ニーチェについて
以前にも触れた永井均『これがニーチェだ!』を再度読み返してみたので、今回はニーチェについて書こうと思う。私のニーチェ理解はほぼ同書から出来ているが、もちろん誤解している部分も理解が足らない部分も多々あると思う。読んだ人が少しでも興味を持っていただければ幸いである。
ニーチェの哲学にはとても攻撃的な部分がある。またニーチェの哲学は、決して社会を良くするものではない。そうでない所に価値がある。だからそれに触れた時強い不快感を抱く人もいると思う。ご了承の上で読んで欲しい。
ニーチェは一般的に『神は死んだ!』という言葉で知られている。「これはキリスト教の神のような絶対的な何かを信じる時代は終わった。それでも自分らしい価値観を持って強く生きてゆこう、という近代的な思想の始まりである」みたいなまとめられ方をすることがある。
この理解が完全に間違いだとは言わないが、これではニーチェの哲学を骨抜きにしている。30点くらいの解答だ。
まずニーチェが生きたのは19世紀後半だ。キリスト教会が強大な権威を持っていた中世ならば『神は死んだ!』という言葉に意味があったかもしれないが、科学も社会も進んだ19世紀後半に『神は死んだ!』とドヤ顔で叫んだところで「知ってるよ、そんなこと」と冷笑されただけで終わっただろう。
実際『神は死んだ!』という言葉は最初『悦ばしき知識』という著書の中で、狂人の言葉として語られる。そしてそれを聞いた神を信じていない人々がそれを盛大に笑う、という場面が描写されている。
これがどんな意味を持つのだろうか?
ニーチェは牧師の息子として生まれた。敬虔なプロテスタントの家庭で育ったのである。
彼はキリスト教から知的に誠実であることを学んだ。そして誠実に考えれば考えるほど、宗教は欺瞞の上に成り立ち、多くの人々を騙しているという結論に至ったのだ。
キリスト教を始めとする宗教は、現実世界でどうしようもなく虐げられた弱者が、ルサンチマン(怨恨の感情)を元に形成した僧侶的価値評価だ、と言う。善悪とは本来、生にとって有用かどうかという程度の意味だったはずだ。それを僧侶(宗教の創設者)は「価値を新たに捏造する」ことによって、その空間の中で自分を優位に位置付けているのだ!と断罪する。この舌鋒は凄まじい。
ニーチェには欺瞞に対する強い怒りがある。だが既に触れたように当時キリスト教の権威などは世間的に見ればなくなっていた。それなのになぜ今さらそこを攻撃する必要があったのか?
それはある意味でニーチェは「神」を信じていたからだ。キリスト教の神ではなく、存在がある……というどうしようもない程の奇跡の神性を信じていたということだ。キリスト教的な世界観でもって「全てを神の御業」として説明してしまうことは、この神性を貶める行為だ!とニーチェは言うのである。
『神は死んだ!』というのは、「神」は科学の発達や時代が進んだことによって死んだのではなく、キリスト教によって殺されたのだ、ということである。
ニーチェの知的誠実さからくる攻撃は道徳にも向かう。人々が道徳に従うのは道徳的な心を生まれつき持っているからではなく、奴隷根性から、虚栄心から、利己心から、狂信からでもありうる。それ自体は何ら道徳的なことではないと言うのだ。
本当にひどいことを言うやつだと思うが、これは真実だと私は思う。
というか誰もそれを表立って口にはしないだけで、そう理解して行動していると思う。
ほとんどの人は単に社会のルールの一部として従っているだけで、道徳的に善とされることを最優先に生きているわけではない。道徳を厳密に追求して生きていこうとすれば、社会生活は成り立たないだろう。一般的な人々は自分の利益とバランスをとって常識的な範囲内で道徳性を発揮するものだ。
ただ誰もそれを口にはしない。口にしないことでほどほどに道徳や法律が機能している方が、社会は円滑に回るからだ。ニーチェはあえてそれを口に出したのだ。だからニーチェの哲学は本質的に反社会的なものだと言える。
ところで、ニーチェのこうした過剰なまでに真実を求める姿勢はどこか宗教的だとは感じないだろうか?キリスト教的な誠実さがニーチェのルーツにあるのだから当然と言えば当然だが、果たしてそうした姿勢は正しいのだろうか?……いや、正しさという価値観が何の意味を持つのだろうか?
全ては「力への意志」だとニーチェは言う。キリスト教も道徳も哲学者たちが残してきた哲学も、それが残って現在機能しているのは、それが真実かどうかとは関係なく、その言説が人々を動かすだけの強さがあったから……ただその一点に因ると言う。これは一定の説得力を持っていると思うが、ニーチェのこうした解釈もまた「力への意志」の現れではないだろうか?こうしてニーチェの攻撃の刃はニーチェの哲学自身にも向かう。
この闘いの様は入り組んでおり複雑だがとても魅力的だ。私ではとても説明しきれないので興味のある方は本書を読んで欲しい。
こうした泥沼の闘いを経てニーチェの哲学はさらに次の次元へと進む。
そうした闘争から自由である「超人」という概念は様々に解釈可能だが、とりあえずは純粋な強者と理解して良いだろう。生まれつきの貴族であり、力の強い強者は価値を巡るそうした闘争とは無縁の存在だ。彼らは強い意志や、価値を巡る解釈など必要なく、ただ率直に行動する。
「永遠回帰」という考えは、「時間が無限で物質が有限だとすると、世界は無限回生成を繰り返し、あなたもあなたの人生を無限回繰り返す」という途方も無いものだ。次の人生ではここを修正しよう、などというケチな考えは通用しない。今まで起こった悲劇も不幸もひっくるめて同様の人生が無限回繰り返されるのだ。
「それでも、お前のその人生を愛せ!」というのがこの思想の骨子だ。見かけは宗教的なものだが、実際は来世を謳うそれとは真逆だ。善悪だとか道徳だとか社会だとかに意味付けて“あなたが存在している”という、どうしようもない程の奇跡を汚すな、ということだ。全ての事象をその一回性ゆえに愛せ!という力強い肯定だ。
ニーチェは晩年に発狂し55歳という若さで死ぬ。それは彼の哲学とは何の関係もないが、どこか敗北者のロマンのようなものを感じずにはいられない。
さて以前書いたように私はこの『これがニーチェだ!』という本に二十歳くらいの時に出会った。なぜこの本に惹かれたのだろうか?と考えてみた。
普通の人は「人々が道徳に従うのは道徳的だからではなく、諸力に屈しているだけだ!」「道徳や宗教を捏造した人間は復讐意志によりそれを行ったのだ!」と言っても「はぁ、まあそうかもね……で?」となる。あるいは「そんなこと分かった上で、みんな世の中を良くするために建設的な言説を必要としているんだろ?」と言うかもしれない。それはそうだろう。そういった人たちと価値観の違いについて議論する術はない。
私がこの本に惹かれたのは、生まれた時から宗教を強制されていたことと強く関係しているだろう。多分私も環境ゆえにそうした大きな嘘に敏感だった。「嘘をついても、神様は見ているからね」と母親はよく私に言っていた。世の中が如何に嘘で満ちているか、ということは教理としてもよく教えられていた。もちろんそうした空気を子供ながらに敏感に察してそれに合わせた言動をとった。子供にはそうするしかなかった。だけど「神様なんているわけない!神様をいるっていうことが嘘だろ!」と子供ながらに思っていた。そうして蓄積した不満を上手く言語化してくれたのが、この本だったのだと思う。
しかし今回読み返してみると、以前とは感じ方が多少違った。もちろん舌鋒鋭くキリスト教に迫る最初の部分にも惹かれるのだが、最終章の奇跡的な存在の尊さを説く部分が強く心に残った。以前よりも自由を感じているのかもしれない。
さて、この本及びニーチェの思想が、現在の人々にどんな意味を持つのだろうか?
冒頭にも書いた通り社会を良くするものではないだろう。ニーチェの思想は選民思想としてナチスに利用された……という歴史的事実もあるが、それを抜きにしても「社会的に良いとされていることは本当に良いことなのだろうか?」と問うことは本質的に反社会的な行為だ。
多分、賢く強い人間は元からそんな問いに引っかかることなく自分にとっての最善の選択をするし、敬虔な人々は「そう問うてはならない」という無言の力に積極的に従い、その空気を醸成してゆくだろう。
だがそれでも、私にとってそうだったようにそう問わざるを得ない一部の人間にとってニーチェは有意義なものだ。
私は大学を卒業するくらいまで「宗教に背負わされた大きなマイナスを、哲学によってようやくゼロまで持ってこられた」という感覚だった。周囲の人々が年を経るにつれて順調にプラスを積み重ねていっているのに対してである。なんたる理不尽だ、と何度思ったか分からない。
だがそうではないのだ。意味や価値を自分の人生の外に求めるな!
「——何度も繰り返しておくれ、私のこの人生よ。寸分たがわぬこのままで。——それは私の生とこの世界を、外から意味づけているのではない。私の生とこの世界そのものを、それ自体として内側から祝福する祈りなのだ。」(同書電子版位置NO2361より)
(了)
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