第6話 「朝から珍しいね」「いるかもしれないから」
「そろそろ戻らなきゃ」
予鈴が鳴る前に、篠が食べ終えた弁当を包み始めた。
颯太は行きがけのことを思い出し、自分も立ち上がる。
「送ります」
「……ありがとう」
小さく首を傾げて、ふわわっと篠が笑う。食べ終えたB定食のトレイを、返却口に運ぶ。
「舛谷君、森尾君。急にお邪魔してごめんね。また一緒に食べてくれる?」
「もちろんです!!」
「はい、いつでも」
「ありがとう。またね」
篠は小さく手を振って、颯太のもとにパタパタと走る。
足音で走ってきた篠に気付いた颯太は、立ち止まって待った。
「走らなくていいっすよ」
トレイを返却するのに、付き合わせるのが申し訳無いと思って先に動いたが、裏目に出たようだった。
「そう? ありがとう」
「行きましょうか」
「うん」
中庭を抜け、教室棟に戻ると、予鈴前に教室に戻ろうとする生徒で溢れていた。今までは人通りの多さなど気にならなかったのに、篠が階段を怖がっていることに気付いた今は、多少面倒に感じた。
「後ろにいますんで」
「ごめんね。大丈夫だとは、わかってるんだけど」
「気にしてません」
「ありがとう」
颯太は手すりをしっかりと握る篠の、一歩後ろを歩いた。ゆっくりと歩く度に、篠のスカートが揺れる。襟から覗いたスカーフは、ずれて変な形になっていた。
(だから、自分で結べばよかったのに)
篠の髪は長く、背中まであった。片方の肩にまとめていて、白いうなじが覗いている。
(……あんまり男に、後ろ歩かせない方が良さそうだな、この人)
特に上りの階段では、段差一個分、視線が近付く。つむじは見えない。
「ありがとう。ここでいいよ」
階段を上りきった篠が振り返る。思っていたよりもずっと目線が近かったことに、颯太は焦った。すぐ後ろを歩いていたせいで、顔が驚くほど近くにあった。
目をぱちくりとさせる颯太を見て、篠はふふっと笑った。
「びっくりしちゃったね」
「ああ、はい……。じゃあ、俺はこれで」
動揺を隠し、颯太は階段を一段降りる。
「ナラ君」
声をかけられ、振り返った。
「送ってくれて、ありがとう」
(この人は、いっつも礼ばっか言ってる)
礼を言う時、篠は絶対に少しだけ首を傾けて、優しい顔をして笑う。
そんなのがわかるほど長く、近くにいたわけでも無い。それだけ多く、篠が颯太に礼を言っているのだ。
「またね」
(言っていいのだろうか)
お礼を受け取った。落とし物を届けた。もう、会う理由はないように思える。そんな状態で言っていいかのかわからなかった。
だが少し迷った末、颯太はゆっくりと頷いた。
「はい、また」
***
爽やかな風が吹き抜ける。
舞い上がる髪を押さえた、女生徒がいた。無秩序に流れる髪さえ美しく、一枚の水彩画のようだった。
その美しい光景に、登校中の生徒達は一時、時を忘れて見入る。
「あれ、篠先輩じゃね?」
同じバレー部の竜二が、篠を見つけて指さした。朝練終わりの颯太は、生徒達がじろじろと見る先に顔を向ける。
玄関のピロティに佇み、どこかをぼうっと見ているのは竜二の言うとおり、篠だった。
「あの人、やっぱ有名だったよ。こないだ一緒に二年の美女と食ってただろって、めっちゃ言われたもん。俺。鼻高かった~」
「綺麗であんなに気さくなら、無茶苦茶もてるんだろうな」
同じく朝練終わりのバスケ部の直史が、素直に頷いた。
篠は女生徒の隣にぴたりとくっついていた。ほとんど無表情のまま、女生徒にもたれかかっている。
その横には男子生徒が二人いた。楽しそうに篠達に向けて話しかけている。しかし、篠も隣の女生徒も、あまり積極的に会話に加わっては無いようだ。
吹き荒れた髪を手ぐしで整えながら、篠がきょろりと視線をさ迷わせる。
高身長の颯太は、人の波の中でも頭が一つ飛び抜けている。
じっと、篠を見つめている颯太が目立っていたのだろう。篠はすぐに颯太を見つけた。
「ナラ君!」
ぱぁっと顔を輝かせる。隣にいた女生徒に何か告げると、ぱたぱたと走って来た。
「おはよう」
「おはようございます」
「舛谷君と森尾君もおはよう」
「おはよーございます!」
「おはようございます」
篠は二人から視線を外すと、颯太の顔を見上げる。
「朝練?」
「はい。今終わりました」
颯太の返事を聞くと、篠はスカートのポケットから、ハンカチを取り出した。
すでに半袖を着ている颯太のシャツの裾を、くいくいっと引っ張る。
「かがんで」
え、とは思ったが、二年がかがめと言えば、一年はかがむもの。
颯太は思わずかがんだ。篠のふわふわのハンカチが、颯太のもみあげを掠める。汗を拭かれているのだと気づき、体が固まった。
「お疲れ様」
「……あざっす」
右のもみあげも左のもみあげも、額も、前髪の生え際まで、篠が満足いくまで拭き上げられた颯太は、困惑した顔を隠すことが出来なかった。
八の字に眉を下げた颯太を見て、篠は満足そうに、ふふっと笑った。
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