ゴミ山の思い出について

オリンピックを開催したことは果たして本当に良かったのだろうか?ということに世間はもうほとんど興味がないように見える。

まあそれはそうだ。利権がどうとかコロナがどうとかそういった諸々のことを問うまでもなく、それは過ぎ去った出来事だからだ。当然のことながら日本全体でも色々な事件があるし、人々は自分の生活で手一杯なのだ。ほとんどの人にとって過ぎ去ったイベントが良かったのか、悪かったのかなどと問うことはあまり意味がない。

しかし私にとっては悪かったと言える。オリンピックの開催さえなければ、多少なりともまだ安穏とした暮らしを送れていたのではないか、という気がする。私は職を奪われたのだ。

以前の稿でも書いたゴミの中継基地の仕事である。

自分の思い出整理みたいなことで、今回はその職場について振り返ってみたい。

まあ職を奪われた、と言うと多少センセーショナルな感じがするが、実際には私がその職場に入った時には「オリンピックでここの職場はなくなるよ」ということを言われていたのだから、本当になんとかしようと思えばなんとか出来たのだろうが。




私はその職場の前はビル清掃の仕事をしていたのだが、有休の取得を巡って会社と揉めていた。同じビルでゴミ処理の業者で入っていた一人の青年と仲良くなっていたので、結局彼の紹介で私はそのゴミ処理の会社に移ることになった。

ちなみにその青年とは一時期一緒にバンドもやっていたのだが、今では疎遠になってしまった。彼はとても良いヤツだったので、また会いたいと今でも思っている。


当初は彼と同じようなビルの地下でゴミ処理のような仕事をするのだろうと思っていたのだが、面接してくれた部長に連れていかれたのは、川の上に船が浮かんでいる何だかよく分からない作業所だった。

実際に仕事に入る前に見学で仕事の様子を見せてもらったのだが、当初はその作業の意味がさっぱり分からなかった。不燃ゴミがクレーンみたいなデカい機械でプールくらいある四角い船に下ろされて、作業員は下ろされたゴミを5メートルくらいある竹竿を使って必死に搔き集めている……という印象だった。その作業は、ゴミによって崩れる船の重心を水平に保つためのものだった、ということを後に知るのだが、こんな仕事が世の中に存在するとは知らなかった。

ちなみに何故オリンピックによりその職場がなくなったかというと、ボート会場だか何かの関係で、船を用いたその搬出経路が変わってしまったためだ。


最初の頃はとにかく体力的にキツかった。

学生時代部活をやっていたわけではないが、運動は好きだったし日常的に走ったりもしていたから体力にはそれなりに自信があったのだが、周りに全然追い付けなかった。

先述した通りプール状の箱船(15m×6m×深さ4mくらいだろうか?)に機械で下ろされた不燃ゴミを、先に鎌みたいな金属が付いた5メートルくらいの竹竿で引っ掛けて手前に(船のへりに立っている自分の足元に)持ってくるという作業である。

竹竿は4キロほどの重さでそれにゴミの重さが加わる。それを引っ張り続けなくてはならないのだが、皆短距離走のようなペースでそれを行うのだ。もちろん常にそうではなく休む時間もあるのだが、作業に入ると皆競うようにハイペースだった。

初日などは仕事終わった後も腕がプルプル震えていたものだ。

しかも周りの皆はおじさんばかりだった。自分と同じ年齢のヤツが一人だけいたが、それ以外は5~60代、当時の責任者に至っては70歳を超えていた。そんなおじさんたち相手にまだ20代後半だった自分が追い付けない……というのはなかなか屈辱的な出来事だった。

「労働者スゲーな!」と思った。ずっと肉体労働をしてきた人間ならば、年齢はそれほど関係なくこんなにキツイ作業でも出来るものなんだな、と少し感動すら覚えたものだ。


しかも5月に入社したので季節は夏に向かっていた。

朝のうちなどは日差しの向きの関係で直射日光をもろに浴びるのが常で、瞬く間に作業着は汗に染まった。真夏などは染まるというよりも水を被ったような状態になり、シャツもズボンも絞ればいくらでも汗が出てくるような状態だった。

真夏の暑さも過酷だが冬の寒さも過酷だ。川の上では風を防ぐものが一切ないから、寒風吹き荒ぶ中かじかむ手で竹竿を振るわなくてはならないのだ。温度差のために川から水蒸気が立ち上ってくるのが目に見えるほどだ。防寒のためにカッパを着込んだりもするが、汗をかくとそれが身体を冷やすことにもなったりと……体温調節は中々難しかった。ヒートテックを初めて着用した時はその機能性に感動したものだ。まあ私はどちらかというと暑がりなので、冬よりも夏の方がキツかったのだが。


しかし3か月も経つと身体は慣れてくるものだ。力ではなく技術で仕事をこなせるようになってくるのはもっと先のことだが、とりあえず身体が慣れてくると、この職場の美味しい部分も見えてきた。

まずは実働時間が短いということだ。

07:30に集合して15:30に解散するまでが拘束時間なのだが、実働時間は断然短い。

朝に体操をして掃除をして、最初のゴミが搬入されるのが早くても8時半くらい。大抵は9時近くになってからでそれまでは待機時間だし、要は船のバランスさえ保てれば良いのだからそれ以外にも待機時間は沢山あった。本気で作業している時間は1日4時間に満たなかったと思う。ただ多い時は7~80トンのゴミを相手にしていたから、キツイ時は本当にキツかった。

大体最終のゴミの搬入が14時半くらいに来て作業は終了になるのだが、解散は15:30と決まっているのでそれまでは控室のようなところで待機する。みんなテレビを見たり、スポーツ新聞を読んだり、スマホをいじったり……と思い思いに過ごす。役所の下請けなので福利厚生はしっかりしているのか、職場で風呂に入って帰れるというのも魅力的だった。


そんなこんなで私は仕事が終わってから敷地内をジョギングすることにした。

それから以前の稿でも書いた通り、器具を拾い筋トレを始めるようになった。一人、私より10歳くらい上の人も仕事中に筋トレに精を傾けていた。また後半になると一人20代前半の若いヤツが入ってきて、彼とはサッカーボールを蹴ったり、キックボクシングのミット打ちなんかもやった。

とにかく職場にはプロテインを欠かさず持っていくようになった。実に充実した日々だったと思う。


身体を鍛えていても時間は余ったので、本も沢山読めたし小説を書くことも出来た。流石にノートパソコンを船の上に持ち込むことは出来なかったので、手帳サイズのノートに書いては、帰宅してからパソコンに入力するという手法だったが。

ともかく、あの暇な時間があったから自分は小説を書こうと思えたのかもしれない。

しかし6年くらいその恵まれた環境にいて、バンド活動なども多少していたが、何の結果も出せず本当に自分のやりたいことをやり切ったとはとても言えないところが、自分の人間的限界なのかもしれないという気もする。


他のメリットとしては、ゴミ回収のスケジュールの都合上、月末の29日以降は必ず休みになるという点だ。他の人との兼ね合いで問題なければ指定休も取れたので、取ろうと思えば1週間くらい休むことも出来た。

私は夜行バスなどを用い一人旅に何度も出掛けた。金沢、富山、奈良・京都、千葉、広島……また連休ではないが、土曜の朝から仕事して16時から21時くらいまで渋谷でライブを観て、22時新宿発の夜行バスで神戸に行って観光してAKBの握手会に行って日曜夜の新幹線で帰ってきて、月曜仕事に行ったこともあった。流石に疲労からか帰ってきて風邪を引いたが。


仕事自体に多少の変化もあった。搬入されるゴミの量は減っていったので船の上での作業は減り、仕分けの仕事がプラスされた。

新たな仕事が増えると「こんな大変なこと出来るかぁ!」と言いたくなるのだが、何だかんだで裁量がこちら側に任されると、適当なところで仕事を調整出来るので結局はさして大変にはならなかった。むしろ後半になり作業所閉鎖の時期が近付いてくると、仕事はどんどんいい加減になっていった。


職場には色んな人がいた。5~60代のおっさんばかりだったが、おっさんにも硬軟様々な経験を経た色々なおっさんがいるものだ。アルピーのコントに出てきそうな歯の無いおっさんもいたし、説教臭いおっさんもいたし、ちょっと精神的に病んでいるおっさんもいた。しかしまあ、思い出として美化されているのかもしれないが、今となっては一面的にイヤなヤツだった、という人はいない。


初代の70越えた責任者の時は良かったのだが、2代目の責任者は怠慢で自分だけ仕事をしないタイプだったので一種のクーデターが起きた。彼のサボりっぷりを書面にしたためて本社に送ったのである。

職場近くのサイゼリヤに集まって、皆でああでもない、こうでもないと彼の言動を思い出してはまとめ、私が文章化して本社に郵送した。

今思い返せば陰険なやり方で、何か他の方法がなかったものだろうか、とも思うが当時はそれだけ皆不満が溜まっていた。ちなみにその時の文章を最近になって発見したのだが、平易で明晰な説明、当の責任者に対する陰険で多方面からの攻撃、なりふり構わぬ慇懃無礼さ……私の個性が存分に発揮されているように思えて、一種の作品としてまだ残しておいてある。

その後、当の責任者は体調を崩してそのまま私たちの前から姿を消してしまった。もしかしたら手紙の件のショックがきっかけだったのかもしれないし、私などは恨みを買っていて当然という気もするし、何か他の方法があったのではないかと後悔は残っている。


その後、私にも「違う現場の責任者にならないか」という話を持ち掛けられたが、返答にまごついている間に立ち消えになった。その現場は良かったが、会社としてはあまりいい会社ではなかったので、別にその点に関して後悔はない。


今でも当時の生活を時々思い出す。私にとっては間違いなく充実した時期だった。






(了)

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