22.何事も経験なり
リンさんに案内された一階の食堂は大きなテーブルが一つあるだけの広い部屋だった。
最上階である四階は実質的には二部屋しかないらしく、もう片方も室内に個室が沢山ある似たような作りになっているらしい。
その二つは特別な部屋で食堂もこうして個別の部屋となり他のお客さんとは隔離されるそうだ。プライベートを好む貴族や大富豪などが利用する部屋らしく、そんな部屋にタダで泊めてもらえることに少しばかり気が引けた。
「お兄ちゃんっ、コレ美味しいよ!ほら、食べてみて!」
黄色く染まったお米が山盛りにされたスプーンを口に近付けてくるので、大きく口を開けてパクリと齧り付く。その途端に魚介の味が口内を占拠し、噛めば噛むほど旨味が滲み出てくるようだ。
「それは〈パエリア〉と言いまして魚介を中心に肉と野菜とを米と一緒にスープで煮込んだ料理です。この辺りの郷土料理で昔から食べられているのですが、入れる食材によって味が変わるので各家庭の味というのが作られ皆に親しまれている料理なのですよ。
うちのシェフもコレにこだわりを持ってまして「一月は違う味を食べさせる」と豪語しておりますのでよろしければお試しくださいな」
同席しているロンさんの奥さんであるヴィオレッタさんが貴族夫人のような優雅な仕草で丁寧な説明をしてくれる。
出迎えてくれた時とは違い、そのままパーティーにでも行くのかというほど華やかで素敵なワンピースに袖を通した彼女は人目を惹くのに十分な魅力を醸し出していた。胸の谷間を主張するべく切れ込みの入った服はランリン姉妹と同じく強烈な双丘を見せつけ、似たような格好で三人も並ばれると目のやり場に困る。
駄目だ駄目だと心の中で頭を振り、大きなテーブルに所狭しと並ぶ料理へ無理矢理目を移せば最初から気になっているデカイ奴で視線が止まった。
雪なら乗れるのではないかという全長一メートルの真新しい小舟。そこには高価なはずの氷が細かく砕いて敷き詰められており、更にその上に調理されていない生の魚が一口サイズの切り身となって置かれていた。
えらく綺麗に切り揃えられているけど、どうやって食べるのか分からず手を出していなかったのだが思い切って聞いてみることにした。
「あの舟の上のは魚の切り身ですよね?ここで調理するのですか?」
「これは申し訳ない、説明がまだでしたな。アレは〈舟盛り〉という料理でして、見た目も楽しんで頂けるようにと美しく盛り付けられた〈刺身〉の盛り合わせでございます。
刺身というのはご覧のとおり生の魚の切り身です。初めて食べられる方は抵抗があるようですが、アレはあのまま醤油に付けて食べると魚本来の味が楽しめるので是非一度お試しください」
醤油というのは大豆という豆から出来た調味料らしい。それにワサビという水の綺麗な渓流でしか育たない植物の根をすり下ろした緑色のペーストを溶いて刺身を付けて食べるのだという。なんでもワサビは刺激が強いらしく好みが分かれるというので最初は無しで刺身を戴くことにした。
野菜は気にならないが、それが肉や魚となれば生のまま頂くのにはかなりの抵抗がある。
皆が注目する中で恐る恐る手を伸ばそうとした矢先、横槍を入れるように隣から箸が伸びてくる。
──ムムッ何奴!?
上手に摘まれた刺身の行方に視線を移せば、醤油の入った小皿に立ち寄り、開かれた桃色の蕾の中へと消えていく。
「んん、美味しい美味しい」
勇気を出してようやく出かかった手が空中で止まり、にこやかに咀嚼するサラを見つめたまま固まってしまっていた事に気が付き恥ずかしくなる。
このタイミングで手を出すとはさっきのモニカとのキスを見せつけられたことに対する意趣返しか!?
「サラは食べたことあったの?」
「あるわよ?でも箸が上手に使えるとこんなに食べやすい物なのね。生の魚だから臭いが気になる物は醤油を多目に付けるといいわよ。それとワサビは凄いからモニカは少しだけにしておきなさい。でも付けた方が美味しいわよ」
僅かに俺を見たサラが クスリ と笑った気がした──やっぱりワザとかよ!
少しばかりイラッとしたがそれは顔に出さず、止まっていた箸を再稼働させてサラの助言通りに船の端に盛られたワサビを醤油に溶かす。
「くおおぉっっ!!!」
醤油にチョイチョイした刺身を口の中に放り込んだ瞬間、鼻を突き抜けた強烈な刺激。奥の奥で感じる棒でも突っ込まれたような身悶えしたくなる激しい刺激はものの数秒で和らぎはしたが、思わず涙が漏れ出すほどの余韻を残していった。
「ぷっ、あははははっ。だから言ったじゃないですか。レイってばワサビ付け過ぎだってアハハハハハハッ」
涙でボヤける視界に、笑い過ぎて溜まった涙を指で拭いながらもまだ笑うサラが映る。
こんなにあけすけに感情を見せる彼女は初めてではないかな。それだけ俺に心を許してくれるようになったってことか?
コレットさんといいサラといい、なかなか素を曝け出してはくれない。女とはそういうものかもしれないけど、それではなかなか普通以上に仲良くなるのが難しいと俺は思う。
「何事も経験だよ、け・い・け・ん。はぁ……キツかった。お陰で刺身の味がわからなかったよ」
「馬鹿ねぇ」と自分の醤油と取り替えてくれるが、サラはコレが平気なのか?
少しだけワサビの入った醤油に今度こそ!とチョンチョンして刺身を口に放り込む。
──おおっ!
今まで味わったことの無い魚の味と醤油の味とが混ざり合いとても美味しい。
これは醤油の効果がとても凄いのでは?生臭さなど微塵も感じないし、この味はティナーラで食べた魚の煮付けの味によく似てる。凄く濃い色をした甘辛い煮付けも醤油が使われていたのかな?
「美味いっ!ほらモニカも食べてみろよ」
横からツンツンと突つくので見やると雪が食べたいと目で訴えている。ワサビの入っていない醤油に付けて一切れ口に入れてやると、美味しそうに目を細めて食べていた。
「雪もワサビチャレンジしとく?」
「えっ!?」と皆に驚かれたが、当の本人が力強く頷いたので少しだけワサビを入れた醤油に付けて食べさせてあげた。
「!!!!」
途端に仰け反った雪に慌てて水を飲ませると、涙を滲ませながらもすぐに落ち着きを取り戻した。
「これは強烈ですね。ワサビとは面白い食べ物です」
いや待て、ワサビは食べ物ではないぞ?食べ物に付けるものだ。
まぁいいか……雪にはまだ早い。
その後も机に並んだ料理を堪能し、コレットさんまでもがワサビチャレンジで涙を見るというお約束を交えて俺達とランリン家族との夕食会は楽しく終わりを迎えた。
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