学業の思い出について(追)
前回の大学時代の思い出を振り返る文章を読み返していたのだが「なぜ私は大学で学んだという経験を有意義だったと思っているのか?」という肝心なところが抜け落ちていることに気付いたので、少しその点について触れてみたい。
前回何度も書いたように、私が大学で学んだことは現在ほとんど職業には生きていない。
ではなぜ私はそれでも大学で学んだ経験を有意義なものだったと思っているのだろうか?
まず一つは私の出自である宗教への反発に、概ねケリをつけられたような感覚を覚えたという点だ。
……いや、書き出しておいていきなりで恐縮だが、これは今となっては微妙な部分で、大学を卒業した時点ではそう思っていた。だが最近になって宗教2世が社会問題として浮上してくると、ケリをつけたと思っていた部分も色々とくすぶっていたことに気付かされたことを鑑みるに、問題は思っていたよりも根深いものだったということに再度気付かされるのだが……まあ、少なくとも自身の出自とそれなりに向き合ったという経験に多少の達成感があったのは間違いない。
というかこの点に関しては、結局大学で専攻を選ぶ際の私はそうせざるを得なかったと言う他ないと思う。職業に生かすための学問よりも、自身のルーツと向き合うことの方が私にとっては切迫した問題であったということだ。諸力によって形成された私の価値観に於いてはそう選択せざるを得なかったというに過ぎない。
もう一点、こちらの方が本筋というか、より多くの人に当てはまるだろうし理解されやすい部分だと思うのだが、知識は世界の見方を変えるという点だ。
他者から見れば社会的弱者としか言いようのない私の現状であるが、それでも毎日は割と楽しい。
一つの要因は割と精神的に落ち着いているという点にあると思う。まあこれには当然様々な要因が関係しているから難しいところではあるが、大学で哲学を学んだことも多少そうした面に寄与している。
卒論で、ニーチェとスピノザと人間の自由、といったことを扱ったのは前稿で書いた通りだ。
そうしたことについて調べ、考える中で、私自身の怒りも苦しみも必然によるものだと思えるようになった。特にスピノザの決定論的世界観はとても私の心を軽くしてくれたように思う。
しかしこれだけは勘違いして欲しくないのは、哲学は自己セラピーのためのものでは決してない。真理よりも自己の救済を優先したらそれは学問ではない。むしろあらゆる問題を噴出させて、挙句たとえ自身が精神的におかしくなろうとも、それでも真理を求め続けるものであるから価値があるのだ……というのは哲学のほんの入り口にしか立ったことのない私でも抱いている当然の姿勢だ。
もう一つはやはり、知識によって世界の解像度が上がるということだ。
近頃よく使われる「解像度」という言葉を自分も用いるのがどこか面映ゆくもあるのだが、まあそういうことだと思う。
人間生きていれば基本的にムカつくことばかりだ。
人間関係、経済問題、社会構造、労働搾取……上げればキリがないだろう。特に現代日本に於いて苛立ちを抱えていない人はいないだろう。
それでも知識があると、目の前の諸々の事象に対して様々な意味を見出すことが出来るようになる。
この自分の現状、この苦しみはどういった要因から生じてきているのか。そういったことについて理解が深まる。現状自体が改善されなくとも、その原因が理解出来ると思えれば苦しみは軽減される。何が苦しみの原因かがハッキリするということは、怒りの対象がハッキリするということだ。見えない敵よりも対象はハッキリしていた方が幾分戦いやすいものだ。
知識を得ると、常識の多くがさして意味のないものであることも理解出来てくる。この点は哲学というものの特徴の一つだろう。
「現状そうなっていることは、現状そうであるがゆえに正しい」という価値観で生きている人は驚くほど多い。
例えば資本主義、民主主義、法律、道徳、男らしさ女らしさ……挙げればキリがないが現状受け入れられているそうした価値観が絶対のものではないし、究極的には必然性のないものばかりだ。私がそうしたものに疑いの目を向けられるのは哲学を学んだことが大きい。そしてそれに気付けるということは、自分の生き方を自由にすることでもある。現代日本に生きる人々の悩みの多くは、そうしたさして必然性のない呪縛によるものだ。……と理解出来るようになる。
まあそうした姿勢を鮮明にし過ぎれば、当然周囲からは常識の無い人と思われることになる。その辺りはリスクとリターンのバランスをとってその都度自分にとって有利な方を選べばいいと思う。常識などは決して疑ってはならないもの……という呪縛から解放されることは生きることを幾分楽にするものだ。
もう一つ挙げるならば(わざわざ分類するほど分かれたことではないのだが。というよりもさっきからほとんど同じことを言及しているように思うが)物事を多角的に見られるようになるということだ。そしてそれは物事を見る楽しみを倍増させてくれるということだ。
知識が増えることで楽しみ方を知る、というのはどんな分野にも当てはまることだろう。
音楽を初めて聴いた時、人は何を以って良い悪い・好き嫌いを判断するのだろうか? 1つの曲しか知らなければその曲の価値は判断のしようがないだろう。色々な曲を聴くことでその比較に於いて自分の好き嫌い、良い悪いの基準が出来てくるのである。
……いや、実はこれは正確ではない。実際は価値判断の基準も他者から教えてもらっているのだ。
ある曲に対しては「この曲は静かで良いんだよ!」という価値基準を誰かから聞き、また別の曲では「この曲は爆音で良いんだよ!」という基準を知る。一見矛盾するようなものも含め様々な価値基準を知ることを繰り返してゆく中で、その人自身の基準が形成されてゆくのだ。
今は音楽を例にしたが、ほとんどのジャンルでそうした部分は存在するだろう。
色々と知識が増えると、自分は何が好きで何が嫌いか、という傾向を自分で掴みやすくもなる。一段階高く抽象的に自分の好みを把握しておくと、そうした傾向は他ジャンルにも当てはめやすくなるだろう。
また一見何の関係もなさそうな所に関係性を見出せる、というのも知識が増えてゆくことの楽しみだ。
物事の見方は常に部分と全体だ。収縮と拡大とも言えるだろうか。部分を深く詳細に見ることと全体を俯瞰して見るという正反対のことを繰り返すことで、世界への理解は少しずつ増してゆく。
世界をより詳細に理解出来たと思う以上の喜びは他にないだろう。
上記のようなことが、私が学ぶことで得られたと思っているものだ。一言で要約するならばやはり「世界を面白く見させてくれている」ということになるだろう。
じゃあ、それをわざわざ大学で学ぶ必要があったのか? と問われるとわからない。じっくりと色々な本を読んで、誰かと話すことを求め続けていったならば、究極的には同程度の学びは得られたかもしれない。
だがまあ私の場合は大学というものがきっかけになったことは間違いないだろう。同様に本当に自主的に強い意志で学び続けられる人は稀だろうから、大多数の人にとって大学や何らかの教育機関を利用することは意義のあることだと思う。
余談ではあるが、大学教育に関する最近の風潮に対して一つ思っていることがある。
最近は企業で働く社会人になるための準備期間という意味合いが求められ過ぎているという点だ。学生時代というのはもっともっとモラトリアムであるべきだ、と個人的には思っている。
社会人になってからの学びはどうしても実学中心になってくる。当然働きながらの勉強では割ける時間も限られてくる。私も基本的にはほとんど全時間に近い労働をしながらの勉強だった。もちろん同年代では少ない自分の状況に多少の矜持もあったし、卒業した時は達成感もあった。
だけどやっぱり今になって思うのは、10代後半から20代前半という若い時分の悩みや迷いはそれだけ価値があるということだ。歳をとってから彼らと同等の真正の迷いや悩みを抱ける人がどれほどいるだろうか? 若い彼らにモラトリアムを提供してやれない社会というのはとても貧しい社会だな、と最近になってつくづく思う。
私自身の場合も正直に言えばもっとじっくりと色々なことを学びたかった……というのは後悔の残るところだ。
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