第41話 (ずっとずっと、言いたかった)


 颯太と篠は、夜の公園に来ていた。

 草むらから、虫の音がうるさいほどに鳴り響く。


 篠は旭とコンビニに出ていたせいでずっとスマホを確認していなかったらしく、颯太からのメッセージに気付くとふんわりと笑ってくれた。「少し遅れる。颯太と一緒にいる」と篠が家に連絡を入れると、二つ返事で了承の返事がきた。


 公園の中に自転車を入れ、スタンドを立てる。颯太がブランコの前にある手すりに腰掛けると、篠がいそいそと股の中に入ってきた。


 街灯が上にあるため、光が当たって篠が見えやすい。颯太は何も言わず、篠の腹に手を回し、腕の中に囲う。

 今日悲しませてしまった篠が、少しでも元気になるのなら、颯太は何でもしてやりたかった。


(さっきは、なんで泣いてたんだろう)


 聞きたいが、今の颯太が聞いていいとは思えなかった。颯太には先に、やるべきことがある。


「――今日は、すみませんでした」


 篠を腕に囲んだまま俯いて言うと、篠が颯太の顔に手を伸ばしてきた。


 導かれるように、顔を篠の手に近づける。頬に篠の指がそっと触れたと思うと、そのまま手のひらで颯太の顔を包み込んだ。全身の温度が上がり、体が痺れる。颯太は、頬を篠の手のひらに押しつけた。


「ううん。私こそごめんね。聞いてから動けばよかった」

「違います。見に来てくれたのも、弁当も、全部嬉しかったです」

 颯太が強く否定すると、篠は一瞬黙り込んで、決意したように顔を上げた。


「……じゃあ、やっぱり美和ちゃんが来たから?」


「は?」


 全く想像していなかった質問に、颯太は目を丸くした。そして、今日美和と会っていたことを思いだした。そんなこと、もう完全に忘れていた。


「美和ちゃんがいたから、私に練習見られるの、嫌だった?」


 唖然として声が出なかった。颯太は大急ぎで、ぶるぶると首を横に振る。


「美和と会ったことなんか、今の今まで忘れてました」

「……え、それは、あり得る?」

「俺にとって美和と会ったのも送ったのも、無茶苦茶どうでもいいことです。俺が、篠に嫌な態度を取ってしまったのは……そうじゃなくて――」


 颯太は篠の腹に回している自分の手と手を、ぎゅっと握りしめる。


「今日俺は、陽介君に嫉妬してました……。嫌な態度をとって、すみませんでした」


 力の無い声は暗く沈んでいた。

「……辻浦君? なんで辻浦君??」

 篠が混乱して尋ねる。


「――篠が、陽介君に『付き合って』って言ったって、部の先輩に聞いて……」

「私が辻浦君に?? ――告白なんて、してないよ?」

「その話は誤解だったって、陽介君に聞きました」


 実際には、どんな経緯があってそんな話になったのかまでは聞いていない。篠に聞きたい気持ちと、聞きたく無い気持ちがない交ぜになる。


「辻浦君まで知ってるの……? ――待って。その話、噂になってる?」


 バレたらやばい、と呟いて篠は体を離そうとした。手をポケットにやったことから、誰かに連絡を取ろうとしたのだろう。


 颯太は、篠が離れてしまう前に強く抱き寄せた。先ほどまでの、ただ腕を囲っているだけとは違う。腕で篠の腹と肩を掴み、完全に颯太が篠を抱きしめていた。


「……颯太」


「なんでやばいんすか」


 一度漏れた言葉は、止まらなかった。


「バレたく無かったんすか。誤解だったんじゃないんすか。本当に、『付き合って』なんて、陽介君に言ったんすか」


 陽介は、可能性と確率の話だと言っていた。


 曖昧な表現だが、颯太は陽介の言葉を信じている。信じているが、信じている気持ちとは別のところで、そんな台詞を篠が他の男に言ったのかと思うと、我慢がならなかった。


「そんなこと、本当に、言ったんですか」


 抱きしめる腕に力がこもる。


(――俺だって、言われて無いのに)


 篠の肩に、颯太が顔を埋めると、宥めるように篠が颯太の頭を撫でた。


「バレたらやばいのは、実里ちゃんに勘違いされて、嫌われたくないから」


 きっぱりと篠は颯太に言った。

 颯太は顔をくしゃくしゃに歪めて篠を見る。


「辻浦君には、『実里ちゃんを好きになる前に、私が付き合ってって言ったら付き合ってくれた?』って聞いただけ」


「なんでそんなこと聞いたんですか!!」


 そんな質問を、篠が他の男にしたのだと思うと、全身が沸騰しそうだった。そんな親密な距離を、絶対に自分以外に許さないで欲しい。


「俺より、陽介君との方が親しいとか、そんなわけないですよね? 絶対、俺の方が篠と仲よかったじゃないっすか」


「そうだよ」


「相談なんて、なんで陽介君にしたんすか。陽介君でも、他の誰でも無くて、俺にしてください。さっきも……まだ頼りないかもしれないけど、泣くなら、俺の前で泣いてください」


 旭が兄だとわかっていても、旭が泣いている篠を慰めていたのかと思うと嫌だった。自分の前で泣いたことが無い篠。自分の知らないところで、他の男に慰められているなんて、耐えられない。




「やだ」




 篠の声が、夏の夜のむんとした空気に溶けて、颯太の耳に届く。


 唖然として、颯太は篠を見た。絶望さえした。この人は、たった二文字で簡単に颯太を地獄に突き落とせる。


「……なんで、ですか」


「考えて」


 篠が振り向いた。颯太の腕は力を失っている。だが、篠を離すことだけは無かった。そして篠も、離れることは無かった。



「颯太、考えて」



 篠の強い視線が颯太をまっすぐに見据えた。


「私をどうしたいのか、私とどうなりたいのか、颯太が何を望んでいるのか――泣いてくれるくらいなら、ちゃんと考えて」


 篠の指が颯太の顔に伸びる。颯太は無意識に、篠の指に頬を寄せた。

 細く柔らかい篠の指が、颯太のまなじりを撫でる。自分がいつの間にか泣いていることにも、颯太は気付いていなかった。


 篠の指に撫でられ、そっと瞼を閉じる。


 悲しい時も、嬉しい時も、迷っている時も、他の誰でも無く、自分を一番に呼んでほしい。

 自分の名前が篠を守れる立場にいきたい。

 何かあった時に、篠を守って当たり前の位置にいたい。

 恋愛沙汰に巻き込んだ時に、弁解する義務がほしい。

 他の男に冗談でも、『告白したら』なんてことを、言わせられない権利が欲しい。

 篠を他の男に渡したくない。


「篠」


 涙を拭う篠の手を、颯太が包み込む。手のひらにすっぽりと収まる、小さな手だった。この手がずっと、颯太を引っ張ってくれていた。


 瞬きをした拍子にまた涙が滲んで、篠の顔が一瞬見えなくなる。


「篠」


 掴んだ手をそのまま絡める。篠の指を、颯太の指で撫で、指の隙間に入り込んだ。


 篠の目を見つめながら、反対の手で篠の頬を撫でる。篠の目に一瞬でも拒絶の色が混じらないか、辛抱強く待ちながら、颯太は篠の頬を親指で撫で続ける。


 篠が颯太の指に甘えるように、首を傾けた。傾ける時にそっと伏せた瞼を、ゆっくりと上げる。篠の瞳に、熱がこもっている。


 そして、ふわわっと篠が笑った。


(許された)


 篠の顔を優しく持ち上げ、上を向かせる。篠の瞳は街灯の明かりでキラキラと光っていた。

 互いに吸い寄せられるように唇を重ねた。柔らかく、温かい感触が颯太の体中を痺れさせる。


 唇を重ねたままの篠が、キスをしやすいように顔を僅かに動かした。


(同じ気持ちだ)


 喜びが一気に胸に吹き込む。煽られて、キスを続ける。

 唇を離して、またくっつけて、二つの唇の柔さも温度もわからなくなるほどに、何度も何度も互いを求める。


 吐息が漏れ、漏れた吐息さえ飲み込んで、唇を離して、くっついて、顔の角度を重ねては、貪る。濡れた唇にかかった吐息で、ぞくぞくとした痺れが背筋からうなじを駆け上った。


 弾力のあった唇が、力を失うようにどんどんと柔らかくなっていく。その変化も、何もかもが愛しくて、軽く歯を立てた。つるんとした滑らかな、唇の内側の感触を舌でなぞる。篠の喉から、声にならない音が漏れ出た。


 篠の口が薄く開く。颯太が舌をねじ込むと、篠はおずおずと更に口を開いた。求められたことが嬉しくて、熱い舌と舌を絡ませ合う。甘くて、可愛くて、たまらなかった。


「颯太」


 唇を離した一瞬の隙に、掠れた声が漏れる。


 抑えきれない荒い息をこぼしながら、颯太は篠を見た。颯太の瞳には欲という名の熱がこもり、ぎらぎらと篠を睨み付けている。唇を離しているだけのことが、まるで苦行のようだった。


 篠も目を潤ませ、震える呼吸を吐き出していた。

 結んでいた手はいつの間にか解かれ、気付けば颯太は両手で篠の顔を包み込んでいた。篠は背伸びをするような格好になっている。

 颯太は慌てて手を離すと、篠を持ち上げた。そして手すりに座る自分の片方の腿に乗せると、篠が落ちないように、背に手を回す。


 篠が颯太の背と肩の服を掴み、全身で颯太に寄りかかる。


 篠が荒い息を整えるまで待つつもりでいた。小さな背を撫で、落ち着くのを待っている間に、颯太は篠の頬についばむようなキスをした。頬にキスをすれば、耳の裏にも、首筋にもキスをしたくなるもので、膝に篠を乗せた颯太は、篠の背中を抱きながら、次々に口づけを落としていく。


「そおた」


 とろけたような顔をして、篠が小さく呟いた。颯太は全身の力を振り絞って、キスを止めた。


「――篠。耳、見せて」


 荒い息をしながら、颯太に抱きしめられていた篠は、ゆっくりと首を傾げた。いつもは、自分で勝手に見るじゃ無いかとでも、言っているような瞳に、颯太が強請る。


「見たい」


 篠は一度俯き、少しの間考えた。

 そして、ゆっくりと手を持ち上げると、僅かに指先を僅かに震えさせながら、自分の髪を掻き上げた。


(赤い)


 真っ赤に染まった耳が、髪の隙間からまろびでる。


(真っ赤だ)


 篠は颯太から視線を逸らし、震える指で髪を持ち、自分の耳を見せている。そんな篠を見て、颯太は言い知れない幸福を感じた。




「篠が――」




 真っ赤な耳に唇を寄せ、颯太が囁く。


「ふわわって笑うのが好きです」


「……うん」


「頑張る時は、真っ直ぐなのも好きです」


「うん」


「実は図太いところも好きです」


「うん」


「すぐに触ってくるのも、俺を見たら走ってくるのも好きです」


「うん」


「自分のしたいことを、言ってくれるのも好きです」


「うん」


「好きなことを教えてくれるところも、俺の好きなものを知ろうとしてくれるところも、好きです」


「うん」


「怒ると怖いところも好きです」


「うん」


「篠。俺を、篠の彼氏にしてください」



 篠は颯太の胸に顔を埋める。膝に乗せた状態で顔を伏せられると、本当に顔を見ることが出来ない。


 篠が細い息を吐き出す。その吐息は、微かに震えていた。




「――私と、付き合うってことは」




「はい」


「男の人絡みの、面倒なことよく起きちゃうし」


「はい」


「外出る時は手繋いでなきゃだし」


「はい」


「エレベーター探しがちになっちゃうし」


「はい」


「他の女の陰があると、すぐふて腐れて泣いちゃうし」


「はい」


「返品不可だし、騒がしい家族はついてくるし」


「はい」


「二度と離して、やれなくなるけど――」


 篠が、幾分不安そうな目で、颯太を見上げた。



 篠は『いいの?』と――『ほんと?』と、聞き返せない人だった。



 そんな篠が、こんなに全身で尋ねている。頼ってきている。


(今はきっと……聞いても、俺が許すと信じてくれてる)


 断るなよ、と言う前提のもと、甘えてきている。

 颯太は嬉しくて、わき上がる喜びで体が震えそうだった。


「はい。――それ全部、俺がしたいです。俺の権利にしてください。俺にしか、許さないでください」


 真剣な目で言う颯太に、篠はくしゃりと泣き笑いを浮かべた。

 堪らなくなる。こんなに幸せそうな顔を、自分がさせたのかと思うと、苦しいほどに幸せだった。


「可愛い」


 許されていた言葉を、颯太は言った。


「篠、可愛い」


 篠は瞠目した。

 そして、篠の頬がゆっくりと赤く染まり始める。


『顔、赤くはなるんですか?』

『わかんない。自分じゃ見えないし、耳は熱くなるからわかるんだけど』

『じゃあ今度、頑張って赤くしてみてください。俺いれば、周りに人いても大丈夫でしょう?』


 いつかの会話を思い出す。

 颯太は堪らなくて、堪らなくて。


「可愛い」

「ぅん……」


 篠が返事をする前に、唇で唇を塞ぐ。先ほどほぐしたばかりの柔らかな唇は、すぐに颯太の唇ととけ合った。


「可愛い」

「ん……」


 唇を離しては、「可愛い」と囁く。その全てに返事をしようとする篠は、全てが失敗に終わった。


「篠、好きです」


 ようやく唇を離した時には、篠は息を弾ませながら、颯太の腕の中に再びくったりと身を委ねていた。

 しかしその瞳だけは挑戦的で、颯太を甘く見つめている。


「……聞こえなかった。もう一回言って」


「最近わかってきたけど、篠それ、わざとですよね?」


 顔を真っ赤にして、荒い呼吸をしているというのに、篠はにこにこと笑う。この笑顔に、颯太はほとほと弱かった。


 篠はきっと、颯太が見ている面だけじゃないんだろう。今の颯太はまだ、篠に「見せて貰っている」側だ。


 きっと、篠は颯太に見せないところで、もっと沢山のことを考えている。


 純粋なだけだろうと思っていた篠が、たまに颯太にほんのちょっとの意地悪をしかけているのだと、わかる程度にはそばにいた。


(これから……そんな篠をもっと知りたい。もっと、色んな篠を見せて欲しい)


 真っ赤な耳に唇を寄せ、要望通りにもう一度囁くと、篠は満足げに笑って颯太の首に腕を回す。


「私も、好き」


 ふわわ、と篠が笑う。


 この言葉を聞きたくて、この顔で言われたくて、仕方が無かった。颯太はぎゅっと篠を抱きしめる。


 あまりに可愛くて、夜の公園で、颯太はもう一度キスをした。








===================



「あっはっはっはっはっは!」


 篠を家に連れて帰るなり、玄関ドアを開けた岬が涙を流さんばかりに大笑いする。


「ちょっと待ってなさいあんた達。さすがにお父とお兄には見せらんないわ、その顔。」


 ひーひー言いながら、一度ドアを閉めた岬は、またすぐに戻って来た。その手には、拭き取り式のクレンジングシートが握られている。


「篠、こっち向きな。はい、ソータはこれ。口もほっぺも、顔中全部綺麗に拭きなさいよ。よくもまあ、そんな顔で誰にも声かけらんなかったね」


 颯太はわけもわからず、渡されたシートで顔を拭った。シートを見て、ぎょっとする。ピンクの口紅と、キラキラと光るラメが大量に付いていた。


 岬は大笑いしながら篠の顔を拭き取っている。


 篠も流石に恥ずかしそうに、されるがままに岬に顔を拭かれていた。

 拭かれながら颯太と視線が合うと、篠はとてもとても甘い顔をして、ふわわと笑った。





 触れる指先、留まった心 ― おわり



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