書くことについて

『小説やエッセイを書く理由や動機は何ですか?』


という質問をいただいたので、それについて考えてみることにします。

こうして質問をいただけることは非常に有難いことです。ありがとうございます。

SNS上で何点か要点だけ答えたので補足するような形になるかもしれませんが、改めて考えてみました。




・何かを表現するのに一番ローコストで、一人で完結する方法だから


これは色々な人が挙げている点だと思う。私がパッと思い付くのは、本谷有希子という作家の人が雑誌のインタビューで言っていたことと、天童荒太という作家が何かのインタビューで言っていたことだが、多分多くの物書きが同様のことを言っていると思う。


表現の形態は色々とある。映画、ドラマ、アニメ、YouTube、ラジオ、音楽の中でもダンスとロックバンドとオーケストラとでは全然違う。どれもそれぞれの特徴とその形態でしか表現できない領域というものがあると思うが、多くが初期投資を必要とするものだ。


例えば何か映像作品を撮影しようとするならば様々な機材が必要だろうし、自分一人で完結させられるものは少ないだろうから、多くの協力者の手を借りることになる。もちろん完成した映像作品の分かりやすさ・威力というのは、それに見合うだけの絶大なものだと思う。


音楽も楽器や機材が必要だ。もちろん歌やダンスなど身体一つで出来る表現もあるが、人前に立つには練習によってある程度の時間と労力を投資しなければならない。

楽器の習得も同様だ。しかも楽器は、始めれば誰かと一緒に演奏をしたくなるのが常だ。例えばベースを始める人の多くはバンドで演奏することを念頭に置いてのことだろう。チョッパーでベースラインとコードを同時に弾くようなソロベースを突き詰めるベーシストは死ぬほどカッコいいと思うが、そんな人は稀だろう。まあつまり楽器の醍醐味の多くは誰かと一緒に演奏することにあるわけで、そうなると一人で完結する表現ではなくなる。

私も以前バンドをやっていたことがあるし、今後もやりたいと思っている。誰かと一緒に音を出すというのは何物にも代えがたい魅力的な時間であり空間なのだが、難しさもある。表現がぶつかる・イメージがズレる……といった表現上の難しさもあるが、単純に一緒にやる人間と場所やスケジュールを合わせるのが難しくなってくるという部分もある。DTMのような打ち込みの音楽は一人で完結するが、機材は高価でとてつもない労力と時間が掛かる。知識も必要だ。


漫画というのは文章を書くことに近い部分があると思う。紙とペンさえあれば書けるし、一人で完結させられる表現であるという点だ。日本の発達した漫画表現というのは本当に素晴らしい文化だと思うし、私は子供の頃から漫画が大好きだったので、当然漫画を描いてみようと思ったこともある。……しかし、残念ながら私には絵心がなかった。子供の頃試しに描いてみた時は、絵を描くのに時間を費やし話が中々進められないことにイライラしていたように思う。


まあそんなわけで、消去法的に文章を書くという方法に落ち着いた部分が私にはある。自分一人でいつでも好きな時に書けるし、書くための道具も特別必要ない。今はノートパソコンを使って書いているが、以前は原稿用紙に手書きで書いていたし、スマホしかなければスマホでも書けるだろう。

 



・ある程度自分の資質・性格に合っているから


楽器や音楽で表現しようと思うならば、どうしてもある程度の練習が必要だ。漫画も大好きだったのだが恐らく人様に見せられるような作品を完成させるには、相当絵の練習をしなければならない……。

じゃあ文章を書くことに練習は必要ないのか?と問われるかもしれないが……そうなのだ。私は特に文章を書く練習をしたわけではない。最初に自発的に文章を書いたのがいつの頃で、何を書いたのかは覚えていないが特段苦労したという記憶はない。幼い頃から本を読まされていたから、やはりそれが生きていたのだろう。


でも、ほとんどの物書きがそうではないだろうか?小説を書いてみようと思い付いたら、とりあえず書いてみるだろう。

「小説を書くには描写力が必須だ。まずはこの目の前の林檎をどれだけ言葉で表現出来るか、その練習から始めよう!」という人はいないだろう。そうした練習はとても有効だと思うが、そこに行き着くのは何作も書いて自分の作品の表現力の足りなさに気付いてからだろう。

最近だと『小説の書き方』みたいな本を読んでから書く人は結構多いかもしれない。私も最近ではそうしたものを読んでその有効性を知っている。まあでも最初にそれに手を出すような賢明で計画的な考え方の出来る人間なら、そうしたマニュアルを読まずにある程度の作品は完成させられるのではないか、という気もする。


少し話はズレるかもしれないが、ウチの両親は共に中卒だがそれなりに本を読んでいたように思う。上の兄は自分でも右翼左翼なんかの思想を含んだ難解な小説を書いているし、姉はポルトガル語と英語が話せる。言語能力は他の能力に比べて遺伝的要因よりも環境的要因の方が大きいように思うが、どうなのだろうか?


物心ついた時から私は言語能力がそれなりにあった、そうした部分ではある程度恵まれていたということを述べてきたが、じゃあ小説を初めから書けたか……というとそれは全然別の話だ。純粋に言語能力が高い人はその辺に幾らでもいるだろうが、じゃあその人たちが小説を書けるかというと、そうではないだろう(もちろん書いたことはないが、書いてみたらとても書ける……という人もいるだろう)。


書き続けるにはそれとは別の、持続力とか忍耐力みたいなものがとても必要だ。

何となくイメージが描けてきて「間違いなく傑作になる!」と自分で思っている時が一番楽しい。細部まで書き込んでゆくにつれて、傑作からは遠ざかり何が言いたかったことなのか分からなくなる。そのズレに苛立ち、全部ぶん投げたくなるのをグッと堪え、とりあえずは完結まで持ってゆくことが、書き続けるためにはどうしても必要だ。


私が小説を書いているという話をした際に「へー、すごいね。俺なんか作文もロクに書けなかったよ。まず書こうと思えるのが才能だよ」みたいなことを言われたことがある。これはまあまあ的確だと思う。

私も子供の頃は作文が面倒で嫌いだった。原稿用紙5枚書けと言われたら5枚目の1行入った所で終わらせるのが常だった。

書くという行為はSNSが発達した現在、ほとんどの人が少なからずやっているものだ。ツイッターが出来るくらいの文章能力があれば、究極的には誰でも小説は書けると思う。アイデアなんてものはその気になれば幾らでもある(商業的に成功するためにはもちろんそこが大事だろうが)。

でも小説を書くなんていう酔狂な人は少ない。書き続ける人はもっと少ない。

書き続けるためには忍耐力や持続力が必要だし、そのためには短くても良いから作品を完成させた時の喜びを覚えておくことが重要だと思う。そして作品を完成させるにはある程度テクニックが必要になってくる。




・やり出したらやめられないものだから


文章を書くというのはジョギングとか筋トレとかに感覚的に近い。

書くことというのは私にとって、とても身体的に疲れる作業だ。頭で書くというよりも身体で書いているという感覚が強い。


私も最近ではこうして文章を書くことをある程度習慣的に行っているわけだが、その面倒くささは全くもって書き始める以前と一緒だ。出来ることならやりたくない。一銭にもならんし。

だがまあ書きかけのものもあるし、とりあえずやるか……という気持ちでキーボードを叩いているといつの間にか気持ち良くなってくる。

書くことでしか回っていない頭の部分が回り出したような感覚が訪れるのだが、この感覚を無意識の内に求めているのかもしれない。一度作品を完成させた時の充実感をも身体のどこかで覚えているのだろう。


小説を書くために、その設計図であるプロットをほとんどの作者が立てていると思う。プロットを立てることが習慣化してくると、日常的にアイデアは練られ溜まってゆく。また集中的に一つの作品を完成に向けて書いていると、時には息抜き的に違う作品を考えてみたくなるものだ(そうでない作者もいるのかもしれないが)。

いずれにしろ、何か作品を書いている時もそれとは別のアイデアが溜まりプロットは立てられ、次の書きたい欲求が募ってゆく……

こうして「アイデア→プロット→本文」というサイクルは終わることなくぐるぐると回り続けるのだ。


書くことがジョギングや筋トレに近いというのは、期間が空くとその能力が衰える……という点も同様だ。何らかの理由で3,4日も書かないと露骨に書く能力は衰える。集中力が続かないし、次に何を書くか全く思い付かないし、書くスピードも驚くほど遅くなる。そんなわけで一日に少しでも良いのでなるべく毎日書くようにしている。




・脚本の優位性


これには異論のある人もいるだろうが、私は子供の頃から何となく思っていた。

アニメやドラマでもそうだし、ゲームでもストーリー性のあるRPGなどでは特にそう思っていた。グラフィックの綺麗さや俳優の演技はあくまでその表面であり、ストーリーこそが骨子だという感覚だ。

例えばもしクラスで演劇をやるとなったら……やはり私は脚本家になりたかった。

主演俳優でも舞台を取り仕切る演出家でもなく、脚本家こそが裏から全てを支配するフィクサーとか軍師みたいでカッコいいと思っていた。そうした憧れがずっとあるような気がする。




・エッセイ


私は小説だけでなくこうしてエッセイ(これが果たしてエッセイと呼べるのかすらよく分からないが)も書いている。

これにはやはり小説を書くこととは別の動機が働いていると思う。

元々は小説を書く合間の息抜きだったのだが、今ではこちらにこそ私の本質があるのではないかとすら思う。

基本的にこちらは自分自身のことを書いている。私自身のパーソナルな部分にさして興味を持っている人はいないだろうから、ファンサービスというわけではない。

単純に内省が好きなのである。……いや、好きというか私にとっては必要なのだと思う。


小説というのは基本的にはフィクションだ。対してこちらはノンフィクションである(ノンフィクション作品こそ恣意性が色濃い、ということは皆さんご承知の通りではあるが)。一片の嘘も誤魔化しも無いか……と問われると絶対とは言い切れないが、なるべく本当のこと・本当の気持ちを正確に書こうとは心掛けている。

小説というのはテーマが何かあるとして、そこに辿り着くまでの紆余曲折を楽しむものだ。最短距離で行ってしまえば1行で終わるようなテーマも多いだろう。旅の過程を楽しませるのが優れた作家だ。


そうではない、もっと直接的な何かを私はどこかで求めているのだと思う。

私が生きる現実を少しでも掘り広げられるような、私が世界に関わる意味を少しでも理解出来るような……そんな何かを求めているように思う。


なぜそれを求めているかというと、そこには私自身の性質、屈折した育ち方、哲学を学んだことなどが関わっているのだと思う。毒を出すこと、自己セラピー的な意味合いも強いのだろう。


現実逃避として小説を書く人も多いかもしれない。私にももちろんそうした側面があることは間違いないが、一方で私は現実にも興味を持っていることの表れとも言える。


そして不思議なもので、書くことでしか深くものを考えることが出来ない領域が間違いなくある。

書く前は「1の次は2で、その次は3でしょ。そんなのとっくに知ってるよ」という感覚なのだが、書き始めると「あれ、1と2の間に1,5があるな……2と3の間は2,5?いや、2,3を経て2,7かな?元々どう思ってたんだっけ?」というような感覚である。


……余計分かりにくくなっていたら申し訳ないけれど、はっきりと整理して言語化することでしか見えてこない部分が私にはある。普段如何にものを考えていないか、曖昧に済ませているかの表れでもあるが、考えが今までよりも深まったと思えた時の快感は他では味わえないものだ。




私が最初にちゃんと小説を書いたのは20代前半の頃だった。

そこからは書いてはやめてを繰り返し、3,4年に一度何かの賞に応募してみたが、引っ掛かることはなかった。日常的に書くようになったのはカクヨムに登録したこの1年弱の間だ。

反応がもらえること、数字が明確に出ることによって明らかに書くことへのモチベーションは上がっている。もっと早く始めれば良かったと思う。

書くことは死ぬまで続けるだろうし、筆力を上げてゆくことが生涯のテーマになってきているように思う。


私にとって書くこととはそんな感じです。質問してくれた方、こうして書くことについて書く機会を与えてくれてありがとうございます。






(了)

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