もう一丁死について考えてみた
死についてぼんやりとずっと考えている。
何について考えても結局は死について考えることに行き着く。極論すれば死以外のことに興味がないように思える。まるで死ぬのをずっと待っているかのようだ。
もちろん私の言っているのは身近な人の死などという意味ではない。いずれ死ぬ〈私〉についてだ。
死について理解すればするほど恐ろしくなってゆく。自分の死とは世界の永遠の消滅に他ならない。その恐ろしさを直視して、なぜほとんどの人が発狂しないでいられるのか不思議でならない。だってこのままいったらいつか確実に全ては消滅するんだぜ? 永遠の責め苦の方が永遠の無よりもマシではないか?
たまに「いつ死んでも構わない」という主旨の発言をする人がいるが、あれは本気なのだろうか? 世界の全てが消滅するんだぞ? 死んでからは永遠の無なんだぞ? 生まれたいなんて一言も言っていないのに、永遠の死を与えられるのだぞ? そんな理不尽を受け入れられるのか? 絶対にそうなるしかないことが分かり切っているからといってそんな無茶苦茶なこと受け入れられるか?
もちろん私も社会性を持った人間であるから、私を客観的世界の一員として一応は位置付けている。
〈私〉が死んだ後もこの世界一般が変わらず続くということを信じている。だけどそれに一体何の意味があるのだろう、という声の方が圧倒的に強い。そのすべてと〈私〉は無関係なのだ。そのすべてと〈私〉は無関係であることを〈私〉は知っているのだ。
必然的に破滅的にならざるを得ない。死ぬことが怖すぎて死んでしまいたくなるくらいだ。
子供の頃から死についてずっと考えてきた。そこには親の授けた宗教が大きく影響しているだろう。
逃避としてあるいは復讐として、漠然と死にたいという気持ちを子供の頃は抱えていた。
だけどいつの間にか死にたいという気持ちから、死とは何か、ということを考えることにシフトチェンジしていた。
少なくとも私は死後の世界を信じることが出来ない。宗教が育んだ誠実さ故に私はそう考えるようになったと思っている。
ある意味ではこれはとても不幸なことであるとも思う。
死後の魂や復活、救いを信じられた方が幾分救いがあるのは確かだろう。
それならば多少自暴自棄にならないで済む。世界に残される子供のため、隣人たちのために、なんとか最後まで世界に貢献しようと生を送ることが有意義であると思えるからだ。
だから世界平和のために宗教は必要だというのもとても理解出来るようになった。
そしてそれゆえに宗教というものが、世界の平和秩序などという下らないものを守るために巧妙に構築された虚構であることもよりはっきりと理解出来るようになった。
言うまでもなくすべては幻想だ。
死の恐怖を紛らわせたところで、死を受け入れることが出来たところで何の意味があるのだろう? そんなものは誤魔化しではないだろうか?
手塚治虫『火の鳥』で、人間の後に地球を支配した知的ナメクジたちが死の苦しみや恐怖を呪いながら死んでゆくシーンがあった。知性を持たず死について理解しない方が苦しまずに済んだ。知性を持ってしまったことが悲劇の始まりだというのだ。
それはもちろん容易に理解出来るが、苦しみを減らすことを目的とするならば、生まれない方が良かったんじゃないだろうか? と方向に問いは転換されるだろう。
反出生主義という考え方がある。
どう考えても生きている間の幸福よりも不幸の方が総量が大きい。言うまでもなくそのうち最大の不幸は死ななければならないということだ。原理的に生まれなければ死ぬことはない。だから今後の人間全体の不幸の総量を減らすために(より幸福になるために)は子供を作らず、人間は緩やかに絶滅するのが良いという考え方だ。
功利主義的な尺度から見ればこれはとても合理的な考え方に思える。
だがまあ、正直言えば人間全体の幸不幸のことなんざあ知ったこっちゃない。
私は〈私〉のことにしか興味がない。
〈私〉は生まれてこない方が良かったのだろうか?
こう問い直すと、幸不幸の尺度やその意味は大きく変わってくる。というかそのほとんどが意味を失うように思える。
今後、幸福の百倍の不幸があることが明瞭判然に分かり切っていても、だからといって損切りのために今すぐ死ぬかといったら全然そんなことはない。
どんな苦しみも不幸もそれゆえに私の生を意味付けているのだ。どんなクソとしか言いようのない人生を送ったとしても、その惨めさに押しつぶされ生まれてきたことを呪いながら死んでいったとしても、それでも存在しないよりは存在していた方が良かったと言える可能性があると私は思う。
……いや違う。自身の人生に何の意味を与えられなかったとしても、そんなことは全然関係ない。それでも存在しないのと存在したのとでは全く違う。
〈私〉は生まれてこない方が良かったのか? という問いに〈私〉は答えることが出来ない。善悪という尺度よりも存在の方が次元が上、という感じだろうか。
どんな生を送ったとしても死は平等だ。
今後も存在するであろう世界一般のためにどれだけ貢献しようとも、それゆえに多くの人に賞賛されようとも、死んでしまえば何の関係もない。どんな極悪非道な生き方をして世界中の人から憎まれようとも、それとも無関係だ。
死は全てを等しく奪ってゆく。それが救いになる人ももちろんいるだろうが。
〈私〉の死は〈私〉と関係しているのだろうか? という疑問も生じてくる。
死んだ瞬間に〈私〉という存在が消滅するのであれば、その時死ぬのは一体誰のことなのだろうか?
自分が死ぬという表現は果たして正しいのだろうか? そう認識することはどこか矛盾があるようにも思う。
時間は死と無関係ではあり得ないだろう。
何十年も生きたという実感はまるでない。過去の記憶はもちろん存在しているが、それが果たして過去があったことの証明になるのだろうか?
「過去が存在していた」ということは一体何を意味しているのだろう?
〈今〉は過去や未来とは決定的に違う在り方をしている。「時間が存在する」とは〈今〉が存在することではなく、過去や未来が存在することを指しているだろう。時間とは時の間と書く。〈今〉という一点しか存在しないと考えるならば、その間は存在しないことになるからだ。
だがどう考えても存在しているのは〈今〉だけだ。
なぜかいつも〈今〉が与えられている。その〈今〉が私の記憶にある過去となぜか奇跡的に連綿と続いている。これが実感だ。
本当に〈私〉は存在しているのだろうか? 存在していると思っている〈私〉とは何のことだろうか?
〈私〉ではなく全然別の人間が『きんちゃん』をやっている……この状態を想像し得る、とずっと思っていた。
精子は数億分の一の確率で卵子と結合した、だから生まれてきた時点でその数億分の一の競争に勝ってきたエリートなのだ、と小学生の頃聞いたことがある。だから違う精子が卵子と結合していれば、全然違う誰かが『きんちゃん』をやっていた可能性がある……と簡単に想像できるような気がしていた。
本当にそうなのだろうか?
〈私〉とは記憶の集合に過ぎないのではないか? 何かの衝撃でふと記憶が霧散すればその瞬間に〈私〉も霧散するのではないだろうか?
存在していると思っている〈私〉は本当に存在しているのだろうか?
だけど逆の事象はあり得ない。外的要素も含め『きんちゃん』の記憶を完全にコピーした人間が誕生したとしても(他人からは『きんちゃん』にしか認識されないとしても)そこに〈私〉はいない……というのは容易に理解出来るだろう。
じゃあどこから〈私〉は生まれたのだろうか?
何一つ思索は深まらない。
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