学業の思い出について(下)

さて、18歳。高校卒業後すぐに某有名三流大学の通信過程に入学した私である。当初は実家住みで警備員として働きながら勉強の日々だった。


通信制大学の勉強の方法についてはほとんどの人が知らないのではないだろうか?

単位取得の方法は色々あるのだが、やはりメインとなるのはリポートである。

送られてきた教科書を読み、「○○について論述しなさい」という設問形式のリポートを書く。リポートは2000字以内。2単位科目ならリポート1本、4単位科目だったら2本必要だったと記憶している。そしてリポートが受理されると年4回実施される科目習得試験というものを受験する資格が与えられる。

これは各都道府県に設けられる会場に実際に赴き、試験を受けるというものだ。教科書の持ち込みが可能で、制限時間内にリポートと同様に設問に対して論述するという形式がほとんどだったと思う。


まあそんなわけで私は、仕事の合間にひたすら教科書を読み、リポートをシコシコと書き連ねる日々だった。

ただやはり経験のないことは難しいものだ。科目というよりも採点員次第だった気は若干するが、リポートが不合格で再提出になったことは何度もある。特に印象が強く今も覚えているのはE・H・カーの名著『歴史とは何か』をテキストとした『西洋史入門』だ。5~6回再提出になった記憶がある。

普通の通学過程ならばクラスメイトや先輩方に相談するということも出来るだろうが、通信課程は誰も相談する相手がいない。今思い返せば内容的にはかなり甘い採点の科目も多かったと思うが、勉強の進め方を掴むまでは中々大変だった。


加えて当時18~19歳の私は警備会社に入社した未来輝かしき新入社員でもある。プレッシャーももちろんあったし(今思えば18歳の少年に対して周りの大人たちは本当に気を遣ってくれていた)、不規則な生活リズムの中で、今より明らかに体力のない中でよくやったものだと我ながら振り返って思う。


もちろん誰にとっても仕事と学業の両立は大変だろう。

とりあえず入学したは良いが勉強のやり方がよく分からず、仕事に時間と労力を奪われるうちに挫折して辞めていった……という人はとても多い。調べたら最近の通信制大学の卒業率は15%ほどとあった。誰でも入学は出来るのだが卒業はそれなりに大変なのが通信制大学の特徴である。


私が苦労しながらも何とか少しずつ単位を取り大学を続けられたのは、やはり自分の資質・志向にある程度合っていたということだと思う。端的に言えば割と向いていた。やはり昔から本を読むことに慣れていたのが大きかった。

今も小説やこうした文章を書いているわけだが、この頃のリポートを書いた日々が今の礎となっているような感覚が強くある。




さて学んだ内容についても少し触れたい。

私が入った大学はかなり大きな規模の通信教育課程を抱えており様々な学部があった。商業・経済・法学・英文・国文……などの様々な学部の中で私が最初に選んだのは『文理学部歴史専攻』という課程だった。昔から歴史に興味があったという以上の理由は特にない。

日本史・東洋史・西洋史といった歴史の専門科目にももちろん興味を持っていたのだが、入学してすぐに一般教養の科目で様々な学問に触れることが出来たのがとても印象に残っている。

『哲学』『心理学』『倫理学』『宗教学』……といった科目に触れることが出来たのは、学問の奥深さと関連性を多少なりとも感じられてとても良かった。

一つ印象に残っているのは『論理学』という科目だ。数字を使わないで数学の証明問題をしてゆくような独特な学問だ。とても新鮮だったしリポートの評価も良かったように記憶している。もっと続けていたら今頃どうなっていただろうか?


その後幾つかの哲学関係の本に出会い、歴史専攻から哲学専攻に移ったのはどこかの稿で述べた通りだ。




さて、まあ警備会社で社員として働きながら勉強を続けてきた10代最後の日々だったが、当然ながらというべきか、思ったよりも単位は取れていなかった。

大学を卒業するためには最終的に128単位(たしかそうだったはずだ。間違えていたらすみません)の取得が必要なのである。4年間で卒業しようと思えば1年で32単位ずつ必要ということになるだろう。しかし私は最初の2年間で40単位弱しか取れていなかった。

それで思い切って会社を辞めて(むろん学業だけが要因ではないが)、2年生の末となる冬の頃に東京に出てくることにした。単身の上京ではなく兄2人と同居するという状況だったので、仕事も正社員ではなくパン屋でのアルバイトにした。ただパン屋のアルバイトも結構な労働量だったし、朝6時から昼3時までを週5,6日働く……という期間も長かったから結構大変だったが。


わざわざ東京に出てきたのは色々なスクーリング授業を受けられるからだ。

前述したように通信課程は、リポートと試験、という形式が最もポピュラーなのだが、それ以外にも直接対面の授業に出席して単位を取るスクーリングというものがある。ゴールデンウイークや夏休みの期間中に数日間集中して受ける講義もあったし、夜間の3時間を数か月間かけて受けるスクーリングもあった。

そんなわけで色々な方法を組み合わせ、3年生の時には一年で60単位ほどを取得した。まあ正直やっつけになってほとんど実になっていない科目も多かったとは思うが、それでも達成感はあった。

今思い返せば学問的には甘い採点の科目も多かったが、哲学の厳密性・厳しさに触れる科目も多少あった。その時は教授に対してすごく嫌な印象を持つのだが、後に思い返すとその厳しさこそが学問の素晴らしさだという気もする。……というか、そもそも哲学の教授などまともな人間ではないのである!……などと言うと語弊があるが、哲学とは常識を疑う学問でもあるし、細かい微妙な差異に敏感であることを求められる学問だ(それはもちろん哲学だけではないだろう)。そうした緊張感を湛えた科目は教授がそれだけ本気だったことの証拠でもあるのだろう。




東京に出てきて様々なスクーリングを受けてみると、通信課程には本当に色々な学生がいることを知る。何より一番感じたのは私のような現役年代の学生は少ないということである。

特に夜間のスクーリングなどはほとんどが20代後半から30代以上の社会人だった。そういう人たちはやはり学ぶ意欲がとても強い人が多かった。本当にそうした分野について研究したいという人、大卒の資格を取って収入増に直接繋げたい人……モチベーションの強い人はやはり授業を受ける態度も違っていた。

でもそんな立派な人たちばかりでもなかったように覚えている。(これはこの人唯一だろうが)酒を一杯引っかけてから夜間の授業に出てくる人もいたし、引きこもり・ニート歴が長く脱却のための第一歩として勉強している……という人もいた。

昼間スクーリングといって普通の通学過程と同様の時間帯に授業を受けている生徒たちは現役年代の学生がほとんどで、やんちゃ加減やチャラついた雰囲気は如何にも三流私大の学生たち……といった印象を受けた。彼らも接してみると悪い奴らではないのだが。


ただまあ大学というものはドライなもので、一つの授業が一緒でも、また次の授業でも一緒になるとは限らない。まして自分の選んだ哲学専攻では、ほとんど同年代の学生とは出会わなかった。そんなわけで大学ではほとんど友人というものが出来なかった。

しかし3年生の終わりごろにフットサルのサークルが出来たことを部報で知る。そこに参加したことでようやく友達と呼べるような人も何人か出来た。フットサルをやった後は飲み会もあったし、卒業間際には沖縄に旅行も行った。そこでも少し上の年代の20代後半から30代くらいの人が多く、色々と刺激を受けたし、とても良くしてもらっていた。残念ながら卒業して以降はほとんど疎遠になってしまったが。




4年生になると私の学部では卒業論文を書かなければならなかった。

テーマは、ニーチェとスピノザと人間の自由意志、みたいな話にした。今となっては具体的に何を書いたのかほとんど覚えていないが、やはり自分の出自である宗教への反発が根底にあったのは間違いない。

卒論は1~2か月という短い期間で集中して書いた。どれくらいの分量を書いたのかイマイチ覚えていないが、原稿用紙100~150枚くらいだったかな? となると4~6万字ということになる。とりあえず規定の分量いっぱいまで書いた気はする。

その期間はバイトも完全に休んで家に籠りひたすら卒論を書いていた。とにかく眠くて生活リズムも狂いまくった。というかイマイチその時の記憶がないくらいだ。それだけ大変だったのだろう。

今もそれくらいの集中力を発揮できればもっと傑作小説が書けるだろうか? ……いや、あれは短期間のゴールが見えていたから出来たことだと思う。

まあ何はともあれ、何とか卒論を書き上げ無事に卒業することが出来た。

しかし実は卒論に手間取り、事務処理上の問題もあって、結局4年半という微妙な期間で卒業することとなってしまったのはご愛嬌だ。




結局大学で何を学んだのか? それが今のお前に生きているのか? と尋ねられると微妙なところがあるのは、私の場合その経験が職業には一切生きていないからだ。

当然職業に生かし収入増の役に立たないならばわざわざ大学に行くなんて意味がない……と考える人が多いのも理解できる。

ただ私の場合は、歴史にしても哲学にしても職業に直接生きてくる可能性が低いことは初めから分かり切っていた。それでも私はそれを学びたかったのだ。そもそも大学で哲学など学んで職業に直接生かせるなんていうのは本当の研究者だけだろう。職には生きていないが根本の部分では間違いなく自分を形成している。今もこうして小説や文章を書いているのは大学の経験があるからだろう。

ともかく私にとってはかけがえのない貴重な経験であり、今も自分をかなり根本で支えているものだ。




さてこの稿を書こうと思い付いたのはTwitterで宗教2世の進学についての話題が流れてきたからだった。途中からは純粋に自分が書きたいから書いていたが。

親が進学に反対している、というかそもそも進学など選択肢として無い、当然学費の援助など見込めない……という状況の人も実際いるだろう。そんな人のために通信制大学という選択肢もあるよ、ということが提示出来ればこれに勝る意義はない。

時間的にも労力的にも働きながら勉強するというのは本当に大変だが、やってやれないことはない。

通信課程と言えどきちんと国に認められた正規の大学教育であり、卒業すれば『○○大学卒業』と堂々と名乗れる。

私の場合は哲学専攻というやや特殊な分野でもあったし、そもそもその後の進路選択に於いていい加減だったので職には生きていないが、当然きちんと職業に生きてくる学部や専攻も沢山ある。

でもやはりそれ以上に、学ぶということ自体がとても素晴らしいことだと思う。生きていく上での根源的な喜びだと私は思っている。もちろん独学でも学びを深めていける人もいるだろうが、誰かを通してしか深めていけない学びも間違いなくある。そのために大学という機関はとても便利だ。

学ぶに遅すぎることはないというのも真理だが、なるべく若い内に多くのことを学んでおいた方が良いというのも真理だろう。


ぜひ学ぶことを諦めないで欲しい。



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