ヤケクソについて
なんとなく書いてみた方が良い気がしてきたので、特に何か強く書きたいことがあるわけではないのだが久しぶりにこちらのエッセイも書いてみようと思う。
そもそも何だよ『エッセイ集』って……もうちょい何かタイトルはなかったんか?
座右の銘は何?と聞かれたら『毒を食らわば皿まで舐めよ』と答えることにしている。
まあそもそも何か個人の一貫した指針みたいなものをあまり信じていないし、座右の銘は?という問いに対して、立派な答えを出そうとするような人間は「意識的にせよ無意識的にせよ戦略的にそう見せている」と思うほどには捻くれているので、『毒を食らわば皿まで』と答えることはそうした問いに対する反抗とも言える。つまりは私もカマしている、ということになるのだろうか?
しかしまあその辺のゴチャゴチャした部分も含めて、その答えには私の自暴自棄
な態度が間違いなく表れている。大人になったらそうした態度はどこかで改まるものだろうと高を括っていたが、ついぞ改まることはなかった。
「大人になっても子供の頃と何も感覚は変わんねえな」と思う最大の要因は、こうした根本の精神が変わらないからだろう。まあいつまでも若い精神を保っている……とも言えるかもしれない。
『毒を食らわば』という言葉が座右の銘となっているということは、前提としてすでに毒を食らった状態である……ということになる。
私にとっては物心ついた時から実際そうだった。(記憶というものはそんなに正しいものではないので「今はそう思っている」という方が正しいだろう)
もちろんそう感じているのは育ち方に問題があったということになるだろうが、諦念と怒りは通奏低音のように永続的に流れている。対象が明確でないままに怒りの矛先を向けたくなる。……こう書くと、よく犯罪を起こさなかったものだなという気がしてくる。
「存在に対する怒り」という言葉を思い付いたことがある。存在しているこの世界全てに対する怒り、ということだろうか?
これではそもそも何を言いたいのか分からないし、怒りという感情は対象があってこそのものだろう。はっきりとした対象を意識せず、広く広く拡大解釈してしまうことは短絡的な思考そのものであり、その思考こそがヤケクソな態度を明確に表していると言える。
このエッセイ集の最初の稿では「死ぬのが怖い」ということを散々書いたのだが、子供の頃の私はずっと死にたいと思っていた。というかいつか自殺するのだろうと思っていた。
母親からの宗教教育上のプレッシャーは年齢が上がるほどに増していったし、小学校から中学校に上がる時は人間関係が変わることがとても怖かった。中学から高校に上がる時もまた環境が変わる面倒くささと「何で工業高校なんかに行かなあかんねん」という気持ちが支配していた。
ただ高校に上がる頃には中学を乗り切ったという実績もあったので、何とか乗り切れるかもしれないという気持ちもあった。
その後、高校在学中に親のやっていた宗教からは一定の距離を取ることができたので、死にたいという気持ちは薄まっていったように思う。
結局なんだかんだ死ななかったのは、私の性格が慎重でありながら楽天的でいい加減なものだったからだと思う。
今ももちろん色々なことでストレスを感じるが死にたいと思うことはほぼない。自分で死ななくても死がいずれ向こうからやってくるということがよりリアルに感じられるからでもあるし、大人になってからのストレスなどは幼い頃のものと比べれば屁みたいなものだからだ。「今さら死ぬんなら、何故あの頃死ななかったのだろう?」と実際思ったこともある。
しかしまあ過去は戻らないし時間は一方的にガンガンと流れ続ける。あまりに残酷だ。そのことが私のヤケクソで投げやりな精神態度をより強固なものとしてきたことは間違いない。
役所に申請して正当な事由があると認められれば何とか子供の頃からやり直させてはもらえないだろうか?……ムリか、大したことないな現代人の技術力も。
先ほども書いた通り、ヤケクソな気持ちは短絡的な思考につながりやすい。
100でなければ0で良いという思考に非常に陥りやすい。
そして自分が過去にそうした判断に基づいて選択をしてしまったことが、次の選択をもそうした方向に導いてゆく。
粘り強く冷静に自分にとっての最善を考え続けるには体力が必要だし、他者と比べないことも大事だろう。現代日本は情報に溢れており自分と同世代の「平均的な人物像」みたいなものも容易にイメージしやすくなっている。そうした比較が自分を苦しめることは間違いない。
他者にとって有った可能性が、自分にとっても有り得た可能性と混同してしまうことは避けなければならない。隣で働いている人間だろうと平等な訳がないのだ。本質的には平等など幻想でしかない。
でもなあ……という気持ちはどうしても残る。
他者と自分を比較することが無意味なこと。時間が前にしか進まないこと。過去に囚われることが一番愚かしいこと。これからの希望とやりたいことだけを見て生きていけば良い……ということは重々承知している。
むろん本気でそう思える時もあるが、そうでない時もある。
私もそれなりに本を読んで来たし論理的整合性を大事にしたいと思っている。しかしそうした正しさよりも、結局は自分の曖昧な気分を重視してしまっていることが多いように思う。論理の構築もヤケクソな気分を擁護するためのものとしてしか発揮出来ていないのではないだろうか、という気もする。
それを改善しようとするのならば、結局は生理的な部分が大事なのだろう。土台となる精神が安定していないと何を築き上げても間違っていた、ということは有り得る。ネガティブになっている時もポジティブになっている時も、あまり自分の気持ちを信じるな、とも思う。
ただ私の場合は健康な時でも攻撃性が奥底に流れている。
それが育ち方によるものなのか、遺伝という先天的な要因によるものなのかは判別し難い。
家族を思い出すと意外と遺伝的要因が大きいのではないかという気がする。姉も上の兄も攻撃的な要素が結構あったように思う。(一応私自身のことも含めて擁護しておくと、この場合の攻撃性とは初対面の人に無礼な態度を取ったりとか人間関係に
於いてマウントを取ろうとしたりだとか、そんなことではない)
死にたかったのも攻撃性の反転だった部分が間違いなくあるだろう。
まあしかし幾つになっても自分とは付き合っていかなくてはならない。
しかしそんなに気負う必要はない。なるようにしかならないし、なるようにしかならないのだ。
(了)
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