36.水に溶けた防御壁

「あらま、ご自分で用意されたのですか?まぁいっか。じゃあ少し待って下さいね」


 風呂の置かれた部屋を覗いたノアはポカンとする俺を余所に平然とカーテンを閉めると、ものの一分足らずで「よしっ!」という意味深な掛け声と共に再びカーテンを開けて現れた。


「おまたせしました〜、では始めさせていただきますね」


 タオルを巻いただけの目のやり場に困る姿で全裸の俺が入る湯船へと躊躇なく近付いてくる。


「わ〜っ!待て待て待て待てっ!い、一応聞こう、何をするつもりだ?」


 小首を傾げてその場で立ち止まったノアは、一拍の後に ポンッ と手を打つとニコリと笑顔を浮かべた。


「これは失礼しました。私としたことが説明してなかったですね。え〜っとですね《石鹸》というものをご存知ですか?普通お風呂と言えば汗を流して終わりですが、浄化の魔法の使えない者の多い獣人の世界ではこの石鹸で泡を作り身体を綺麗にするのです。

 やってみれば分かりますが、この石鹸、色んな香りの付いた物も有りますが、石鹸本来の匂いも良い香りで皆さん好まれますよ?」


「分かった!それは分かったが、何故タオル一枚になる必要があるんだ!?」


「やっだぁ〜っ、レイ様がそんな風に恥ずかしがると私まで恥ずかしくなってきちゃうじゃないですかっ、もぉっ!」


「はいはい、大人しくしててくださいね」と言うと手にした容器に入った白い粉を風呂に入れ、お湯に手を付けると目を瞑り風の魔力を集め始める。

 魔法が使えるんだと思いつつ、興味をそそられ黙って見ていれば風魔法でお湯の表面をジャバジャバと音を立てて掻き回し始める。みるみる細かな泡が生まれて説明通りの石鹸の香りが漂い出すと、思わず匂いを嗅いでしまうほどの柔らかな癒しを与える良い匂いに心惹かれた。


「それでは、ちょっと失礼して……」


 溢れんばかりの泡でいっぱいになった湯船の縁に手を掛けるとタオルがめくれ上がらないように器用に片足を上げるので俺の視線は輝くばかりの白い太ももに釘付けにされた。……って、そんな事をしてる場合ではないっ!!


「わ〜〜っ!?待て待て待てって!ストップ!何してるんだっ!?」


「はい?」と疑問顔を向けながらも、さも当然のように動きを止めなかったノアは俺の足の上にちょこんと座った。タオル越しに感じる柔らかな肉の感触が……待て!待て俺!そうじゃないだろう!?


「何って、一緒に入ってはダメでしたか?大丈夫ですよ、ここに来る前にキチンと石鹸で身体を洗って来ましたからっ」


「違うっ!?そういう事じゃないないっ。どうして一緒に入る必要があるんだ?男爵の命令か?あいつが……」


「レイ様、ご主人様はいくらレイ様が大切なお客様だとしてもレイ様の方から私達を求めない限りはそのような事を命じたりする方ではないのです。ただ、まぁ、私はレイ様に気に入っていただいたようなのでレイ様の滞在中は専属でお世話をするように、とは命じられはしましたけどね〜、うふふっ。

 そぉれぇでぇ〜、折角石鹸を泡立てたのでレイ様の身体を洗わせていただきますねっ。全て私がやりますのでレイ様は楽にしててください」


 天使か!?と思うほどの笑顔を浮かべたノアの座る膝の辺りから小さな手が俺の足の上でワサワサと踊り始める。


「とっ、とにかく一旦待てっ!」

「あれあれ〜、お嫌ですかぁ?」

「嫌じゃないけど、ダメだっ!」

「じゃあ大丈夫ですね、任せてください」


 これ以上は俺の男が我慢出来る自信が無いのでどうにか風呂から出てもらわないと不味い……。


「分かった!分かったから、取り敢えず落ち着こう。ほらっ大きく息を吸って〜」


「レイ様、緊張なさっているのですか?怖くないですよ、大丈夫ですって!身体を綺麗にするだけですから、何も痛い事などありません。楽にしててくださればすぐに終わりますので、私に全てを任せてください」


「違うっ、そうじゃなくってだな、そう、ノア、一回風呂から出よう!落ち着いて話せば分かり合えるはずだっ、なっ?なっ?」


 手を止めてくれたことにホッとしたのも束の間、俯いてしまった彼女はそのまま動かなくなった。


「ノア?さぁ、落ち着いたのなら一度外に……」


「やっぱり私はダメな子です。大して可愛くもなければ、ごく普通のキツネの獣人の私ではレイ様もお嫌ですよね。なのに、ちょっと優しくされただけで浮かれて、調子に乗って……馬鹿ですね。


 私、いつも失敗ばかりでメイドの仕事も満足にこなせなくって……だから傍にいろって言ってくださったレイ様のお世話を命じられたのが嬉しくって……それで一人で舞い上がって身勝手な事をしました……ごめんなさい。またいつも通り失敗してしまったようです、申し訳ありません」


 顔を上げる事無くゆっくり立ち上がると、タオルから滴るお湯とは別に、顔から流れ出た一つの雫が落ちてくるのがやけにゆっくりと目に写る。

そして湯船を覆い尽くす泡の上に音も無く着地した時、背を向け湯船の縁に掛けたノアの腕を反射的に掴んでいた。


 言葉無く振り向いたノアの顔は笑顔から一転、感情の揺らぎに合わせて歪んだ顔は突然のスコールが降り注いだように涙で濡れそぼっており、明るく元気な彼女からは想像出来ないものだった。


「すみません、失礼し……キャッ!」


 さっきまでのピンク色の気分とは違う意味で我慢出来なくなり後先考えずに引き寄せると、バランスを崩したノアが俺に向かって倒れ込み、上手い具合に腕の中にすっぽりと収まった。


「あの、レイ様……」

「いいから、このままここにいろ」

「でも私は……」

「いいからっ」


 泣かせてしまった事で衝動的に行動してしまったが誰もいない部屋の湯船で抱き合う若い男と女、これは不味い状況だ。非常に不味い状況だ。

 折角ノアが出て行こうとしていたにも関わらず、肝心の俺が引き止めていては話にならない。


「レイ様……私、レイ様の事が好きです。

レイ様にとって普通に接して下さっていただけだったとしても、私にとっては特別な出来事。夕方、部屋で目が覚めたとき、レイ様が帰ってしまわれていたらと思い胸が締め付けられる思いで屋敷を探し回りました。

 そして木の下で抱きしめられたとき、寝てしまった事を謝りたいと考えて探していた筈なのに必死になってレイ様を探していた自分を不思議に思っていましたが、好きになった人との別れを惜しんだのだと理解しました。


 しかし、私などがレイ様と結ばれる事などないことくらい分かっています。それにレイ様にはサラ姫様という婚約者がいる事も知っています。でも今夜、レイ様がお泊りのこの屋敷にはサラ姫様はいらっしゃいません。

 レイ様はおっしゃいましたよね?愛人はダメでもペットなら良い、と。私はペットで構いません。ペットで構わないのでレイ様が屋敷にいる間、いえ、今夜だけでも……今だけでもレイ様のモノにしてください。

 私の我儘を聞いてはいただけませんか?」


 そんな想いを告げられては、涙で濡れた金の瞳で見上げるノアに逆らう術は無かった。


「ノア、お前はズルい女だ。この状況で俺が断れない事も計算していたのか?でも間違っているぞ?大きな間違いをしている。

 君達獣人がどういう感覚でいるのかは知らないがキツネの獣人だからと自分を卑下するのは意味が分からない。多分、大多数の人間にとってみたらキツネだろうと銀狼だろうと、例え白ウサギだろうと何も変わらないよ。

 そしてもう一つ、ノア、君は十分過ぎるほど可愛いし、魅力的だという事だ。


 さっきなんで俺が風呂から出ろと言ったのか分かるか?魅力的な女性がタオル一枚で湯船に入って来たんだ、俺の男としての本能を我慢するのにも限界というものがあるんだぞ?」


 嫌われているのではないと安心したのか、ようやくと言った感じで微笑みが戻った顔に付く涙を手で拭ってやる。


「では、私の望みが叶うまで後一押しですね」

「やっぱりズルい女だ」

「いけませんか?私はレイ様と違って自分の欲望に素直なのです。今という人生最大のチャンスを逃すことなどしたくありません。レイ様もご自分の欲望に素直になられたら如何ですか?我慢は心にも体にも良くありませんよ?」


 そうだと思っているわけではないが、今という状況を最初から計算していたとしたら、とてもじゃないが俺が太刀打ち出来る相手ではないだろう。

 そんなコトが頭を過るとふと笑いが込み上げてきて顔がニヤける。


「俺には嫁も婚約者もいるんだぞ?」

「そうなのですか?でもペットの私には関係ありませんよ?」

「勢いで物事を運ぶと後悔することになるぞ?」

「そうかもしれませんね。でも勢いがないと折角のチャンスも逃してしまいますよ?レイ様は意気地無しさんですか?」

「ばかやろう。誰に言ってる」

「ほぼ裸の女を前にしてアレコレと葛藤が収まらないレイ様に向かって、です」

「後悔しても知らないぞ?」

「もうしてます。最初からこうすれば良かったって……」


 身を乗り出したノアの顔が近付き、目を瞑った数瞬後に二人の唇が重なり合う。

 その衝撃でなんとか踏ん張っていた理性のタガは空の彼方へと吹っ飛んで行き、気が付いたら俺の方からノアの唇を求めていた。



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