かった。まれに場違いな罪悪感から離職する同僚もあるが、彼には無縁の運命だ。自分の殺した人数を数える、その発想がそもそも彼にはなかった。窓口で封筒を受け取り、指定された人物を指示通りに殺害する。しかるのち、封筒を燃やす。仕事内容は単純であり、光学迷彩のおかげで遂行も容易だ。彼は〈消防士〉の仕事が気に入っていた。加えて腕もよく、ヘマをしたことがなかった。〈消防士〉は、彼にとってまさに天職であった。


 エラとの逢瀬は土曜日になることが多かった。翌日の昼過ぎまでゆっくりできるからだ。知らない誰かを縊り殺して得た金で、Qはエラを買い、その華奢な体をむさぼった。行為の合間で、彼はエラと雑談をしたがった。彼はエラとの間に何か精神的な繋がりを求めつつあった。そしてエラはQの要求に快く応じた。彼はたくさんの嘘をとめどなく話した。エラはニコニコしてそれを聞いた。彼はそれだけで満足した。そして虚構のストックが尽きると、彼は再び行為に奔った。

 充実した日常だった。ほとんど完璧と言って良かった。しかし、欠陥とは完璧に近いほど目立つものである。彼はやがて、エラの娼婦であることを気掛かりに感じるようになった。きっかけは些細なもので、ある金曜日の晩、彼は娼婦の体にいくつかの痣を見とめた。乱暴な客がいるのだろう。かわいそうだが珍しいことではない。しかし、エラを哀れむよりも先に、彼は不意に現れた他の男の影に面食らっていた。その男がエラを殴打する様子を想像して怒りを覚え、そしてその拳の下で、半笑いで暴力に応える娼婦の姿に出会い、軽い目眩を覚えた。その情景は彼の人生への侮辱のように思われた。急に立ち上がった気掛かりをかき消そうと、Qはその晩エラを激しく抱いた。しかしそれ以降、気掛かりは萎むことなく、むしろ肥大するばかりなのだった。


  *


 冬の弱り始めたある日、Qは男を一人殺害した。まるまる太ったその死体を始末するのにはたっぷり二時間かかった。事務所に戻り、食堂で昼食を食べている間も、手に残った薬品の匂いが気になった。

「よう、ロリコン」

 振り返ると、同僚のカワハギだった。ペットボトルを手に持っている。Qは黙ってパンを齧る。構わず、カワハギは隣に座る。

「マンネリズムは機密の敵だ。同じことを繰り返せば、擦り切れて、穴が空く」

 彼はコーヒーの入ったボトルを開ける。

「蝋燭男が贔屓を見つけたってな。あの通りの女の子たちは安心してるぜ」

「それは良かった」

「明るいとこだと勃たないってのは本当なのかい?」

 Qは答えない。彼は最後の一切れを口に放り込み、チューブの箱を胸ポケットから取り出す。

「調べてみたが、小児性愛は完治に最短一年半、暗闇依存は三年以上かかるらしい。全く、手のかかる変態だな」

 一本取り出し、片手で折って咥える。

「幸い、〈消防士〉は公務員だ。福利厚生はばっちり。病名を伝えれば、治療費は上が受け持ってくれるよ……」

 Qは焦らない。カワハギの方でも、本当に脅しているわけではないのだ。ただ、Qが握るカワハギの弱みの値段が、彼がQに対して持つそれよりも高いことに何かの拍子で気づいてしまった。それで新しく秘密を仕入れた。それだけのことだろう。風俗以外で発露しない小児性愛と暗闇依存をネタに、快楽殺人鬼が人を強請るなど不可能に近かった。カワハギは不安を払拭したいだけなのだ。新しい秘密の確保をQにわざわざ伝えたのは、威嚇というよりは、屍体処理を含む仕事を取られたことへの腹いせだろう。カワハギの鼻は薬品の匂いを逃さない。今も、彼はQが発するその匂いにうっとりしているようだった。Qはチューブの残りをTにやった。それは儀式的な行為だった。

「今度から、屍体の残らない仕事はあんたに回すよう気をつけるよ」

「ああ、助かる……実は最近、ご無沙汰なんだ……」

 皮剥カワハギはコーヒーをぐいと飲み込む。この男は根っからのサディストで、屍体が残らない仕事を選んでは標的を遊び道具にしている。Qのパソコンにはその様子を撮影したデータが保存されており、カワハギはそのことを知っている。Qはチューブを吸う。殺人鬼は満足して席を立つ。

「まあ、明るい部屋でもヤれるよう努力することだよ。それが普通なんだからな…」

 Tの広い背中を見送りながら、Qはエラの身体を、暗闇の中、蝋燭の光でオレンジ色に浮かび上がる少女の肌のことを考えていた。

(彼女の値段は、どれくらいだろうか?)

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