4. ファッションと一人称
その日は朝からしんしんと雨が降っていて、大学の講義もどことなく淀んだ空気がたゆたっていた。ゆらゆら、霧の中を舟で渡っているみたいな。こんな空気の中にいると、まるで流罪人のような気分になる。よくない。換気をしよう。
「おはよう、光ちゃん」遅れて入ってきた町屋さんが、こっそり隣の席に座った。「今日はちょっと寒いね、雨のせいかな」
先日の一件以来、町屋さんにはよく話しかけられるようになった。と同時に、周囲からの視線のよく集まること。今もちらほら視線を感じる。彼女のようなアクティブな人間がこんな訳のわからない人間と連んでいるからというのもあるのだろうが、何より例の噂がそうさせている。なにせ天野光は、巷では彼氏を振って彼女を作った同性愛者なのだから。そんな人間が町屋さんと一緒にいて、一体どんな関係なのだろう、と訝しむのが大半の視線の正体である。
最高にくだらない。そんなことを考えている暇があるなら勉強をすればいいのに。ここは勉強をする場所なんじゃないのか。君らの好きな『マイノリティ』も、きっと存分に教えてくれる。
ため息のこぼれそうな口を結んで、僕は教壇の方に視線をやった。心なしか、教授がいつもより眠たそう。
今日、天野光は「僕」の気分。この間は「私」の気分だったし、その前は「俺」の気分だった。気分によって一人称は変わる。決して多重人格などではない。
ファッションと同じだ。スカートを履いていた人が次の日にはパンツを履いて来るように、昼間はスニーカーを履いていた人が夜はハイヒールで出かけるように。
気分で服を変えていいなら、気分で一人称も変えていいじゃないか、と思う。
でも、その理論が一般には通用しないって、僕はよくわかっている。一度だって間違えたことはなかった。心の中が「僕」のときも、「俺」のときも、「私」のときも、ずっと「私」と発音して生きてきた。それが日常だった。
だから、このとき不意に口から出た言葉に、僕は心底驚いた。
「あの、消しゴム落ちてますけど。あなたの?」
「あ、はい。僕のです」
声の発された方向を振り向いた。視線の先には、小柄な少女のような人の驚いた顔。そこで、自分の発音した音を頭の中でなぞって、ようやく過ちに気づく。
やってしまった。
血の気が引いて、でも頭は妙に冷静で、振り返って、町屋さんを確認した。どうやら彼女はすでにうたた寝していたらしく、聞かれた様子はない。
身体を元に戻し、少女と向かい合う。多分、このときの僕はよっぽど必死な形相をしていたのだと思う。隣の少女は僕の顔を見るなり静かに吹き出した。
「ごめん」少女は必死に笑いを堪える。「でも、消しゴムを拾っただけでそんなに驚かれるとは思わなかったから」
外見から想像するよりもフランクな言葉遣いに、僕の心はわずかに落ち着きを取り戻した。
少女は口を押さえ、声を出すまいとして笑い続けている。その姿はなぜか妙に上品に見えて、それが姿勢の良さによるものだと気づく。肩を震わせて笑っていても、背筋がスッと伸びているのだ。
「水野凛です」
一通り笑い終えた彼女は僕に握手を求め、そう名乗った。
「天野、光です」
躊躇いつつもその手を取ると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「天野さんね。憶えておく」
返事をする前に講義終了の時間が来て、一同が一斉にざわつきだした。手を離して、水野さんは立ち上がる。
「じゃあ、私はこれで。また今度、お話ししよう」
そう言い残し、去っていった水野さん。その後ろ姿を、僕はしばらく見つめていた。
何も、言われなかった。気づいていない? それとも、気づいていながらも気にしていない? 気を遣われている、という感じではなかった。
どちらだろう。あの柔らかい笑顔に、彼女の真意は包み隠されていた。
「あれ、授業終わってる。なんで起こしてくれなかったの?」
全員が教室から出て、しばらく経ってから。起き上がった町屋さんが訊く。
「ちょっと疲れたから、起きるまで休んでようかなと思って」
「なんだ、そっか。今日の内容、そんなに難しかった?」
「うん、ちょっとだけ」
本当はほとんど憶えていないけれど。
そっかあ、と町屋さん。
「じゃあ、お昼ご飯食べて、栄養補給しよう」
そう言い、立ち上がる。
僕も続いて立ち上がり、二人並んで教室を出た。
廊下は教室に比べて空気が新鮮で、少しだけ気分が爽やかになる。それでもさすがは雨の日で、湿気の多いまとわりつくような肌触りは残っていた。冬は終わったんだな、とこういうところで実感する。
食堂に向かって廊下を進んでいると、角のところで、ふと、後ろから声がかかった。
「光ちゃん」
その声に、僕は思わず身体を固くする。
頭に浮かんだ眩しい笑顔。答え合わせをするみたいに振り返る。そして、案の定そこにいた人物に、ため息に近い息をこぼした。
「篠原くん……」
僕よりはるかに高い身長に、無邪気な笑顔をたずさえて。同学年の篠原くんは笑顔でそこにいた。
「ご飯一緒しない?」
掲げられた袋の中には、いつもの通りサイダーのペットボトルが透けて見えた。好物を訊かれて炭酸だと答えて以来、彼はこうして毎日のように購買で買ってきたサイダーを持ってくる。
微塵もありがたくない。
僕が心穏やかに食事を摂れる日は、一体いつ訪れるのだろう。
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