5. 無知と未熟さ

 こういうときに限って町屋さんは察しがよいので、僕は篠原くんと二人、食堂のカウンター席に並んでいた。カウンター席は僕たっての希望で、何も言わなければ篠原くんはテーブル席を選んでいたと思う。彼と向かい合って食事なんて、おそろしい。

「光ちゃん、今日も菓子パン? 栄養偏るよ」

「心配しないでください」

「俺の焼きそば食べる?」

「大丈夫です」

「そう?」

「はい」

 篠原くんは戸惑ったように首を傾げる。視線が合って、僕はわざとらしく逸らす。それでも篠原くんはめげずに話しかけてくるのだから、もしかしなくとも彼は相当鈍い人だ。

「ねえ、今度友達とカラオケ行くんだけど、一緒にどう?」

「遠慮します」

「なんで?」

「カラオケは嫌いだし、大人数も嫌いです」

 ちなみに言うとあなたも苦手ですし。

「じゃあ、二人でどっか静かなところ行こうよ。映画とかどう?」

「いえ、それも遠慮します」

 頼むからそんなにあからさまに誘わないでくれ。かれこれ二週間、断り続けているのだから。そろそろ諦めてもいい頃じゃないか。

「えー」篠原くんは口を尖らせる。「じゃあ、光ちゃんが普段は何してるのか、知りたいなあ」

「本読んで寝てますよ」

「どんな本?」

「いろいろです」

「それが知りたいんじゃん」

「……篠原くん」僕は窓に映った相手の目を見る。篠原くんも気づいて、雫が伝って歪んだ僕の顔を見る。「そろそろ、やめませんか?」

 僕のこの問いに、さすがの篠原くんも「何を?」とは訊かなかった。代わりにぎこちなく笑って、「なんで?」と訊く。

 僕は言い淀む。だって、それは意地が悪い。

「光ちゃん、俺のこと別に守備範囲外ってわけじゃないでしょ? 高校のとき彼氏いたって聞いたし。だったら、完璧に同性愛者ってわけじゃないじゃん。望みはあるでしょ?」

 は、と乾いた笑いが漏れそうになる。

 同性愛者でなければ、異性は誰でも恋愛対象になると思っているのか。人間性に関係なく、とりあえずは誰でもそういう候補になると思っているのか。ありえない。肉体の造りだけで候補を絞るなんて。気味が悪い。

 多分、夢の中の僕だったら篠原くんを残してこの場から立ち去っていると思う。もちろん現実の僕はそんなことしないけれど。

「篠原くんは、ノンケの人ですか?」

「え?」

「異性愛者の意です。わからないってことは、篠原くんはノンケの人ですよね。そして、だから女の姿をしている天野光をそういう対象として見てくるんですよね。でも、例えば天野光が心は限りなく男だって言ったら? 女の子の姿をしてるけど、中身は篠原くんと同じ、男だって言ったら? 篠原くんはそれでも天野光に好意を寄せるんですか。僕を愛せるんですか」

「……は? 何言ってるの、光ちゃん、僕って……」

「僕は今日、僕の気分なんです。私の気分の日もあれば、俺の気分の日もあたしの気分の日もあります。性別と性指向は篠原くんが思っているように上手に分類されているわけじゃありません。ゲイやビアンやノンケなんて言葉は、便宜上あるにすぎないんです。だから天野光は女で同性愛者の天野光じゃないし、女でバイの天野光じゃないし、トランスジェンダーの天野光じゃありません。ただの天野光です。そして、ただの天野光として彼氏がいたし、ただの天野光として彼女がいたんです。彼氏、彼女という言葉も、本当は『恋人』に置き換えられるべきです。僕は身体的な特徴で人を判断したいとは思いません。人間性を見てその人と過ごしたいかを考えます。だから男が好きだ女が好きだと言ってる人とは関わりたくありません」

 と、僕の脳内では言えもしない文句をつらつらと天野光が捲し立てる。夢は願望の表れだというのは、きっと本当だ。これは白昼夢だけれど。

「光ちゃん?」

 目の前には静止した僕を心配そうに見つめる篠原くんの姿。生きてる? と手を左右に振っている。

「……すみません。生きてます」

「よかった」篠原くんは苦笑する。「急に意識飛ぶから、びっくりしたよ」

 そう言って、篠原くんは僕の顔を窺った。困ったように頰を緊張させ、先ほどまでの会話を続けていいものか悩んでいる。その顔を見ると無性に腹が立つのは、絶対に僕のせいなどではない。

 僕は彼の迷いを察した上で、「今日はもうお腹がいっぱいなので先に行きます」と言って立ち上がる。篠原くんはわかりやすく落ち込んでいて、僕はそれにもっと苛立つ。悪循環。

 篠原くん、僕たちきっと、とっても相性が悪いよ。

「光ちゃん」立ち去ろうとしていた僕が振り返ると、篠原くんは例のサイダーのペットボトルを差し出した。「忘れてる」

 篠原くんはどこまでも屈託なく少年な人なので、その言動にはどこまでも悪気がない。そして、こうした気遣いが人の心を逆なですることもあると、彼はまだ知らない。

 みんなが篠原くんのような人間を愛せるほど、世の中は簡単でも綺麗でもないんだよ。愛せるようだったら、もっと世界は僕らに優しい。

「ありがとう」

 僕は仕方がないのでペットボトルを受け取った。ひんやり表面が冷たく、雫で手が濡れる。

 篠原くんは満足そうに笑っていた。

「じゃあね。また明日」

 明日。

 笑顔で返そうとして、けれど頰が引きつった。

「……じゃあ」

 聞こえたかどうか怪しいくらいの音量で告げ、僕は今度こそ食堂を後にした。

 廊下の窓から見える空はまだ雨を滴らせていて、雲が重く垂れ下がっている。梅雨でもないのによく降る。

 きっと空も間違えることがあって、時期を勘違いしているのだ。だからいつまで経っても晴れない。

 湿った廊下を歩きながら、僕は右手に持っていたペットボトルに視線を落とした。澄んだ炭酸水の周りに貼りつく、彩度の高い色のラベル。僕は数秒それを見つめてから、勢いよく爪で引き剥がした。

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