自殺について
ふと気になり調べてみると、日本国内では2020年、9月末までに15000人近くが自殺により亡くなっているそうだ。
何となく近年は息詰まるような雰囲気も強まり、自殺率もグングン上がっていっているのかと思い、それも調べてみたところ3万4000人以上が亡くなった2003年をピークに自殺者数は減少傾向にあるようだ。
コロナ禍における経済的困窮により、自殺者は爆発的に増加するのではないかという説もあった。もちろん今も困窮に苦しんでいる人は沢山いるだろうし、特に女性の方の自殺率が高まっているというニュースも見た。これから自殺者が急増する可能性もあるが……今のところはよく耐えているな、というのが私の正直な印象だ。
こうして統計を取り人の死を数値化してしまうことは、そうした一人一人と向き合っていないから出来る無慈悲なことかもしれない。だがそうした視点が社会的に見れば必要であるのも確かだ。
そもそも自殺をする、というのは人間だけが行う不思議な行動である。
生存本能というのは生物にとって最も普遍的で根源的なものである。
そこを超越してしまうほどのストレスを現代社会は人々にもたらしているのだ。
最近は著名な芸能人の自殺が相次いでいる。
命の価値に優劣を付けるつもりは毛頭ないが、著名な芸能人の自殺というのはセンセーショナルだし、ファンにとっては大きなショックだろう。
統計以上に世情は荒んでいるのではないか?という気にもなってくる。
もちろん個々の事情は様々だろうから、彼らを全て一括りにしてしまうのは乱暴だが、この時代特有のストレスというのは共通しているような気がする。
まず一つ思い付くのはメディアとSNSの発達だ。両者の発達は彼らからプライバシーを奪った。
バラエティー番組での振る舞いがSNSで炎上したことを機に自殺した女子プロレスラーがいた。その責任の所在が何処にあるのかをここで論じるつもりはないが、今の時代をとても象徴している事件なのは間違いないだろう。
彼女の事件以降、SNSでの中傷に対する罰則を強化しようという働きが急速に強まったような印象がある。
それ以降自殺した何人かの芸能人は、ほとんどその予兆が見えなかったという。
SNSへの規制の強化とそれに付随する風潮は、誹謗中傷を行う側だけではなく見られる対象である有名人の方をも追い詰めていったのではないか、という気がする。
彼らは背負ったイメージを守らなければならないために、悩んでいる素振りすら……そのほんの一端を近しい人に見せることすら出来なくなっていったのではないか……という気がしてしまうのだ。そしてある時、限界点を超えた彼らの精神は救いを求めるように死を選んでしまったのではないか。
むろんそう断定はできない。単に個々人の性格がそうであっただけかもしれない。
「ご冥福をお祈りします」という言葉がある。
誰かが亡くなった時に定型文のように使われる言葉だが、イマイチ意味がピンとこなかった。
これも気になって調べてみたところ「冥界(あの世)での幸福をお祈りします」という意味だそうだ。
これは信条によっては不適切な場合も多いだろう。意味をしっかりと把握して使っている人間は少ないのではないだろうか?
しかしその意味の曖昧さと、人が亡くなった時にしか使われないレアさ加減が丁度良いようにも思う。「残念でなりません」では故人に対してまだ未練が強い感じがするし「安らかに眠ってください」だと、その死を受け入れられていないように思えてしまう。
だから、相手との関係性によるが「ご冥福をお祈りします」は丁度良いように思える。
「残念でなりません」あるいは「とても悲しいです」という言葉は、もう少し正直というか感情の乗った言葉だ。
これはあくまで残された人間、生者の側の言葉だ。意地悪な言い方をすれば、自分の感想を述べているだけではないか、とも言える。
しかし……故人が自ら死を選び取ったのだとしたら、その理由を本当の意味で確かめ得る術はない……という意味では、故人の気持ちを分かったように述べるよりも、あくまで残された自分の気持ちを言葉にすることの方が誠実なのではないか、という気もしてくる。
ただ「残念でなりません」という言葉には、どこかで自殺によって生涯を終えた人間はとても不幸だった……というような決めつけが入っていないだろうか?とも思う。終わり方だけで全てを判断して、その人生全てを評価してしまうことは傲慢なのではないか?ということだ。
言うまでもなく残された身近な人間の悲しみは相当なものだろう。
放っておいても人はいずれ死ぬ。それなのに何故、今、私という身近な存在に何も告げることなく死を選んでしまったのだろう?という問いに答えが与えられることは決してないのである。
そうした気持ちを表すには「残念でなりません」以上の言葉はないのかもしれない。
残された人間は「止めることは出来なかったのだろうか?」と自分を責める必要はない。これからのこちら側のことだけを考えていけば良いし、それしか原理的にできないからだ。
ここまで「自殺した人は、自ら死を選び取った」という書き方をしてきたが……本当にそうなのだろうか?
もちろん本当に自分で決めて自殺する人間もいるとは思う。「何歳になったら死ぬ」と昔から決めていたとか、「この作品が完成したら死ぬ」という芸術家だとか、あるいは「純粋に死んだらどうなるのかを知りたかった」という人間もいるだろう。だがこうしたケースは非常に稀だ。
ほとんどは外部の諸力によって殺されるのだ。自ら死を選び取っている人間などいない。直接の最後の引き金を引くのが自分しかいなかったというだけの話だ。
「だからこそ自殺など絶対にしてはいけない!」とも言いたくなるし「自殺を止める権利など誰にもない!」とも言える気がする。
前者は自殺するくらいなら殺せ、という話だ。
単に比喩として言っているつもりはないが、自分を追い詰めている原因・対象がはっきりしているならば、あらゆる問題を噴出させてでも断固として闘え、ということだ。
後者は、それでも自殺も選択肢の一つではある、という話だ。
誰かが本当に苦しんでいて、そこから抜け出す術がどこにも無く、死ぬことしか逃げ場がないのだとしたら……自殺も一つの選択肢ではあると思う。人はいずれ死ぬ。目前の圧倒的な苦しみは本人にしか分からないのだから、死ぬ時期を他人がどうこう言うべき問題ではない……という気もする。
人は結局のところ個体だから本当の意味では分かり合えないのだと思う。
吐く言葉には全て(私はこう思うけど)と括弧が付く。
でも……だからこそ好きにしたら良いと思う。身近な人に死んで欲しくないのならば全力で止めることを躊躇する必要はない。
(了)
追伸 人間以外の動物が自殺をしないという決定的な証拠は無いそうだ。マジかよ!
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