ep.06 決して平凡などではなく
夜は平等に訪れる。例えこの世界のイレギュラーにイレギュラーを詰め込んだ転生者学園オーネストにだって。
夕暮れ。逢魔が時。世界が暗い赤橙色に染まっていく時間帯。5月の日没は冬ほど早くないが、夏ほど遅くない。
ちょうど西日が差し込む第二学生寮3階にある301号室。其処が佐藤の部屋だった。ベッドがあり、家具があり、ゲーム機やライトノベルといった娯楽物があり、勉強机がある。取り立てて面白いところもない、一般的な男子高校生の一室だ。ただ間取りは1LDKで、一般的な学生寮にしてはちと贅沢過ぎる間取りである。これは、流石世界統一政府直轄の転生者学園オーネストというべきか。神代からの超越者を暮らさせるために生半可な部屋では不味いという判断なのだろう。福利厚生にはしっかり力を入れていた。
カーカー、と何処か遠くで烏が鳴いている。それをバックサウンドにパーカーチノパンな佐藤は愕然と呟いた。
「飯がない……ッ!」
今しがた開けた冷蔵庫。その中身は見事に空っぽだった。食料は0。かろうじて入ってるのは、調味料と飲み物だけという体たらく。
「おかしいな。一応、冷蔵庫の中身はきちんと把握していたはずだけど」
とはいえ、1人暮らしを始めてからまだ1週間と経っていない高校生だ。家事はお手伝い程度で大したことをしていない佐藤が冷蔵庫の中身を間違いなく把握しているとは自分でも思わない。故に、きっと思い違いだろうと自身を納得させる。
「店に買いに行かないとっと」
いそいそと財布を取り出し、靴を履く。向かうのは学園街の大型食料品店ラミアン:アールマ支店。学生街にある店の閉店時間はだいぶ早いが、夕食時なら余裕で開いている。
なんてことない学生マンションの階段を駆け下りる。かんかん、と階段を叩く音が物静かなマンションに響いた。もう太陽は地平線の向こうに沈みつつあり、上から見下ろせる歩道には人気がなかった。今この時間に外にいるのは、夜遊び好きか秘密の密会をしている後ろ暗い人くらいだろう。
1階に辿り着くと、自転車置き場に直行。自分の自転車を引き出して跨ると、自動車専用道へ蹴りだした。
「~~~~♪」
口寂しいので鼻歌を歌う。歌うのは佐藤十八番のヒットナンバー。先日のカラオケで、佐藤の最高得点をたたき出した曲だ。
そして、この鼻歌は佐藤に心の余裕が出来ていることの証明だった。
転生者学園オーネストへの入学。人格どころか、転生前の特異な力も、転生者なら必ず持っている記憶すらも持っていない転生者だった佐藤にとって――神話や伝説の当人に出会えるという期待があったとはいえ――気が乗らない転校でしかなかった。おまけに記憶がないことを素直に言えば、生徒の大半である人格持ちから白い目で見られてしまう始末。転校初日から散々で、自分はこの学園に居ても良いのか、と疑念に囚われたものだった。気分はどん底。そんな気持ちで通い続けてしまえば、間違いなく心が折れてしまう。
けれども佐藤には彼を受け入れてくれる仲間がいた。太東恭介、セレス・チムニー、そして桜庭ミリヤ。人格持たずの3人は、転生者としても、学生としても爪弾き者の佐藤の居場所となってくれた。
佐藤は学園にいてはいけない人間じゃない。その確証が得られた。ただそれだけで、佐藤は転生者学園にいることが出来る。
「とはいえ、心配事は人間関係だけで済んだのは幸運だったけど」
転生者学園なんて大仰な名前を聞けば、誰もが身構えてしまうだろう。けれども現実は、転生者学園以外の学校と何も変わらないことは転校してきて短いながらも理解していた。例えば、授業とか、学食とか。えげつない伝説の魔術やSF映画に出てくる超科学なんて微塵もない。何処にでもある平凡な設備で作られた、ありふれた制度の学校――それが転生者学園オーネストの正体だった。おかしいのはこの1点のみ。生徒が神代からの転生者であること。
否、おかしい点といえば、もう1つあった。
「第8大陸アールマ。なんで、こんなところに学校を建てたんだろ?」
転生者学園が設立される前――つまり転生者を中心とする開発が始まった3年前より以前のアールマは、知的生命体が存在しない未開の地だったのだ。人の手が入る以前は『未開大陸アールマ』なんて呼ばれていた。
何故『未開』であったのか。それはアールマに棲息していた魔獣が他大陸のそれよりも強靭だったからに他ならない。史上のどんな知的生命体も、未開大陸アールマをその支配域にすることは出来なかったのである。
故にアールマは極めて開発困難とされていた。どうしてそんなところをわざわざ開発して転生者学園オーネストを作ったのかという疑問が人々の間に生まれるのは当然だろう。この地球には8つ大陸が存在する。アールマ以外の7つの大陸はすっかり開発が進み、世界統一政府による統治が2000年続く泰平な地だというのに。
市井では、こんな最もらしい意見があった。『転生者という特異極まりない現代社会のイレギュラーを隔離するためだ』という意見だ。確かにそういう意図もあるだろう。だが、転生者学園に入学し、転生者たちと直に触れ合ってきた佐藤からすれば、転生者は隔離するような危険人物ではないというのが結論。そもそも学園入学前は一般人と一緒に生活していたのだから、危険人物とみなして隔離するなんて考えは筋が通ってない。転生者は現代社会で問題なく生活できる人たちだ。
陰謀論好きのブロガーなんかは転生者たちの転生理由を勝手に妄想して、『世界の敵と戦うためだ』なんて言っていたけど、まぁ、それは本当に単なる妄言でしかないだろう。そもそも『世界の敵』自体意味不明なのだし。
気にするべきはもっと現実的な脅威である。例えばアールマに潜む史上最強の魔獣が現代で暴威を振るうから、とか。
「ぁ、ぅ、だ、れか……たすけ、て……」
景気よく自転車を転がし、大型食料品の灯りが見え始めたころ。佐藤はそんなうめき声を聞いた。
少女の声だった。それもひどく聞き覚えのある少女の声にそっくりな。
嫌な予感がした。背中を不気味な舌に舐められたような嫌悪感が佐藤の全身を駆け抜ける。
表情を硬くしたまま、佐藤は走っていた大通りを振り返った。大通りには誰もいない。等間隔に並ぶ街灯が夜の帳が降り始めた道路を白々しく照らしているだけだ。であるならば、うめき声の主は大通りに繋がる街頭すらない裏路地の――
「――――ッ」
佐藤は街灯と街灯のちょうど真ん中に位置する裏路地への入り口を見つけた。底知れない暗闇が満ちているように見える其処へ走り出すべく、彼は地面を蹴り上げる。
左手でハンドルを握り、右手にはビデオカメラとライトを起動させたスマートフォンを持つ。何が起きているのか、そして何が起こっても誰かに伝えられるように、だ。
心臓が早鐘を打つ。ドクドクと血の流れがうるさかった。これ以上ないくらいに呼吸が乱れるのが分かる。
ただそれでも、ペダルに乗せた脚は止まらない。自転車は瞬きの内に最高速へ。風を切る頬の痛みを感じる間もなく、タイヤが焼ける勢いで自転車を止める。
そしてスマートフォンのライトを裏路地の奥へ向けると、彼女の名を呼んだ。
「桜庭さん――ッ!」
ライトが照らされた先、其処には地面へ倒れ伏す桜庭ミリヤの姿があった。綺麗なピンク色の髪は土埃で汚れ、薄く開かれた瞼の奥には力ない緑の瞳が伺える。上半身の服装は流行のパーカー姿。では、下半身は? それは佐藤が知ることの出来ない現実だ。
何故なら、グロデスクでサイケデリック、汚れた虹色の巨大なぶよぶよが彼女の下半身を呑み込んでいたからだ。
見た目から判断する限り、大質量のゲル状のナニカ。粘性高めの得体のしれないその生き物は、スマートフォンのライトに照らされ、ぬらぬらとした光を反射している。
悪夢のような光景だった。汚れた虹色のゲル状生命体が不気味に蠢動しながら、少女を呑み込まんとしている光景は。おまけに、ライトの先では化学的な配色の体が泡たち、得体のしれないガスを噴出させている。ポストアポカリプス作品に出てくるモンスターがそのまま現実に飛び出してきた感じだ。
見るからに、尋常の動物ではない。すなわち、魔獣。アールマの奥地から学園街の結界を越えてやってきたのだ。
「う、う……ぁ」
桜庭が苦しげに呻く。現実とは思えない光景に茫然としていた佐藤は我に返った。
さて、この場面、この局面で、佐藤友志が取りうる選択肢は何があるか。例えば、桜庭を見捨てて逃亡することだろうか。転生前の力を持たない佐藤に戦闘能力はない。有史以来、ずっと未開だったアールマに生きる魔獣相手に太刀打ちできるはずもない。あるいは誰かに助けを求めたって良い。この街には史上最強級の戦闘能力を持つ転生者がごまんといる。彼ら彼女らに助けを求めるのは1つの正しい答えだろう。
だが佐藤が選び取った選択肢は、そのどちらでもない。
死ぬかもしれない。でも、迷いはなかった。
「ぁあああああああああああああああああああッ!」
恐怖を振り払うように、佐藤は唸りを上げた。それからがむしゃらに右腕を大きく振り上げ、不格好なフォームで何かをゲル状生命体に投げつけた。
それは佐藤が唯一保有する武器。財布、であった。魔境アールマに棲息する魔獣相手には、あまりにも心許なさすぎる武器だ。もし仮に小銭がたんまり入っていればブラックジャックとして通用しただろうが、生憎と財布の中に入っているのは雀の涙ほどの小銭だけ。殺傷能力はほぼ皆無だ。
佐藤だって、そんなことは分かっている。だから財布に期待するのはゲル状生命体を怯ませること。桜庭を助け出せるだけの隙を生み出させればそれで良い。
財布は縦に回転しながら、真っ直ぐ飛んでいく。それがゲル状魔獣に着弾する前に佐藤は自転車から降りて、桜庭の下へ駆け出した。
佐藤は野球部でも、運動神経抜群のスポーツマンでもない。球速なんてたかが知れている。けれども、狙ったところにボールを落とす程度のコントロールは持っていた。
曲線軌道を描き財布が落ちる先は、ゲル状生命体の中央部。急所なぞ分からぬゲル状魔獣であるために、佐藤はとりあえずで其処を狙った。
数舜の沈黙があった。投擲物に気づかないゲル状魔獣は特に反応を見せず、上空からの脅威を無視し、そして財布は――着弾した。
「ッッッッッ!」
瞬間、ゲル状魔獣がひきつけを起こす。さながら電流を流されたが如く。突然の外的刺激に体内の電気信号が自分自身を痺れさせているのだろうか。体色の汚れた虹色もまた激しくかき乱され、常に色と色とが移り変わっていく。その様はタコが周囲の環境に合わせて体色を変える様と酷く似ていた。
だが、正直そんなことはどうでも良い。佐藤は桜庭さえ助けられればそれで良い。
息を切らせた佐藤は、倒れ伏す桜庭に駆け寄る。
「桜庭さんッ、しっかりして!」
桜庭の肩を強くゆする。けれども反応はない。
(下半身が捕食されて、どろどろに溶けてるなんてグロ映画な展開にだけはならないでよッ!)
最悪な未来にならないことを祈りつつ、佐藤は彼女のわきの下に腕を通す。
それから両脚で踏ん張って、「ぅぅぅぅん!」と気合を入れて引っ張った。
ずるり、という軽い感触はない。少なくとも上半身と下半身が分かれているわけではなさそうだった。
「ええい、くそっ、離せ化物ッ!」
桜庭を掴んで(?)放さないゲル状魔獣を佐藤は蹴り上げた。イメージはサッカーボールを蹴り飛ばすイメージ。つま先でゲル状魔獣の肉を抉り上げる。
ゲル状の肉片が宙に飛び散る。気持ちの悪い感触がつま先から伝播した。泥とも水の入った袋とも違う。腐った肉のような感触だった。硬いのか柔らかいのかよくわからない曖昧さと生温い体温、そしてへばりつくような粘度を振り切る感触に、佐藤は背筋を震わせた。
「————ッ!」
佐藤の蹴撃は財布なんかよりもずっと重たい衝撃だ。ゲル状魔獣は先ほどよりも大きなひきつけを起こし、大きくのけぞる。ゲル状魔獣はパッ、と桜庭を離す。グロデスクでサイケデリックなぶよぶよの下から、ミニスカートを履いた少女の下半身が露わになる。すらりとした脚は火傷のような傷に覆われていて痛々しい。けれども佐藤が想像した最悪の展開は避けられたようだった。
怪物が桜庭を離した隙に、佐藤は桜庭を安全地帯へ引っ張り出す。
「桜庭さんっ」
「うぅ……」
今一度、彼女の名前を呼ぶ。意識を取り戻す気配はない。
仕方がない。
「後で怒ってくれて良いから、今だけは許してね」
届かぬ一言を添えて、佐藤はぐったりとした桜庭の体をおぶった。意識のない人の体は重たいというが、桜庭の体は羽のように軽い。座りの良い位置を調整し、背の桜庭を落とさぬように固定する。
服越しに伝わる少女の肉感と体温にドギマギする暇はない。脅威はすぐそばにいる。
未だ痙攣を繰り返すゲル状魔獣に背を向けて、佐藤は一目散に駆けだした。
(大通りまで行けば、きっと誰かが助けてくれる。そのはずだ!)
人通りが少ないのは確か。けれども零じゃない。であるならば、転生者という伝説のうちの誰かが救いの手を差し伸べてくれると信じるしかない。
人格持ちから白い目で見られる佐藤だけならば無視されるかもしれないけれど、背中には桜庭がいる。流石に桜庭を見殺しにするつもりはないだろう。
(なら、それで良い。少なくとも桜庭さんを守り切れば、僕の勝ちなんだからっ)
一歩、一歩で加速する。暗い路地裏の終わり。おぼろげに街灯の光が差し込む出口へと佐藤は駆け抜ける。
ただ現実は甘くなかった。
「――ッ!」
ぐじゅり、ぐじゅり、と耳ざわりの悪い音が背後でした。
思わず佐藤は背後を振り返ろうと、顔を捩じる。
瞬間、佐藤は何が起きているかもわからずに横薙ぎに大通りの方向へ吹き飛ばされた。
「がふぁッ?!」
衝撃と共に肺の中の空気が全て体外に押し出された。衝撃の中心は腹。内臓を全て押しつぶしてしまそうな衝撃が佐藤の腹部を襲ったのだ。
いやに全てが遅く見える世界で佐藤の視覚が捉えたのは、腹にめり込む汚い虹色の太い触腕。
グロデスクでサイケデリック、正体不明のゲル状魔獣。知的生命体を拒み続けた掛け値なしのアールマの魔獣が、何処までも平凡な佐藤友志に牙を剥く。
(――――っ)
意識が明滅する。身体の感覚は衝撃と共に吹き飛んだ。宙を飛ぶ体は桜庭から手を離してしまう。
桜庭を狙われなかったのは幸いだった、と嫌に冷静な頭で佐藤は思った。投げされる桜庭の腕を再度掴みなおし、なんとか宙で抱き留める。体勢は頭を守るために、胸で抱きかかえるようにしてだ。
次の衝撃はすぐに来る。
「ゔ、づぅぅぅぅぅぅッ」
アスファルトの大地へ、佐藤は受け身も取れずに激突する。魔獣の太い触腕に打たれた内蔵に追い打ちをかけるような打撃。文字通りに腹の底に響く痛みをなんとか彼は噛み殺す。
とはいえ痛みは耐えられても、怪我ばかりはどうしようもなかった。全身に力が入らないのだ。おそらくあの太い触腕にやられた時、体の何処かがいかれてしまったのだろう。体が思うように動かない。肉体の感覚が茫洋として、上手く指令が伝播しない。
桜庭を守るように抱えながら、地面に蹲る佐藤は視線だけ動かして、裏路地への入り口を見た。
ぐじゅり、ぐじゅり、と粘着質な音がする。其処にはグロデスクでサイケデリックな汚い虹色のゲル状生命体があった。気持ちの悪いネバついた体を滑らせながら、まるで薄い紙に絵具の雫を落としたように世界を蝕みながら大通りに這い出ようとしている。
「くっそ……!」
立ち上がろうと脚に力を入れる。力を入れたつもりだった。踏ん張ろうとした脚は上手く地面を踏みしめず、ただただ空虚に地面を蹴るばかり。
「くそっ、くそくそくそくそくそッ!!」
不出来な体に対して、口と心は良く働く。焦りばかりが募って、何も出来やしない。
ちらり、と胸元を見た。其処には浅い呼吸を繰り返す桜庭ミリヤがいる。転校してきてから、何かと世話を焼いてくれた彼女が、だ。
親切なクラスメイトの命を奪わせるわけにはいかない。けれども今の佐藤に打つ手はない。ならば、だったら、誰かの力を借りるまでだ。
悲鳴を上げる肺を無視して、思いっきり息を吸い、そして、
「誰かーっ、助けてくれぇぇぇぇぇぇぇッ!」
喉がはちきれんばかりに叫ぶ。懸命な少年の声は物静かな大通りに響き渡った。
そのあとに起こったことは、あまりにも単調だ。
声を聴いた学生や大人たちがあれよあれよとやってきて、あっという間にゲル状魔獣を――片手間に――処分。重篤な怪我をした佐藤とゲル状魔獣に襲われていた桜庭は、その場に集まっていた魔術を使える転生者によって簡易的な治療を施され、病院に速やかに送られる。
病院のベッドに寝かされた佐藤は真新しい真っ白な天井を見上げながら、ただ茫然と現実を実感していた。
転生者学園オーネストはやはり異常で、平凡な佐藤友志は何処までも矮小な存在なのだという現実を。
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