きんちゃんのエッセイ集
きんちゃん
死について考えてみた
次の小説が完成するまでまだしばらく掛かりそうなので、軽くエッセイのようなものを書いてみたいと思う。
どんな論旨にするか、構成なども考えていないので、とりとめのないものになってしまう可能性が高いがお許し願いたい。
どっちみち明確な答えなど出ないものだし、誰もそれを期待してはいないだろう。
表題にある通り『死』についてである。
私は死が怖い。
正確に言うならば、『自分が死ぬ』ことがとても怖い。
遠いどこかの国で大量に人が死ぬこと、あるいは自分にとって身近な人が死ぬことも、『自分が死ぬ』ことと比べれば何ら恐怖ではない。無論それらが好ましいことだと思わないし、そのような出来事に直面した時には悲しみを抱くだろう。
だが自分が死ぬことと比べればそれらは些事だ。圧倒的に他人事だ。
他人事なのに悲しみの感情を抱ける場合、あるいは怒りの感情を覚えることが出来る場合などは……自分にとって本当に好ましくない出来事なのだろうか?と意地悪な自問を立てることも可能なほどだろう。
自分にとって一番身近な人の死、ということであれば父親の死を挙げる。
自分が小学校6年生の時に父親は亡くなった。まだ60才に届かない年齢だったと思う。
長い闘病生活の末にとか、何か大きな持病を抱えていたというわけではなく、夜中に突然苦しみ出し、気付いた母親が救急車を呼んだ時には既に手遅れだった。
その時に何を思ったのか、20年以上前のことを正確に思い出すことは難しい。
もちろん子供らしくワンワン泣いたが、どこまで行っても自分中心の思考だったことは間違いない。
「あまり会えない親族が久しぶりに一緒に集まったな~」と通夜の際に若干嬉しかったことを覚えている。
「母親も一緒に死ねば、自分はもっと悲劇の主人公になるな~」と思ったことも覚えている。
当時は父親も母親も自分も、とある宗教を信仰していたため「父親の後を継いで、立派な宗教者になるよ!」と一人涙ながらに誓ったことも覚えている。当時すでにその宗教に対してかなり懐疑的だったのにも関わらずである。
まあつまり……矛盾に満ちた色々なことを思った。
両親と自分が所属していた宗教では『神を信じて立派な行動をしていた人は楽園で復活する』という教義があり、母親もそれを固く信じているようだった。今も信じているのだろう。
だから、父親とは一旦『死』という形で別れたものの、地上の楽園でまた会える……という共通理解が、家族内や同じ信者の間では成立していた。
だから過度に悲しむ必要はない、そうすべきではない……という雰囲気すらあった。
現在の自分は、楽園での復活という教義を信じていない。
肉体を離れた意識や魂などは存在するわけがない!……と固く信じているからだ。
つまり父親と会うことはもうない。
それを初めて言葉にした時はそれなりに悲しかっただろうが、今となってはその時にどう思ったのかはっきりとは思い出せない。
要は自分をこの世に誕生せしめた父親の死、という一大イベントも、自分の死というものに比べたならば些事なのである。
それほどまでに『自分の死』というものが怖い。
自分の死は、全ての終わりと理解しているからだ。
私がそこをどう関連させて理解しているのかを少し整理してみたい。
1、自分が認識出来る範囲の全てを「世界」として理解している。
2、肉体を離れた認識や思考は有り得ない
3 ゆえに自分の死は世界の終わりと等しい
大まかに言うならばこうだろうか?全て当たり前のことと言えば当たり前のことだと思うが、そうは思わない人もいるかもしれない。
異論を述べる人がいるとしたら、2の「肉体を離れた認識や思考は有り得ない」という部分だろう。
全てではないが一定数の人々は「魂が身体を操っている」というようなイメージを抱いている。
なぜ多くの人がそのようなイメージを持っているか……というと、社会的・慣習的にそう植え付けられてきたからだ。なぜそう植え付けられてきたのか?となるとテーマが広くなりすぎるので割愛させていただく。興味のある方は自分で考えたり調べたりしてみて欲しい。
ともかく「肉体を離れた認識や思考は有り得ない」という部分についてもう少し説明したい。
逆に全てのもの(人?物?)に肉体を離れても存在しうる魂が宿っている……という場合について考えてみる。
自分に魂がある。付き合ってる彼女にも魂がある。友人のアイツにも魂がある。ムカつく上司にも魂がある。世界の裏側で貧困に苦しむ人々にも魂がある…………
いやいや、人間だけに限ってしまうのは傲慢だろう。
「愛犬のココアにも魂があるよ。だって飼い主のワタシの言うことをちゃんと理解して反応する、とっても可愛い友達以上の存在だもんね!」と犬派の人が言えば
「いやいや!犬みたいな飼い主に媚びへつらっている存在に魂があるのならば、より高等な存在である猫様にはもっと高尚な魂が宿っているに決まってる!」と猫派の下僕は言うだろう。
「犬や猫に魂があるなら、ウチのインコも!」「ハムスターも!」「カブトムシも!」……ゴキブリ、蚊、細菌、ウイルス……どこまでの存在に魂があるのだろうか?
動物だけに魂があるのだろうか?植物はどうだろう?場合によっては遥かに人間よりも長命で、神として祀られている大木もある。では無機物はどうなのだろうか?
……その線引きは難しいもののように思える。
今までに地球上にどれだけの生き物が存在していたのか想像するのも難しいが、それら全てに魂が宿っていたのだろうか?
あるいは「魂は全て輪廻転生をするので総数は一定だ」ということなのだろうか?
産業革命によって、あるいはもっと遡れば農耕が始まった時点で地球の人口は爆発的に増加した。爆発的に増加した分の魂はそれまでどこに存在していたのだろうか?
あるいは地球や宇宙が滅びても魂は存在し続けるのだろうか?数億年~数百億年というスケールで見れば地球や太陽系、そして宇宙全体が滅びることは確実視されている。それでも何か別の位相に魂は存在しつづけられるのだろうか?何ら確たる証拠もないその様な世界を信じられる理由はあるのだろうか?
答えははっきりしている。肉体を離れた魂などは存在しない。
人間には肉体しかないのだ。どんな抽象的な思考、あるいは奇妙な幻覚も……身体の一部の脳の機能に過ぎない。
肉体を離れた魂などは錯覚、あるいは願望に過ぎない。
錯覚の小さな原因は「眠りという小さな死から目覚める奇跡」と「目を閉じても思考が出来る」ということだろう。
大きな原因は「人間の不可知な部分を神と名付け、それを利用して人の心を動揺させ、自分の利を貪ってきた」汚いヤツらから連綿と受け継がれてきたものだ。
決して肉体を離れた魂などは存在しないのだ!
……だからこそ死が怖い。死ぬほど怖い。
だって『自分の死』は全ての終わりなのだ。どんな苦しみよりも怖い。
どんな肉体的な苦痛よりも、絶望的な孤独よりも、世界中の人々に嫌われ無視されることよりも、無駄な時間を過ごして人生を棒に振ることよりも……怖い。
でも怖すぎてなぜそんなに死が怖いのか分からない。……いや分からない、ということが怖いのだろうか?
死とは全ての終わりであり無である。ということを散々述べてきた。
……でも『無』ってのは何だ?
『無』を想像するのは中々難しい。死んだ後の「永遠の無」を想像してみる。
……感覚もなくて、思考もなくて、意識も時間もなくて…………ええい、分からん!
どれだけ想像をしていっても、所詮我々は『有』の側にしか立てないのだ。
つまり生きている状態とは決定的に違う状態になってしまうのだ。
「生と死が決定的に違う?……そんなの当たり前じゃねえかよ!」と突っ込む方もいらっしゃるだろう。
でも、どれくらい決定的に違うかも説明できないくらい、階級の異なる違いなのだ。
「幸せな天国での暮らし」も「地上の楽園」も「永遠に続く地獄での責め苦」も全て、死後の世界を現世の側から説明しようとする欺瞞だと思う。
そんな程度の事象に回収されないくらいに、死は恐ろしいのだ。
(自分にとっては)不思議なことに、多くの人々はここまで死を恐れてはいないように見える。
多少は死について人と話したこともあるが、相手が自分と同様の感覚を持っていると思ったことはない。
多くの人は自分がいつか死ぬことを、他人の死と同様のものとして受け入れている……ように見える。
「こういうのは順番だから」「考えるだけ無駄だよ」「生きている内に悔いのないように生きよう」
という反応が殆どだと思う。
そしてそれが全く正しいことは百も承知している。
それでもだ……よくこんな理不尽を受け入れられるな、と思う。
人は誰も産まれたくて産まれてきたわけではない。別に望んでもないのにいつの間にか産み落とされて、僅かな喜びと数百倍の苦しみとを味わわされた上に、圧倒的な恐怖を植え付けられた『死』へと歩んでゆくのだ。
マジでこれ以上残酷なことなんて想像も出来ない。
神様がもし本当に存在するならば、一発で良いから殴らせてもらわないと死んでも死にきれない。
しかし、誰も死んだことは無い。臨死体験は死とは違う。
だから本当のところ、人が死ぬとどうなるのかは確かめようが無い。
上記の推論も全て生きている側からの一方的なものだ。そこに隔絶があるから恐怖があるように、隔絶があるから都合の良いように解釈をして希望を見いだす人も居る。
自分も以前は「宗教なんぞ欺瞞だ!滅びるべきだ!」と強く思っていたが、現在はそこまで攻撃的ではない。(攻撃的な気分になることもある)
死の圧倒的な恐怖が少しでも紛れるのならば、多少の嘘を信じることは問題ないのかもしれない……という気になってきている。ただし、誰かに強制することはダメだ。
(自分にとって)死の恐怖からの救いはない、と思う。
あるとすれば、生の価値を切り下げる……という仏教的なものではないか?と思っている。
しかし「生きていることがあまりに辛く、死ぬことが救いになる」という人たちも間違いなく存在して、多くの人たちが自ら命を絶っている。それは単に死ぬことよりも悲しいことではあるが「とても悲しいこと」としてしか捉えられないのは、結局は他人事だからなのかもしれない。
死が如何に絶望的で残酷なことかは既に述べた。
そこを出発点とすると『現在存在している自分』というものがとても輝いているものにも思えてくる。
死と生、無と有とに隔たりがあるのならば、そこを飛び越えて自分というものが存在していることが、意味が分からないくらいの奇跡にも思えてこないだろうか?
まあそうやって生が輝けば輝くほど、死の残酷さも増すのだが。
(了)
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