帰郷
伊島糸雨
帰郷
母が死んだ。
二十歳で家を飛び出してから、十年後の夏のことだった。
八月の終わりは蝉の音に満ちて、照りつける陽光が枝葉の隙間からアスファルトを焼く。空は眩しいほどに青く澄んで、快晴の報にも頷けた。
新幹線から在来線を乗り継いでいくと、車窓を流れる景色は彩りを変えて、人工物の連なりは遠く霞む山々と田畑の合間に立つ電波塔へと姿を変える。座席に沈めた身体は重く、目に映る鮮やかさに反して味気なさが募る。
親の葬式に行くのがこんなに憂鬱だとは思わなかった。そんなことを、繰り返し繰り返し、考えている。
母とは、昔から折り合いが悪かった。厳格な人で、私が母にとってのルールを逸脱することをひどく嫌がっているようだった。
対する私は、それに「はいはい」と従えるような器量もなく、反発してその挙句の果てに家を出るような娘だった。いい思い出なんてものは、直近には見当たらない。
昼過ぎ。最後の路線に続く駅に停車して、私はその殺風景なホームに降り立った。人はまばらで、駅舎も小さい。昔は見慣れていた光景なのに、何年も経ってみると懐かしさを覚える。
時刻表では、実家の最寄り駅へと向かう電車までまだ時間があった。駅舎の庇の下にあるベンチには、子供用の麦わら帽子が置かれていた。忘れられてしまったのだろうか。まだ真新しいそれは、表情のない無邪気さで隅を占拠していた。買ってもらったばかりの帽子を嬉しそうに抱える少女の姿を想像しつつ、私はその隣に腰掛けて、次の電車を待つことにした。
じわりと滲む汗を拭い、水筒に入れた水を飲む。ジーワジーワと鳴く蝉の声が、四方から響いていた。
はっきり言って、葬式になんて出たくなかった。こんな私を周囲がどう見るかなんてほとんど明らかだったし、死んだからと今更顔を見せるのもおかしな気がした。
死化粧を施された母にいったいどんな言葉をかければいいのか、私は戸惑うばかりだった。もうずっとやりとりもせず、それぞれ別の場所で、ほとんど他人としてやっていくだろうと漠然と考えていたのだから。
私自身、どうしてここまで来たのか、まだ整理もできていない。いっそ頑なに拒絶するという選択肢もあったのに、それを選ばなかったのは、感傷ゆえだろうか。
母はどんな顔をしていただろう。どんな声で、どんな言葉を投げかけただろう。
母の姿は影法師のように、私について回った。だから逃げ出したのに、結局死によってしかロクに決別もできないなんて。
気がつくと、母のことを考えている。どちらにしろ、もう会うことはかなわない。今になって私がどう思おうと関係ないけれど、ぼんやりしているうちに、記憶は巡る。
傍に置かれたままの、迷子の麦わら帽子に目を向ける。思えば、私も幼い頃にはこんな帽子を頭に乗せていただろうかとふと思った。あれは、まだ残っているだろうか。夏になると引っ張り出してきて、どこで遊ぶにも持って行ったっけ。
どうしてだったろう? 記憶を探るうちに、徐々に思い出してくる。そうだ。あれは、母が初めて私に作ってくれたものだったのだ。だから、私はそれが何よりも嬉しくて、中学生になって頻繁に衝突するようになるまで、ずっと使っていたのだった。
「お母さん早く早くー!」
甲高い声が改札の外から響き、少ししてからそれを窘める声がした。駅員との会話から、帽子の持ち主らしいとわかる。私は手を伸ばして鍔を掴み、駅舎へと入っていった。
「探し物は、これかな」
差し出すと、女の子は「あっ!」と叫んで、ちょうどやってきた母親に言った。「お母さん、あったよ!」そして帽子を受け取り、満面の笑みを浮かべた。
「お姉さん、ありがとう!」
遮るもののないその眩しさに私は思わず目を細めた。
「どういたしまして」
母親の会釈に私も返して、その背中を見送った。少女は大事そうに帽子を被り、二人は手をつないで、その影もまた、穏やかな愛情に満ちているように私には思えた。
ホームに戻ると、遠く、直線に敷かれた線路の上を電車が走るのが目に入った。私はすっかり重くなった腰をあげると、そのシルエットがホームに滑り込んでくるのを待った。
すっかり気は変わっていた。日も暮れかけてしまったけれど、母に会いに行こうと思う。
そして、麦わら帽子を取りに行こう。
足を踏み出す私のことを、幼い日の私の影が、帽子を被って笑っていた。
帰郷 伊島糸雨 @shiu_itoh
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