第2話

 ***


 影を作らない。それは不可能だ。どんなに街灯を増やしても、いくら監視カメラを設置しても、物陰はあり、死角はあり、犯罪は起きる。影は存在の証拠だ。人の足元は常に暗い。生きていれば秘密が生じ、謎は尽きず、不安も跡を絶たない。とある統計によれば、日本のカップルのおよそ八割は性行為のときに部屋を暗くするそうだ。世界的にはどうなのか、それは知らないけれど。

 なんにせよ、全ては暗闇から生じ、暗闇に還る。ただそれだけのこと。今も、昔も、これからも。(2020年9月/データはおそらく数年前のもの、出典は失念)


 ***


 Qは町外れの風俗街にいた。冬の空はもう真っ黒になっていた。

 お上の建前がなんであれ、人間には夜が必要だ。その最低量は人によってまちまちで、Qはそれが比較的大きなタイプだった。そうした男たちの受け皿が、この知名度の低い、マニア向けの通りだ。

 乱立する街灯には桃色や橙色のセロハンが被せられ、法令違反寸前の薄暗さが通りを満たしている。猥褻な光の柱の中を無数の蛾が飛び回り、地面には蠢くそのシルエットが映し出される。

 男たちは表に並ぶ店舗に料金を払うと、その奥へ、名目上はいちど店を出て、個室に入る。書類上、そこは娼婦の自宅であり、室内は暗闇を許された私的空間である。男たちは娼婦の個人的な客人として女を抱く。このようにして、暗い娼館が成立する。

 部屋に入ったQはコートを脱ぎながら、こちらに笑いかける娘をまじまじと眺めた。自分のことながら、その性的倒錯にため息が出る。華奢で小柄な身体を白いワンピースで包んだこの浅黒い娘はきっとまだ十代であろう。胸が小さく、額の大きい、幼さの残る黒髪の娘。毎度のことなので、店主はもうQに要望を訊ねないようになっていた。娼館の店主からすれば、こうした執着は珍しいものではない。こんな街なら尚更である。

 脱いだコートを、いつの間にか傍らに立っていた娘が受け取り、ハンガーにかけた。それを終えると彼女は振り返り、Qににっこりと微笑んだ。

 しかし、この笑顔のなんと邪気の無いことだろう!

 Qが娼館に通い詰めるようになってかれこれ数年経つが、こんな娼婦は初めてだった。まるで本当に子供のようだ。Qはむくむくと膨らむ興奮と共に、冷たく鋭い罪悪感を感じた。その気持ちを紛らわすため、彼は娘に話しかけた。

「名前は?」

「エラ」

 嬉しそうに娘が答える。エラ、エラか、いい名前だ……。Qは意味の無いやりとりをしつこく繰り返した後、決心したようにエラの服を脱がせた。そして懐からマッチと、二本の蝋燭を取り出す。それを見た娼婦は、ああ、困った、というような顔で、サディストか、マゾヒストか、彼に尋ねた。

「どっちも違う」

 そう答えながらQは蝋燭に火をつけ、ベッドサイドにそれらを立てた。そして彼自身も服を脱ぎ、おもむろに部屋の電気を消す。エラは再び笑顔になり、Qはそのことに満足する。


 行為の最中も、そのあとも、エラは終始上機嫌だった。子供っぽいが、それでいて妖艶で、なおかつ従順だった。Qは彼女のことがいたく気に入った。翌朝、彼はエラにとびきりの額のチップを渡した。エラは彼の頬にキスをした。

「また来てね、ミスター」

「ああ、そのつもりだよ」

 Qはすっかり夢見心地だった。


 恍惚として店を出た。外は工場からの煙が立ち込め、それを早朝の淡い光が照らしていた。街灯が消え、太陽もまだ満足に輝かないこの時間の明るさがQは好きだった。彼はゆっくりと、誰もいない通りを歩いた。地面は蛾の死骸で覆われ、舞い上がる鱗粉を煙が取り込んでいる。特有の、目眩のするような匂い。

 通りの屋根や看板にひしめく卑猥な誘い文句も、こんな朝には牧歌的に見えた。Qはなんだか嬉しくなって、大切に取っておいた最後のチューブを折って口に咥えた。目を閉じて、深く息を吸う。ブランドものなので効き目が出るのも早い。脳を取り出した空っぽの頭蓋を、冷たい地下水で洗っているような爽快感。煙のケミカルな匂いを立体視し、羽を踏み砕く足音の温もりを味わう。舞い上がる鱗粉の一粒一粒を目で追うこともできる。心配ない、人生は美しい。

 波が過ぎると、どうしようもない寂しさに襲われる。目の前が暗い。気がつくとQは電気街にいた。大通りの片隅にチューブの自動販売機が見え、一箱買うことに決める。高級品は強すぎて、安物を一服挟まないと戻るのが難しい。

 財布から小銭を取り出すが、指が震えて落としてしまう。一枚は転がって、自販機の下に消える。仕方なく屈み込み、隙間を覗く。

 目が合った。真っ暗で何も見えないのだが、彼は確かにそう感じた。初めての感覚ではない。

(ああ、俺はこいつを知っている…!)

チューブの影響で記憶が暴発した。暗黒大陸、黒い生き物、甲高い叫び声。ルーグ!ルーグ!ルーグ!

 仰向けの状態で目を覚ます。どうやら少し気絶していたらしい。首だけを動かして恐る恐る自販機の下の影を覗き込むが、案の定何もいない。チューブの見せた幻覚だろう。ともあれ、隙間のコインは見限ることにした。気味が悪かった。

 一番安いチューブを一箱買って自販機に背を向けると、薄い、歪な影が足元に伸びていた。振り返ると、太陽が詩人たちの棒を照らしている。Qは自分が壁近くにいることを思い出した。壁には光の国の基本的な理念、および月毎のスローガンが大きく記されている。今月のスローガンは「幸せの秩序」だ。Qは家路を急いだ。憲兵に目をつけられると面倒だ。

 酔いはすっかり醒めていた。歩きながら、Qは再びエラのことを考えるのだった。

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