哲学について

 大学では哲学を専攻していた。

現在の仕事には一ミリも役立っていないし、今後も役立つことはないだろうが、それでも若い時分に哲学を学んだことはとても良かったと思っている。

 多くの人は哲学と聞くと、人生の中で積み上げたその人なりの経験則・人生論みたいなものを思い浮かべる。

 そうでない学問の方の哲学と聞くと大抵の人は拒否反応を示す。

 多くの人にとって哲学とは「必要以上に物事を難しく考える存在理由のよく分からない学問」だし、哲学者とは「実際の社会生活とは離れた仙人みたいな人」というイメージだろう。

 また哲学を学ぶとは、ソクラテスやプラトン、デカルトやカントといった高名な哲学者が何を言ったのかを学ぶことだと思っている。もちろんそれも間違いではない。でも別にそうした知識は必要ない。興味が出れば調べれば良いだけだ。

「哲学には根源的で人間誰しもが一度は考えたような問いも含まれている。例えば『人は死ぬとどうなるのか?』『神は本当に存在するのか?』……といった問いだ」

 少し哲学の本を読んだことのある人は、冒頭にこうした記述を見たことがあるかもしれない。そしてこうした問いに興味を持った人の多くが、読み進めるうちに失望し興味を失ってゆく。そこに明確な答えが書かれているわけではないからだ。

 かくして哲学に対する胡散臭い印象だけが残るのである。




 私が哲学に触れたのは大学に入学してからだった。

 入学時に配られてきた一般教養の教科書の中に『哲学』があった、というあまりに真っ当な理由だ。

「まあ今まで全く触れてこなかった分野だし、せっかく大学生になったのだから少し読書の幅を広げてみるか……」

 教科書をパラパラとめくった後、最初は純粋に教養として図書館でいくつかの入門書を借りて読んでみた。

 最初に読み進めたのは、マンガ・アニメ・特撮といったサブカルチャーと哲学の関連を書いた、富増章成『空想哲学読本』だった。かなりライトな雰囲気でふざけたギャグも交えたものだったが、読み進めるのにハードルが低かったことが幸いし、哲学に対する興味はさらに強くなった。

 そして次に覚えているのが、永井均の『これがニーチェだ!』という本だ。

 当時話題になっていた「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが冒頭に扱われていた。本当に人を殺したいと思っている人間に対して、一般的に想定されている答えがいかに無力かを述べ、その後に出した答えが自分にとっては衝撃的だった。

 手元に現物が見当たらなかったので大意になってしまうが(持っているのは間違いないのだが)

「本当の答えははっきりとしている。彼が重罰(大抵は死刑)になることも理解した上で、それでも人を殺したいのであれば、それを止める術はない」という内容だった。

「ああ、そんなこと言っていいんだ」と、その答えはとても腑に落ちた。

 一般的にはそんなことを言うことすらタブー視されている風潮がある。「人を殺すことは絶対にしてはならない」ということが前提として全ての論は展開されている。そこに疑問を挟んでもよい、というのが私には目から鱗が落ちるような体験だった。


 それから何となく哲学が面白くなり、歴史専攻として入学した大学も哲学専攻へと転科した。

 まあ自分がそれだけ興味を持てたのは、幼少期の環境があったからなのは間違いない。自分の家ではある宗教を信仰しており、それに対する反発心を常に抱えていたのだ。盲目的な信仰に対する反発・懐疑的な精神といったところだろうか。


 日本人で特定の宗教を強く信仰している人は少数派だろうが、そうではなくとも一種の信仰のようなものはほとんどの人が抱いている。一例としては「人は誰もが平等に幸せになれる」「生まれてきた以上一生懸命生きなければならない」「身近な人には親切にしなければならない」などの綺麗事だ。

 こうした言説に反論する術は無い。世の中を良くするための理想的で建設的な言説だからだ。社会を良くするには、ずっと声高く言い続けなければならない言説だ。これに対して公の場で疑問を差し挟むのは頭のおかしな人だ。

 でも上記のような綺麗事は、事実として本当に正しいのだろうか?……そう疑問を差し挟んで良いのだ、という哲学による示唆が私を少し楽にしてくれた。


 そして二十歳の頃にもう一冊の本と出会う。中島義道『「哲学実技」のすすめ』である。内容は濃かったが、予備知識が必要なく対話形式のこの本はとても読みやすいものだった。

 この本で提唱されるのは「自分の『からだ』から出た言葉を尊重して『ほんとうのこと』を正確に語りつづけること」というとてもシンプルなものだ。

 これは実はかなりハードルの高いことだ。

 先述したように現代日本では綺麗事が溢れている。本音ではなく、相手を気遣い建設的な言葉を掛けること、その立場に応じた必要な言葉を使い分けることが、人々にはあまりに染みついている。

 そんな中で、0か1かのどちらかではなく0.1か0.5か……もっと言えば0.01か0.02かの細かな差異に注目し、他人を正確に批判し他人からの批判を正確に浴び続けること……その中で「ほんとうのこと」を追求してゆくこと。これこそが哲学の持つ意義だと述べられているのだ。

 少し考えてみて欲しい。

 これはとてもめんどくさいヤツだ。

 例えば職場やその他のコミュニティで「こういう時に出る言動が、あなたのこういった性質を示しており、これこれこういった理由によりあなたは間違っています」と述べることは、とても嫌われるだろう。いや大抵の場合は嫌われるだけでは済まずに、秩序を乱す害悪とみなされ最悪そのコミュニティからの退場を命じられる。

 だが私にはこれがある意味でとても魅力的に映るのだ。

 もちろん私も職場や友人関係の中でこういった話し方をするわけではない。

 だからこそ時には、本音が言いたいし、本音が聞きたいのだ。

 最近ではSNSも本音を吐露する場ではなくなった。もちろん昨今の事情を考えれば当然のことだと思う。

 だけど……じゃあ本当の本音はどこで吐き出せるのだろう?厳密で誠実な言葉はどこで聞けるのだろうか?

「空気を読んで」「相手のためを思って」……こうした優しい嘘は、利己的な嘘よりも性質が悪い。罪悪感なく嘘をつくことを習慣にするからだ。そして「その優しい嘘が時としていかに人を傷つけるか」から目を逸らす行為だからだ。

 上辺だけの言葉しか紡げなくなってゆくことは思考の体力を奪ってゆく。空虚な綺麗事の言葉、ありふれた定型文しか吐き出せなくなっていくことは、それだけ思考の範囲を狭めてゆく行為と同義だ。

 自分が紡ぐ言葉が、自分が本当に考えて、本当に言いたかったことなのだろうか?


 

 

 さてここまでこうした論を展開してきたのは、単に私の個人的な体験と考えを知って欲しかったからだけではない。

 カクヨムというこの場において、哲学と文学との関連性について考えてみて欲しいのである。

 常識にとらわれず新たな価値観を提唱してゆく……これこそが文学の役割だと私は聞いた。

 些細な違和感に敏感であり続け、その細かい差異を言語化してゆく……こうした哲学の姿勢は文学にも求められるものではないだろうか?

 これだけ娯楽のツールが飽和している時代において、あえて活字という媒体を選んでいる読者たちは、もっと深読みしたい欲求を抱えているのではないだろうか?


 現在、哲学と文学とはかなり乖離しているような印象を受ける。

 たまにカクヨムで『哲学』と入れて検索してみると、『哲学』のタグが付けられた作品はあるが、大抵はほとんど関係ないか、著名な哲学者の言葉が引用されているだけで、問いの深さが感じられる作品とは今のところ出会っていない。

 もちろん著名な作品にはそうしたものもあるのだろうが、どちらかというと哲学的示唆を示すものはマンガの方に圧倒的に多いように思う。

 もっと哲学を利用出来ないものかな、と考えている。






(了)

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