過去について考えてみた

 今回は過去というものについて少し書いてみたいと思う。

 前回は死について書き、今回は過去について書くなど、筆者はとんでもない後ろ向きな人間なのかと思われるかもしれないが、まあその辺はよく分からない。

 自分ではむしろ、こうしたテーマを正面から扱えることは決して後ろ向きな人間では無いことの証拠だと思っているが、まあそれは自分で判断することではないし、自分が他人からどう見えるかは自分とはあまり関わりのないことだ。

 今回も特に論旨を特に決めずにつらつらと駄文を垂れ流してゆくだけなのでご容赦願いたい。


 さて本題なのだが、皆さんは過去を信じているだろうか?

 宗教的な意味やオカルト的な意味では全然ないので、あまり構えずに軽く考えてみて欲しい。 

 あなたは過去が存在したことをどの程度信じているだろうか?という問いである。 

「……え?何言ってんの、コイツ……」

 という皆さんの心の声が聞こえて来そうだが、まあ一回だけちょっと考えてみて欲しい。 

 

 過去は本当に存在したのだろうか?

  

 無論自分は「過去など存在しない!」という主張がしたい訳ではない。

「我々は過去の記憶を持ったものとして、世界は5分前に創造された」というラッセルの仮説を本気で主張したい訳ではないのだ。(きちんとこれを学んだわけではないが、知らず知らずのうちに影響を受けている可能性はある)

 自分には物心付いた時からの記憶があり、その過去を積み重ねたものとして現在をきちんと受け止めている。(……時々ガッシャーンと壊したくなることもあるが)

 そして、この現在の先に続く未来というものも信じている。

 

 だが過去と未来とは対称となるものとは言えないものだと思う。概念としては対称かもしれないが。

 未来は過去と対称になるには明らかに存在として弱い。

 過去は既に確かに存在したものであるのに対し、未来は現在のどこを切り取っても存在していないからだ。

 未来というものは存在のレベルとしては妄想やフィクションと同じ……と言わざるを得ないと自分は思っている。


 未来はどこにも存在していないのに対し、過去は確かな存在として現在の基盤となっている。

 自分はこんなにも過去を強く信じている過去教の信者とも言えるが、最近はその信仰が揺らぎつつある。過去というものの存在が怪しく思えてくるのだ。

 原因ははっきりとしている。加齢による記憶力の低下である。ある程度の年齢以上の方は多少は同意していただけるのではないだろうかと思う。

 身体の方は動かしているのでまだまだ体力的には落ちたという感じはないし、純粋なパワーはむしろ増している。

 だが頭の方は露骨にその機能を低下させている。(普段ロクに頭を使っていないだけ、という可能性もある)

 特に顕著なのが記憶力である。


 だが記憶力が低下していることは確実なのだが、記憶自体の失われ方は一様ではない。

 デジタルな記憶媒体ならばメモリが一杯になった時点で新たな記憶は蓄積されなくなるだろうし、あるいは過去の記憶から順に消去されてゆくだろう。それでは困る!どちらも避けたい……ということになれば時系列的に平均して消去してゆく、というシステムにすることも出来るだろう。

 人間の記憶の在り方はそのどれとも違っている。薄い所と厚い所の記憶にはずいぶんとムラがあるのだ。

 つい三日前に必死で覚えた取引先の人の名前が出てこず(その瞬間には完全に覚えた!と確信したのにも関わらずである)、子供の頃によく電話した友達の家の電話番号は未だに覚えていたりする。

 ふとした瞬間に昔の光景がフラッシュバックしてきて「こんなことまだ覚えていたのか!」と驚くことがあるが(ストレッチをしている時やこうして文章を書いている時などが自分は多い)、その光景は大抵子供の頃のものである。少なくとも一週間前や一ヶ月前といった中途半端に最近のものに関してはほとんどない。


 これは何故なのだろうか?

 自分の中に潜む無意識が記憶を取捨選択している、というならばその判断は誤っているようにも思える。

 もう二度と掛けることのない電話番号を未だに覚えていることよりも、取引先の人の名前を覚えておくことの方が、明らかに実利に繋がりそうだからだ。

 だが、実際のところどちらに利があるか……というよりもどちらを大事にしたいと思っているか、という観点で見れば前者である可能性は大いにあり、それゆえにその記憶は抜けないのかもしれない。


 もう一つ考えられるとすれば、年齢を重ねるにつれて全ての体験は新鮮味を失ってゆく、という点である。

 初めて会う人は大人になっても沢山出てくるだろうが、「初めての人と会う」という経験自体は積み重なってゆく。その度に薄れる新鮮味では強烈な体験には決してなり得ない。

 子供の頃は違う。初めての経験ばかりだし、本を読めば触れるのは新しい概念ばかりだ。だから強烈な体験として長く記憶に残っている、という話だ。

 これは妥当なもののように思える。

「一年経つのが早過ぎる!」と嘆くおっさんも似たことだ。

 5才の子供にとっての1年は人生の5分の1だが、50才のおじさんにとっての一年は50分の1なのだから、同じ一年でもその濃度の薄さに毎回驚かされるのも無理はない。

 ……ということは基準となっているのが物心ついた頃の一年なのだろうか?そりゃあ「月日が経つのは早過ぎる!」と嘆くのも無理のないことだろう。


 ちなみに「記憶力」という言葉は三つの能力のことを指すと言う。

 ①記憶をインプットする能力。

 ②記憶を維持しておく能力。

 ③溜め込んだ記憶をアウトプットする能力。

 

 である。加齢による劣化を特に実感するのは、③のアウトプットする能力だろう。

 喉元まで出かかっている人の名前が出てこない……という経験は誰しもがあるだろう。

 ①のインプットする能力に関しても衰えてはいるのだろうが、体験自体が弱くなっていることを考慮すれば単純にその能力が衰えているのかは判断しづらいし、②に関してそれを確かめることは難しい。(科学的な実験をすれば分かるのだろうか?)

 まあこの辺は余談だ。興味のある方は是非調べて私に教えて欲しい。



 ともかく今回私が強調したいのは、記憶の濃度が一様ではない、という点だ。

 薄れゆく記憶と想像との境目が曖昧になっている、というのが問題なのだ。


 人間は過去を都合良く解釈している。

「あの時ああしていれば、こういう結果になったかもな……そうすれば今の状況も少しは違ったものになっていたかもな……」

 という想像は誰もが抱えているものではあるだろうが、全くのフィクションを描いた想像とは違い、事実に基づいているだけに結構なリアリティがある。

 加齢と共に薄れゆく記憶の中では、しばしばどこまでが事実でどこからが想像上の出来事なのか、一瞬分からなくことがある。

「一瞬どっちか迷うけど、少し集中して思い出せばきちんと区別をつけて思い出せるから、まだ大丈夫!」

 と思っているだろうが、実のところそれを確かめる術はない。

 他人と共有している思い出ならば答え合わせが出来る可能性もあるが、その相手が正しいという保証はないし、そもそも立場が違えば物事の見え方は全然違う。

 とすると過去が過去として確実に存在した、と言えるのは何故なのだろうか?またその言葉は何を意味するのだろうか?

 ……ほれみろ、過去の存在が怪しく思えてくる。

 

 もう一つ挙げるとすれば……あるいはこちらの方が実感が強い人もいるかもしれないが、時系列の混濁である。

 先月あった出来事と10年前の出来事とを間違える人はあまりいないだろうが、3年前の出来事と5年前の出来事が曖昧になる人は多い。12年前と14年前とではより難しくなるだろう。

 そうなると物事の起きた順序に関しても分からなくなったりする。その時点では出会っていないはずの人との思い出が出来ていたりもする。 


 中間が抜け落ちているパターンもある。

「あの時期すげえ辛かったのは何となく覚えているんだけど、何があったんだっけ?」という風にである。

 断片の光景と嫌な気分だけが結び付いて……たとえば嫌な仕事へ通う時によく目にしていたチェーン店の看板だとかは、その仕事の詳細をすっ飛ばして、何となく嫌な気分だけを思い起こさせる……といったことがあるかもしれない。

 視覚情報が常に入ってくるのに対して、嗅覚を刺激される場面というのはあまり多くない。

 その分、匂いはその独自の記憶と結び付き、強烈な印象を残すのかもしれない。

 今年流行った瑛人の『香水』という曲が私は大嫌い(正確に言うと嫌いというよりも表現として稚拙過ぎて聴いてて恥ずかしくなる、こんな内容の無いペッラペラの曲が流行るくらいに日本の音楽シーンは死んでんだな……という程度の感想しか持てない)なのだが、匂いと記憶が密接に結び付いているという点は示唆に富んでいると思う。


 さて、記憶の時系列が乱れ、その関係性が乱れてくるとどうなるだろうか?

 失われた中間部分を都合の良いように捏造し始めるのである。

 彼女と別れたのは本来は純粋に誘惑に負け自分が浮気をしたからなのだが、彼女の方の気持ちが冷めてきてそれゆえに浮気をした……あるいは自分はもう彼女とは別れたい気持ちが既に有りそれゆえに浮気をした、というようにである。

 こうしたことを本気で信じられるのは、記憶の時系列と関係性が曖昧になるからだろう。


 また、可能性としてあった(現実には起こらなかった)分岐が、事実としてあった過去と似たような位置にまで格上げされてくるということもある。

 ひどいケンカをして音信不通のまま別れたバンドメンバーとの非建設的な時間よりも、彼らとSNSを通して初めて出会い「これからバンドが始まる!」という時期のワクワク感の方だけを強く覚えていたりもする。

 後に現実に起こったことが分かっているにも関わらずである。

 

 あるいはこうした捏造の機能が充実しているがゆえに、時系列も関係性も乱れっぷりが加速してゆくのかもしれない。

 


 まあともかく人間は過去を都合良く美化して生きているのは間違いない。

「どんなに今が辛くても、生きてさえいればきっと『生きてて良かった』と心底思える日が来るよ!」

 という言葉の本当の意味は、記憶の美化によるものなのではないか、と思えてくる。

 だがまあでもそれでも良いのではないだろうか、という気もする。

 自分のストレスが少しでも減り、周囲の人間に対して少しでも優しくなれる為なら記憶なんてナンボでも捏造して良いのではないか?ということだ。


 

 さて、過去について書き始めた筈が、途中から記憶についてばかり書いてしまっている。

「これではダメだ!話にならん!過去という客観的に存在したものと主観的な記憶とは明確に区別しなければならん!」

 という立場に立つ人は熱心な過去教の信者かもしれない。

 だが「過去なんか今を生きてゆくのに少しでも有効に利用出来るのならば、いくらでも捏造して良い!」というヤツのことを信用して良いものだろうか?

 それは唯一現実に起こった過去の出来事の価値を切り下げてゆく行為でもあるだろう。 

 過去という現実をフィクションと同レベルのものに引きずり下ろしているのだとしたら、それは少し寂しい気もする。

 

 バランスを取るためにどっちつかずの立場を装ってみたが、私自身は後者寄りの立場に近い。

「過去に囚われず、この現在にだけ集中すれば良い!」

 という言葉にしてみればカッコイイかもしれないが、こうした立場に寄ってきていること自体が加齢による記憶力の低下を正当化する為の行為にも思えてきた。

 また二十歳ごろに「めんどくせえから記憶喪失にならねえかな?」と思っていたことも思い出した。

 ここから類推するに、クソみたいな自分の過去の価値を切り捨てる為に、長々とこうした駄文を連ねてきただけかもしれないという気になってきた。


 おわり

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