第29話 (ふーーーーーーーん)
「篠は休みの日、何してるんすか」
呼び捨てにするのは、まだ慣れない。敬語とのアンバランスさに笑えてくる。
撫でられ終えたことが不満だったのか、篠は自分の頭に手をやると颯太が撫でていた場所を、自分で少し撫でた。
「よく寝てるよ」
「寝……?」
「燃費が悪いの」
ふああ、と篠が小さくあくびをした。撫でていたせいで、まどろんでいたのかもしれない。
「……今日、結構疲れたんじゃ」
「実はちょっと」
かなり連れ歩いた覚えがある。たかだか三十球のレシーブ練習で息を切らしていた篠を思い出した。サッと血の気が引く。
(やばい、死なれる)
テンパった颯太はベッドから立ち上がる。沈んでいたベッドのマットレスが浮いた。
篠の前に膝を付き、目線を合わせる。
「夕飯まで寝ますか? 俺、起こしますよ」
慌てふためき、眉を八の字にした颯太を見て、篠はクッションから顔を出した。
「……帰っちゃわない?」
「流石に唐揚げまで頼ませておいて、帰りませんよ」
(この人は俺を、どんだけ薄情だと思ってんだ)
笑って言えば、篠がふわわっと笑った。持っていたクッションをベッドに放り投げ、颯太の手を両手で掴む。
「来て」
篠がベッドの上に立ち上がりながら、颯太の手を強く引いた。しゃがんでいた颯太はバランスを崩してベッドの上に倒れ込む。
四つん這いのような姿勢で颯太がぎょっとしていると、篠は床に放置されていた颯太のバッグを手に取り、一緒にベッドに上る。
「はい」
と差し出され、篠と向き合う形にベッドの上で座り変えた颯太は、自分のバッグを受け取った。
「スマホ見てていいからね」
「はい?」
篠は満足げな顔を浮かべて、ごろりと転がる。篠の頭が、颯太が組む胡座の中に入った。
「嘘だろちょ、おい――」
驚きすぎて敬語が抜けた颯太を、篠が上から見上げてくすくすと笑う。
天使のような顔の篠の横には、一日中靴を履いて歩いた颯太の靴下がある。天使の顔に、全く相応しく無い。颯太は顔面を蒼白させた。
「頼みますから。せめて顔、こっちに」
颯太が自分の太股を叩くと、篠がのそのそと這い上がってきた。これで、天使が足の匂いを嗅ぐ危険は減っただろう。
心底ホッとして、颯太は篠を見た。篠はベストポジションを探っているのか、颯太の下半身の上でごそごそと身を捩っている。動きがくすぐったいが、直史の家にいるコーギーだと思えば、我慢出来ないほどでも無い。それよりも切実な問題があった。
(あー……位置やばい。失敗した。舐めてるみたいに見える)
颯太の体の方を見て転がっている篠の顔の位置が、颯太的に完全にアウトだった。靴下の匂いではなく、今度は他の部分の匂いが気になり始める。篠の柔らかい頬が、内腿に当たる。下半身に緊張が走った。
(うわ……意識すんな。ジーンズでよかった。ジャージなら死んでた)
見るんじゃ無かった。颯太は顔を上げると、篠の取ってくれたバッグを開いた。焦る手つきで、スマホを取り出す。
残念ながら、スマホの中に母親の写真は入れていない。気を静めるには一番手っ取り早いのだが、違う方法を試みるしか無い。
竜二とやっているソシャゲを開く。無心でパズルを解いていると、すぐに篠は眠りについた。
小さな寝息が聞こえ始める。
ホッとして、全身から力が抜けた。
(あーあ。何やってんだ……)
体を倒すと、後頭部が壁に当たった。そのまま腹の底から息を吐く。
ベッドからは、篠の匂いがした。いつもの人工的な柑橘類の香りとは違う、篠自身の匂いがする。
素朴な篠の部屋にいる、突然の異物。
篠の部屋の雰囲気とは正反対の自分が、何故か部屋に歓迎されているような、しっくりと馴染んでいるような、途方も無い気持ちになる。
(ここが、篠の部屋)
先ほどは見られなかった篠の顔を見下ろす。頬に髪がかかっていて、颯太はそっと指の腹で髪を払った。耳が見えるように、邪魔だった髪を耳にかける。
柔らかな耳を少しだけ摘まんだ颯太は、篠の頭を撫でた。二度、三度、ゆっくりと慈しむように撫で続ける。
ベッドの上に放られたスマホの画面には、タイムアップと表示されたいた。
***
「そろそろ降りてらっしゃーい」
階下から、篠の母に大きな声で呼ばれ、颯太はびくりと体を揺らした。
竜二に頼まれ、ソシャゲのボス戦を手伝っている途中だったが、迷い無くスマホを閉じる。そして自分の膝の上で眠りこけている篠の肩を掴んだ。
「はい! すぐ行きます!」
(絶対に気を遣われた)
颯太は顔が赤くなりそうだった。確かに、颯太だって兄が女の子を部屋に連れ込んでいる時、颯太も出来る限り遠くから声をかける。
「篠、篠。起きてください。お母さんが呼んでますから」
「んんっ……」
寝ぼけた篠が、颯太の腿に手をついて上体を起こす。腿に触れる篠の小さな手のひらの柔らかさと、支えにしている場所の際どさに、体がびくっと震えた。
目を擦っている篠は、すぐそばにある颯太の顔を見ると、ふにゃっと笑った。
「そーた。おはよう」
そう言いながら、篠は再び颯太の胡座の中に戻っていく。
「ちょ、駄目ですって」
「起こしてぇ」
手を上げた篠の脇に手を入れ、ぐっと持ち上げる。ベッドは柔らかく、踏ん張りがきかない。このまま立ち上がるのは危ないため、颯太はひとまず篠を自分の膝に乗せた。
丁度いいところに支えが来た、とばかりに、篠が颯太の首に巻き付く。
「篠、抱きつくんじゃ無くて。起きますよ。起きて。起きてください」
「ううん……」
無理矢理篠の腕を引き剥がすことが出来ずに、颯太は篠の背をぽんぽんと叩いて諫める。
「あんまり遅くなるとまずいですって」
「なんで?」
「慌てて服着たと思われるじゃないすか」
現に颯太は、何回かそういう場面に立ち会ったことがある。
呼んだ後に返事だけして、いつまでも顔を見せない兄と彼女は、大抵慌てて髪や服を整えながら出てくる。何をしていたのかは一目瞭然で、その時の家族といったら気まずいなんてものじゃない。
特に、颯太は篠の恋人でも何でも無い。篠の母に誤解されることだけは避けたかった。
「ふーーーん」
冷ややかな声がして、ドキリとする。
「詳しいんだねえ」
颯太の首に手をかけたまま、篠がにこりと微笑んだ。長谷川を前にした時の笑みと同じだった。
一気に顔から血の気が引く。篠が誤解していることは明らかだった。
「いやあの、俺じゃ――」
「聞く義理無い。下行こ」
「……はい」
あれほどぐずっていた篠が、すんなりと颯太の膝の上から降りる。
篠はいつもほわほわしておっとりと優しげだが、怒っている時はとりつく島が無いことを、颯太は今日知った。
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