最終話 再会

1


雨の日は本当に好きではない。せっかくの贈り物を濡らしてしまうし、私のような口下手な人間には貴重な話題である窓の外の景色を見ながら話すような事もできないではないか。私は少し苛立ちを抱えながら水玉の傘をさして歩いた。胸にはキュッとケーキ屋さんの袋を抱えている。やがて見えてきた目的の病院の門をくぐると、私はその病院の正面入り口からは入らず、並木の下を通って車の駐車場まで歩く。そこに面した裏口から中にはいるのが私の定番ルート。こちらの方がエレベーターが近いし、混み合ったロビーを通らなくていいので入院患者の面会にはだいぶ都合がいい。病院に通うのももう一ヶ月目にもなると、この広い建物の中も慣れたもので、道に迷わずスイスイ歩いていける。ナースステーションの看護師さんともほとんど顔見知りだ。といっても文字通り顔を知っているだけで話したことはないけれども。私はいつもの看護師さんに会釈をしながら面会者名簿に記帳する。ふと顔をあげると、ナースステーションの手洗い場にある鏡に自分の顔が映っていた。今日に限って、私の髪はかなりのボサボサ具合。これはまた何か言われてしまいそうだ。私はできる限り手櫛を通して、あまり好きではないこの赤毛を伸ばそうとするが、一行に治る気配はない。早々に諦め、ふぅ、とため息を吐きながら私は目当ての病室まで急いだ。早くしなきゃケーキが温まってしまう。しかし私はちょっと考え直した。あまり急いで息が上がると病室に入ってからの会話に支障が出るといけない。なるべく心を落ち着かせてゆっくりと廊下を歩いた。その病室の前にたどり着くと私はさらに深呼吸をする。この一ヶ月通い詰めだと言うのに、まだ緊張は抜けないのだ。こんな自分が情けない。私は気持ちを落ち着けると、ドアを二回ノックをする。中からは返事があり、私は扉をそっと開けた。

「お邪魔します〜」

妙に緊張した声で挨拶をしながら中にはいると、意外な事に病室には先客がいた。迂闊な事にそのような事態を全く考えていなかった私は目を丸くする。ケーキが二つしかない事を少しバツが悪く思いながら私がドギマギしていると先客のくせ毛の少年は、ベッドで横たわる私の親友尾張野蓮に聞いた。

「ぁ、お姉ちゃん、この人誰だっけ?」

蓮はそれを聞いて一度キョトンとした表情を浮かべると、嬉しそうに笑った。

「そっか。きっと可愛くなり過ぎててわからないのね。あなた昔は『さや姉ちゃん』って言ってベタベタだったのよ?」

それを聞いて私は彼の事を思い出した。確か幼い頃一緒に遊んだ蓮の弟だった。名を政宗くんと言ったか。それ以上深い事は思い出せなかったが、確かにその顔にはどこか知った面影が残っているようにも見えた。彼は驚いた後、ニコリと笑顔を浮かべた。

「あ、さや姉ちゃんか」

彼は立ち上がると私に頭を下げた。

「姉がいつもお世話になってます」

それを見ていた蓮は力なく笑う。

「何言ってるのよ貴方は。大人の真似なんてして」

私もそれを聞いて笑った。そして腰に手を当ててため息をつく。

「蓮ってば弟くんと一歳しか違わないはずだったよね。お母さんみたい〜」

私は立てかけてあったパイプ椅子を一つ手に取ると彼の隣に腰掛けた。

「そういえば蓮がちょっと前に言ってたような・たしか弟くん、うちの高校受けたんでしょ?受かるといいね。そしたら私たちの後輩だね」

しかし彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。

「いや、中々難しくて。どうも無理そうなんで滑り止めに受けた地元の私立になりそうな感じ」

私はそれを聞いて素直に残念な気持ちになった。昔のように三人で仲良く出来たらきっと楽しいと思ったのに。いや、しかし来年くらいなら、まだ蓮も『もつ』かもしれない。

「留年しなさいよ。勉強なら私が教えてあげようか?私これでも学年6位よ?」

蓮は伏せたままニヤリと笑う。

「もう。ちょっと、変な事そそのかさないでよ。それに、それを言うならこの子には学年1位の私の血が流れてるんだから大丈夫よ」

冗談を言いながら少し咳き込む。私と政宗君は彼女の心配をして布団を掛け直そうと身を乗り出したが、彼女は私たちを静止して自分で布団を整える。

「大丈夫よ。それより紗矢香、貴方ひどい髪じゃない。ちゃんと私が教えたトリートメント使ってるの?かなり前から言ってるじゃないの」

私はギクリとして目線をそらす。

「それは、その〜 おしゃれみたいで恥ずかしいと言うかなんと言うか」

彼女は静かだが力のある声で私に念を押した。これはもう、彼女が元気な時から何度も何度も言われている事だった。

「いい紗矢香?貴方の髪は美しいのよ。顔もそう。自分を大切にしなきゃダメよ。お願いだから自分をいたわって。お願いだから・・・」

少し切実な顔で私に告げる。私はその顔を見ていると不意にやるせなくなり、その場から離れるための理由を取り繕わずにはいられなかった。

「私・・・ケーキ持ってきたんだった。三人で食べられるように看護師さんにナイフとお皿借りてくるよ」

紗矢香はそそくさとその場を出て行く。そこには政宗と姉だけが残されていた。ふと、姉が静かに口を開いた。

「政宗、あなた『あの約束』まで思い出したの?」

彼女の目線は政宗に合わされず、ずっと天井を見ている。短い沈黙がそこにはあった。政宗は姉の横顔を見ながら答えた。

「その約束はずっと覚えてるよ」

それを聞いて、姉は微笑みながら政宗の方を見た。

「そっか。ならいいのよ」

安堵にも見える幸福そうな表情をする。

「あの調子なら『さや姉ちゃん』の方が忘れてそうだけどな」

それを聞いて姉は始めてクスクスと大きく笑った。政宗はまた咳き込むのではないかと構えたがそれは無く、なんとか大丈夫だった。

「それで良いのよ。良いわね?あの子をアリスにしてあげられるのはきっと貴方だけよ?」

「さぁ。向こうはどう思ってるのかな?」

つぶやくと、政宗は窓の外を見た。雨は止む気配を見せず、なお勢いを強めて行く。


2


雨の中、紗矢香は政宗と一緒に歩いていた。二人とも一言も発しない。雨の音だけが傘を叩き、場の空気を支えていた。ふと、政宗が口を開く。

「麻谷さんは姉の話はどこまで聞いてるの?」

雨の音に紛れても彼女に届くように、少し大きめの声で聞く。

「『最初の日』に蓮のお母さんと会ったの。最近もよく会うし、だから多分、全部知ってるわ」

雨のやかましい音はひたすらに俺たちの声色を隠してくれる。恐怖に震える声も、やるせない響きも、その言葉がどんなに喉をつまらせて出したものなのかも。すべてを聞こえにくくして、単なるコミュニケーションの疎通だけの手段とした。紗矢香は雨が降っていて良かったと思った。雨が無ければ泣きそうな声を聞かれていた。傘が無ければきっとこの少年に、泣きそうなこの顔を見られてしまうところだっただろう。紗矢香はそっと傘を低くし、顔を隠していた。蓮が余命一ヶ月、と言われたのが約一ヶ月前だった。幼い頃からの肺病が急に悪化をしたためだ。しかし今は体自体はだいぶ良い状態が続いているらしく、数値だけみれば改善傾向にさえある。しかし医者の見たてではやはりいつ致命的な発作が起こるかわからない状態だという事だった。先ほどの病室での蓮の表情を思い出すと、紗矢香は涙がこぼれきた。彼女は再び傘で顔を隠した。それに気がついたのか、政宗は黙って先を歩き始めた。ゆったりとした歩調で、人ごみの中をふらふらと歩く紗矢香の道を確保する。雨だけはひたすらに雨足を強めて、紗矢香の涙を隠してゆく。2人は終始無言だったが、駅につく頃にはやっと紗矢香も落ち着いてきた。この一ヶ月間毎日『その日』がくる事に怯え、寂しさを感じてきたのだ。今となっては悲しんでばかりでは何も始まらない事は十分なほどよく分かっている。駅につき彼女が涙を拭いていると、政宗は突然思い出したかのように彼女を引き止めた。

「ちょっと待っててくれない?」

そう言うとそそくさと近くのコンビニに入って行く。彼女は、コーヒーでも買ってくるのかと思ったが、出てきた彼が持ってきたのは意外なものだった。

「これ、お姉ちゃんから聞いてたんだ。使ったらどうかな?」

そのレジ袋には蓮のオススメのトリートメントが入っていた。紗矢香は目を丸くする。

「私、こういうのは苦手で・・・」

断ろうと決して手を出さなかったが、政宗の方が上手だった。

「お姉ちゃんに見せてあげてよ。麻谷さんの綺麗になった髪をさ」

そう言われると卑怯だ。紗矢香は何も言い返せなくなり、おずおずと手を差し伸べる。政宗はさらに一言、笑顔で付け加えた。

「俺も、麻谷さんの髪が昔みたいに綺麗になるところ、見たいですよ」

紗矢香は自分の顔が赤くなるのを感じた。そんな事を言われた事など男子からはもちろん、蓮以外の友達にだって全くない。彼女は照れ隠しで乱暴な口調になる。

「そ、そんなすぐには変わらないよ。それに麻谷って呼ぶのやめてよ。あんまり好きじゃないんだ家の事。」

赤くなった顔を傘で隠す。政宗からは恥ずかしさからむずむずと震える彼女の口だけしか見えなくなってしまった。

「じゃぁ、なんて?さや姉ちゃん?」

「姉ちゃんは余計だよ」

「分かったよ。じゃぁ、さやって呼ぶね」

彼はニコリと笑った。紗矢香はその時傘をどけて、上目遣いで彼を見る。しかし始めて彼の笑顔をしっかりと正面から見て、胸を刺されたような感覚に陥った。彼の笑顔は笑っていないのだ。考えてみれば当然だろう。自分の姉がいつ死ぬかもわからないのだ。心から笑えるはずがない。しかし、残された者が泣いて過ごしたところで、誰も喜びはしない。それは私もここ一ヶ月で学んだ事だ。だから私も蓮の前では笑っていたいとそう願った。ではこの少年のこの笑顔は何のためのものなのだろう?考えるまでもない。私のためだ。私は胸が苦しくなる。彼もまた、戦っているのだ。

「貴方も・・・」

気がつくと私は傘を落としていた。ほとんど無意識に彼の傘の中に入って、濡れた手で彼の頬を覆う。

「今は泣いて、良いんだよ?」

彼は驚きの表情を見せる。そして冷たく凍った笑顔が融けていくように、ゆっくりと泣いた。


3


彼女から図書館に付き合ってくれと言われたのは、昨日のお見舞いの帰りの事だった。今日は学校がテストで早く終わるらしい。俺はというと来週に入学する私立高校の課題がたんまりあったので、姉との面会時間以外はできれば家に篭っていたかった。課題に熱中していれば嫌な現実は思い出さずに済む。しかし、サヤからの誘いとあれば話は別だ。

「で、借りたのはその一冊と」

俺はサヤを乗せて自転車で走っていた。つまるところ、俺は運転手と言うわけだった。深くため息をつく。広い図書館の敷地内にある並木の下を走る。今日は空も晴れていて木漏れ日が気持ちいい。平日の午後という事もあって、人は全く見当たらなかった。

「それって不思議の国のアリス?やっぱりまだ好きなの?」

自転車の後ろにチョコンと座る彼女に聞こえるように俺は大声を出す。二人乗りだからもちろん安全運転を心がけてスピードは抑えめだ。彼女は後ろから答えた。

「ずっと好きだよ?子どもの頃私、何か言ってたかしら?」

チラチラとトートバッグの中を覗き見ている。どうやら中身が早く読みたくて堪らないらしい。本の虫の典型だ。

「一番好き、とは言ってた気がするけど?でもまたなんで今更?」

俺はゆっくりと長い坂道を下りながら彼女に答える。下り坂は常にブレーキをかけつつ慎重に行かなければ。

「元版で読みたくなったのよ。元版じゃないと伝わらない表現が沢山あるんだから」

とは言ったものの、紗矢香が本を借りた本当の理由は目の前の彼のせいでもあった。彼女にとって彼の記憶は少ない。何と無く三人で遊んだ記憶はあるが、その中でも二人がその中でどんな関係だったかは知る由もない。彼女は記憶にあるキーワードをすくい取るように一つ一つ探して見る事にしたのだ。この絵本はその一つでしか無い。

「え、て事はその絵本まさか?」

彼は驚いて後ろを向こうとしてバランスを崩しかける。危うく体勢を立て直すと運転に集中した。

「英語よ。全部えーご!」

彼女は事もなげに応える。さすが学年6位の余裕だ。それとは真逆に本命高校の受験に落ちた政宗は悲鳴をあげる。

「勘弁してくれよ〜」

それを見て彼女はあははと声高らかに笑った。自転車をこぐ大きな背中にもたれかかる。その耳に聞こえるように囁いた。

「気が向いたら、寝る前に絵本を読んであげても良いのよ?」

からかう紗矢香の声に、政宗は赤くなる。彼の後ろでは春の風を受け、彼女の赤い髪が美しくなびいていた。二人が最初にあったあの日から一ヶ月が経過し、彼女の赤い髪は本当に綺麗になった。それを見たからか蓮はさらに機嫌を良くし、眉を整えたり、洗顔を勧めたりとさらに紗矢香を困らせたが、その度に彼女はさらに美しくなっていった。本人には自覚は無いようだが、今では道ゆく人も振り返るくらいの美人と言っていい。そのたびに蓮は少しづつ体調を良好にして行き、今では車椅子で病院の庭を散歩できるまでに回復していた。政宗は麓の病院までくると、自転車を停めて病室へと赴いた。病室で2人を出迎えた蓮は、ベッドに座って外を眺めているところだった。窓の外には並木に彩られた坂が見える。どうやら政宗たちが自転車で坂を下ってくる所を見ていたらしい。2人が病室に入るとニコリと笑顔を作る。

「貴方たち、すっかりお似合いのカップルみたいね。政宗も髪をしっかりしなさいよ。並んでてそれじゃさやが恥ずかしいでしょ」

少しは活発さを取り戻した蓮の物言いが、その異様なまでに白い肌と対比をなして痛々しい。その声も逆にどこか寂しげに病室に響いた。

「別にそんなんじゃないよ!」

と2人でハモりながら口にして、さらに気恥ずかしさを増した2人をみて、蓮はクスクスと笑った。そしてサヤに手招きをする。

「サヤ、こっちにおいで」

何か怪しい事でも耳打ちされるかと思ったが、蓮はサヤをベッドの脇の丸椅子に座らせると、その綺麗な髪を結い始めた。するすると手慣れた手つきで瞬く間に綺麗なゆるい三つ編みが完成する。綺麗な赤毛が交差して絶妙な光の綾を作った。紗矢香は自分では良くわからないからか平静にしているが、きっと鏡を見たらまた恥ずかしがるだろう。連は最後に緑のリボンで簡単に先を留めた。そして最後にやはり彼女の耳に耳打ちする。

「赤い髪はウェーブが綺麗に映えるわね。これで政宗もイチコロよ。今度結い方を教えてあげるね」

それを聞いて紗矢香は顔を赤くする。両手をぶんぶんと降りながら否定する。

「な、何言ってるのあなたは!」

紗矢香は二、三歩下がると、政宗にぶつかった。彼女はドキドキしながら、似合っているか聞こうとドギマギする。しかし政宗はにこりと笑うと、姉が結んだばかりのリボンの端をつかんでするりと三つ編みを解く。紗矢香が驚いていると彼は姉に良く似た、いたずらっぽい目でにやりと笑って言った。

「俺はロングヘアーも好きだけどな」

それを聞いてさらにサヤは顔を赤くし、蓮はクスクスと笑うのだった。


4


蓮の容体が悪化したのはその夜の事だった。政宗君の携帯から家の電話に連絡を受けた私は、父に無理を言って病院まで送ってもらうと、病室に直行した。しかしそこにいたのはすでに事切れた彼女だった。私は最後の言葉すら交わせなかった事に涙した。ひたすら泣きじゃくる私に対し政宗君はその間、ずっと私のそばで座っていてくれた。どれだけ時間が立っただろうか。私が泣きつかれて気がついた頃にはすでに夜遅くになっていた。廊下の長椅子の隣には政宗君が肩を貸してくれている。私は急に我に帰ったように冷静になる。

「パパは・・・?」

まだ泣き腫らした目を擦りながら聞いた。政宗君は強い瞳で涙を堪えながら教えてくれた。彼はとても乾いているように思われた。

「先に帰ったよ。うちの親もね。タクシーで帰って来いって言ってた。」

私は自分たちの親がどうこうと言うより、まだこうして彼に寄り添い、泣いていて良いという事にとりあえず感謝した。私は涙を流しながら今の自分の気持ちを整理する。何しろ私は生きているから。明日を生きなければいけないから。私は蓮の死に直面して、ずっと思ってきた事を彼に告げた。

「今までありがと、政宗君」

私は泣きながら声を振り絞った。頭に?マークを浮かべる彼に向かって続ける。

「私、分かってた。蓮が何と無く私たちがくっつけばいいなって思ってる事。政宗君も気がついてたんでしょ?」

彼はうつむきながら黙る。それは暗に答えを示しているのだと私は理解して、さらに口から次々と言葉が飛び出す。

「だから、もうお終いにしよ?私たち、もう十分蓮に幸せな最後を送れたよ。だって、今日はあんなに・・・あんなに笑ってたんだから」

それを遮るかのように彼の声が聞こえた。

「違う!」

彼は僅かに声を荒げる。寂しげな、悲しげな声。それは悲鳴にも聞こえた。

「確かに最初はそういうつもりもあったかも知れない。でも今は違うんだ」

彼は私の目をみた。どこまでも強い意思を持った瞳がブレること無くこちらを見ている。

「明日はサヤといたい。明後日も。その先も。出来るだけ一緒にいたいんだ。これからも」

私はその言葉を聞いて涙する。はじめて許されたかのような感覚。私は再び泣いた。『私も』と言いたかったが言葉が出ない。彼は私を抱きしめてさらに続けた。

「さやは覚えてないかも知れないけど、俺たち三人は昔、タイムカプセルみたいなものを埋めたんだ。いつも遊んだ河原の秘密基地、覚えてる?」

私はこくりと彼の胸の中で頷いた。何を入れたかなんてさっぱり覚えていなかったが、場所だけは鮮明に思い出す事ができた。

「明日、一緒に取りに行こう?お姉ちゃんの棺桶に、一緒に入れてあげたいから」

私はまたこくりとうなづいた。『棺桶』という言葉にまた涙がこみ上げてきそうになったが、彼の胸の中にいる限りまだ大丈夫なように思われた。

「お願い。ずっとこうしてて」

私は小さな子どものように彼の体に手を回して抱きつく。今この温もりから離れたら、寒さの中でひたすら孤独を感じてしまいそうで怖かった。私はぎゅっと彼を掴んで離れる事が出来なかった。しばしの沈黙が流れる。しかし、彼は私を優しく、だが冷徹な意思を持って引き離した。

「ずっとは今は出来ない。ごめん。タクシー、呼んでくるからここで待ってて」

私をおいて一人で彼はその場を離れる。私は力無く長椅子に座り込んだ。廊下の向こうに消えて行く彼の後ろ姿を見つめる。わかってる。姉に先立たれた彼の方が私よりきっと辛いんだってこと。彼に甘え過ぎちゃダメだ。でも・・・

「さむいよ・・・」

温もりから開放された私は小さくうずくまり、頬を流れる涙を止める術はもう無かった。その時だった。私のポケットの中でピピッと小さな音がした。携帯電話の着信だろうか。と思っていると、政宗が消えた廊下の闇から一人の男が歩いてくる。茶色のスーツに怜悧な眼鏡をかけた背の高い男。まるで生命保険屋という言葉がしっくりくるような整った身だしなみ。私は涙を拭くが、それでも止めることはできずに困っていると、その男は唐突に口を開いた。

「おめでとうございます。紗矢香様。貴方はブレイクギアーを持つ事を許されました」


5


私は暖かい自分の部屋の布団の中で目を覚ました。昨日の事は良く覚えていないが、恐らく一時間も寝ていない。どこからが夢でどこからが現実なのか、分からなかった。タクシーで政宗君に送ってもらって家に帰ったのはたしか朝方だ。私は窓から自分の部屋に入ったので親は知らない。知ったらなんと言われるだろう。政宗君には昨日は迷惑をかけっぱなしだったと今は思う。とりあえず昨日は散々泣いて、優しくしてもらった。もうこれで泣くのは辞めにしようと私は思った。割り切れるものではないけれど、これからは自分たちのために明日を生きなきゃいけない。蓮のいない現実を。いつまでも泣いてたら、彼女にも笑われる。それにこれからは私が彼のお姉さんになれるくらいじゃなきゃいけない。私は思い立つとベッドから抜け出し、薄暗い部屋の中で鏡を机に立てかけて自分の顔を見た。いつものぼざぼさの髪を確認すると。髪に櫛を通して行く。昨日、三つ編みを結ってもらった時の蓮の手の感触が思い出されて、また涙がこみ上げてくる。しかしなんとか涙を堪えると、机に置かれたPCを起動した。私はインターネットでゆるい三つ編みの編み方を調べると、自分の手で結い始めた。一房一房、蓮の手を思い出しながら丁寧に編み上げて行く。本当ならば彼女に教えてもらうはずだったのだ。幾分か不格好に出来上がったそれを見ながら、私は鏡に向かって一人で苦笑した。

「蓮、やっぱり貴方みたいには出来なかったよ」

つぶやいてから青いリボンで留める。そう言えば政宗君はロングヘアーが好きだと言っていた。あれは本気なのか単なる意地悪だったのか。私は思い出してはじめてクスリと笑った。まぁ、この不恰好な髪を今日彼に解いて貰うのもそれはそれでいいかも知れない。


河原には約束の時間よりも10分は早くついてしまった。時刻は早朝だ。学校が始まるまでに終わればいいと彼は言っていたが、私はこのまま彼と学校をさぼってしまってもいいかなと、少し思っていた。服には大いに悩んだ。制服は今は着たく無かった。蓮と同じ紺のブレザーはきっと彼にとって辛いものに違いない。彼の前に出るのだからもちろん綺麗な服装をしたいのもやまやまなのだが、本来なら蓮の喪に服すべきだろう。しかし真っ黒な服など着てくるのもおかしな話だ。私は結局無難なシンプルなワンピースを着てきたが、今思うとこの草が沢山生え放題の河原ではさらに色気の無いジーンズの方が良かったかも知れない。でもきっと彼なら掘り起こすのはやってくれるような気がするけれど。そこまで考えて私は時計を見た。待ち合わせの時間まであと5分だ。その時だった。ふとピピッと私のポケットの携帯電話が鳴る。そこには英文が映されていた。

I suspect I'm sorry, I'm sure he does not come

(申し訳ありませんが、彼はきっと来ないと思われます)

私はどきりとする。来ないとはどう言うことだ?それにこの携帯電話はどうしてしまったのだ?私は昨日の夢の記憶をたどる。確か大天使と言う男が現れた気もするのだが、しかし男は良くわからないことを喋り、政宗が帰ってくる前までにはそそくさと何処かに消えてしまっていた。でも確か彼が言っていた絵空事では・・・

Because your friend is alive

(貴方の大切なお友達は生きているからです)

私は再び胸が高鳴るのを感じた。生きている?蓮が?私は思わず声を出していた。

「嘘を言わないでよ!適当な、ぬか喜びをさせないで!死んだ人が蘇るはずないじゃない!」

それっきり私のスマートフォンは反論を辞めて、静かになる。これは悪い夢なのだろうか。いや、この携帯電話がおかしいのだ。何かのいたずらに違いない。私は政宗君を待つことにした。彼は必ず来る。ここに来て私と過去の三人の思い出を掘り起こすのだ。私は待った。たまにスマートフォンを見てみるが全く静かなものだ。それ見たことか。何の変哲もないただのスマートフォンではないか。私は自分に言い聞かせたが、言いようの無い不安が広がって行く。そのうち、10分が経ち30分が経ち、それでも彼は来なかった。春とはいえまだ河原は肌寒い。体の冷えと共に私は心細くなってきた。早く彼に来て抱きしめて欲しい。その体温で温めて欲しい。しかしその願いは叶わず一時間が経っても彼は現れなかった。私は意を決して河原の秘密基地の方に歩いて行く。川の支流が合流する近くのコンクリートと木が生い茂るエリアの境目付近。そこは木々が窪んだ、子どもにとっては立てるくらいの空間が広がっていた。私はワンピースが汚れるのも構わず入り口をくぐり中にはいる。その空間は大人の背丈になった私が入るにはあまりに小さく驚いた。当時は三人でこの中で座れたものだが、今では一人はいるのがやっとと言うところだろう。その中の一角にそれはあった。小さな枝が目印に立てられていた。今みるとお墓のようにしか見えないが当時はこれを目印にしようと、蓮が言っていた気がする。私はその下を掘り起こす事にした。不用意にもシャベルを忘れて来た私は、しかしそれを取りに戻るのももどかしく、手で土を掘りはじめた。ここに、あるはずなのだ、三人の思い出が。私は穴を掘りながら頬を涙が伝うのを感じた。寒い。私は一人で何をやっているのだろう。ここに来なかった彼を呪ってやりたいがそれができない事は分かっていた。きっと顔を見たら私は彼の胸に飛び込んでしまう。その笑顔を見たらすべて許してしまう。いや、彼が来ないのはきっと、まっとうな理由があるはずなのだ。私はやっとの思いで小さな缶を取り出すと、その周囲に貼られたテープを剥がした。私はすでにあちこちが泥だらけになっていた。だがしかし、そんな事など構っていられなかった。缶を開けると中を慎重に覗き込む。そこにはロケットのおもちゃや大好きな絵本、その時好きだったヒーローの人形などたわいもない『宝物』が詰められていた。私はその中に一つ、小さな紙切れを見つけた。『しょうらいなりたいもの』と書かれたその紙見て私はその日はじめて笑う。蓮のなりたいものが『さいきょうのけんし』だったからだ。彼女は覚えていたのだろうか?確かに中学時代の彼女の剣道での活躍は目覚ましいものがあった。病気にさえならなければまさに『最強の剣士』になりかねなかっただろう。私は笑みと涙が同時にこぼれて来たが、その先を読んでさらに驚いた。自分の場所には『アリス』と書いてあったのだ。そして、政宗の欄には『白うさぎ』と書いてあった。私はそれを見て心が急激に揺さぶられる。そして私の記憶を呼び起こした。二人で交わした遠い日の約束が脳裏で再生される。彼らは確かあの時言ったのだ。

『あたしはアリスになりたいな〜』

『なればいーじゃんか』

『まーくんのバカ。アリスは絵本の中の人じゃない。それに私には不思議の国に連れて行ってくれる白うさぎもいないし』

『そーなんだー。じゃぁ、俺が白うさぎになるよ』

『本当に?いろんな不思議な世界に連れてってくれる?』

『うん。その代わりさや姉ちゃんは、俺のアリスになってね』

『分かった、約束するわ。貴方も約束よ?』

『分かった。約束するよ、絶対に忘れちゃダメだよ?』

また、何度目かの涙が私の頬を流れていた。そして図書館の帰り道の事を思い出す。彼は知っていた。覚えていたのだ、アリスの約束を。私はいても経ってもいられなくなり、その紙をポケットに突っ込むと秘密基地から飛び出した。小さな出口のトンネルをくぐる時に枝や葉が紙にまとわりついたが、それでも構わずに走った。彼に伝えたい。約束を私も思い出した事、その約束を果たす事が今なら出来そうな気がする事。貴方と出会ってすべてが変わった。私に守るべきものと守ってくれるものを同時に与えてくれた。私に新しい世界を見せてくれた。それだけで貴方は私の白うさぎなんだよ。私は彼に口でそれを伝えたくて、蓮の---彼の家まで走っていた。門の前で切らしていた息を整える。と、その時だった。ギイっと言う音と共にドアが開く。


6


そこから現れたのは艶やかなストレートヘアーの女性。一瞬人違いであるかのように見えたのは昨日見た痩せこけた姿では無く、綺麗なピンクさえ頬にさした健康そうな顔の色と目の輝きからだった。しかし見紛う事はない。その人物はまさに、尾張野蓮そのものだった。いつもの通り紺色のブレザーを来ている。彼女は門の前の紗矢香を見るとギョッとして目を見開く。

「さ、紗矢香?!貴方なんて格好してるのよ?学校の準備はいいの?」

確かに紗矢香はひどい格好だった。目は泣きはらして赤くなっており、ゆるく三つ編みがしてあった髪は木々に絡め取られて半分ほど解けていた。艶やかだった赤い髪は砂ほこりで薄汚く汚れ、小さや木の枝の屑や葉が絡みついている。白のワンピースとその両手は泥だらけだ。彼女はよろよろと蓮に近づくと、彼女に抱きついた。

「生きてたのね、蓮」

蓮は訳もわからず困惑する。とりあえず泣き出した彼女をなだめるためによしよしと自分の服が汚れるのも構わずに頭を撫でてた。

「大丈夫よ。怖い夢でも見たの?私はこの通り、ピンピンしてるわよ?」

言いながら持ち前の明るさでガッツポーズを作って見せる。紗矢香は心から笑う。不意にピピッと彼女のスマートフォンが鳴った。

look

(ほらね)

彼女の顔に驚愕の表情が走る。と言う事は、どう言う事か、だ。紗矢香は恐る恐る蓮に聞いた。

「蓮、あなたここ最近病院に行った・・・かな?」

蓮は頭にハテナマークが浮かんだ顔で思案する。

「無いわよ〜 春の大会で忙しかったんだから、体調崩してる場合じゃないもんね」

そういいながら左手に持った竹刀を彼女に見せる。紗矢香は恐ろしい事実を認識した。蓮が入院してから死ぬまでの二ヶ月弱の出来事が、全て無かった事になっている。全ての記憶がすり替わっている。と言う事は・・・紗矢香はその可能性に恐怖した。その時だ、彼女の後ろから声がする。

「お姉ちゃん、玄関で何してるのさ」

その声に紗矢香はどきりとする。何も変わらない、昨日と同じ顔。同じ声。暖かい温もりが思い出されて紗矢香がすぐに『政宗君』と彼の名前を呼ぼうとした時、彼が口を開いた。

「ぅ、お姉ちゃん、この人誰?」

彼は笑顔を曇らせた。紗矢香は自分の姿をはじめてまじまじと見た。ドロドロに汚れたワンピースとほどけかけの髪。しかも朝から制服も着ずに友人宅に押しかけているように見える紗矢香に、蓮もフォローに困るように口をつまらせる。

「えっと・・・その・・・」

「まぁいいや。遅れるよ~?学校となり街なんだから。」

彼はそれだけを言うと奥に引っ込んで行く。私は手を延ばしたかった。彼に声を掛けたかった。しかしそれはもはや叶わぬ事に思われた。一体なんと言ったらいいだろう?蓮は一度死んでいて、あなたと私は運命的な再開を果たしていたと?彼女を蘇らせるために私は戦いに身を捧げ、貴方は記憶を失ったと?とてもでは無いが信じる気にはなるまい。私はうつむいた。それを見兼ねたのか蓮が私に声をかける。

「ごめんね。あいつ私達と同じ学校来れなかったからちょっと拗ねてるのよ。明日から入学式だって言うのにね!」

あたふたとフォローする。私にはむしろ彼女の優しさも痛く感じられた。


7


その時だった。私のスマートフォンがピピッと警報を発する。私は力無くその表示を見た。

Warning. You are aiming

(敵襲です。貴方は狙われています)

私はドキッとした。どうして?狙うとはどう言う事か。これ以上私に、どんな仕打ちがあると言うのか。私はうつむいた。震える声で言葉を絞り出す。

「蓮・・・私行くね。明日、また会おうね。絶対」

私はそれだけ言うと走り出した。彼女を巻き込む事は出来ない。そして私が明日彼女に出会うためにしなければいけない事は、今の自分を守る事だ。私は急激に頭が冷めて行くのを感じた。現実に体が適応して行く。昨日の大天使が言った言葉が本当ならば、私が負けたら蓮が死ぬと言う事。もしそうなったら、私には・・・

「何も無くなっちゃう」

私はビルの屋上まで来ていた。まるで通り魔のように殺気を放つ男が現れる。私は少し恐怖したが、すぐに蓮や政宗の事を思い出した。もういいではないか。いまさら何を怖がる事があるだろう?その時、ふと思い出して風になびく自分の髪を見る。リボンに手をやると、彼に解いて貰う事は出来なかったね。と自分につぶやきながら、自分の手でリボンを解いた。髪が広がる。私にはもうこれしかないんだ。戦いしか。でも素敵な人生じゃないか。蓮を生かし続ける事が私の戦いなのだ。私はリボンを伸ばすと、その細長い紐で奴を切り刻むために一歩を踏み出した。


8


あくる日、私は朝の交差点で蓮を待つ。世界に耳をふさぐように、お気に入りの音楽を白いヘッドホンで聞きながら。その時、遠くに彼が見える。自転車に乗ってこちらに来る。そうか。彼は今日から入学式だった。私は彼をこっそりと見つめる。彼と関わる事はもう無いだろう。私のような血染めの女は、彼に関わる資格があるとは到底思えなかった。この距離が精一杯なのだ。毎朝彼を見ていられるだけで私は満足なのだ。一つ大きなため息をつく。さよなら、私の白うさぎさん。


私はやっぱり、貴方のアリスにはなれなかったよ。


9


政宗がドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。地にひれ伏している総司に深々と木刀が突き刺さり、そこから赤い紋章光がとくとくと流れ出している。彼は指先をピクリとも動かせない様子で横たわっていた。政宗は心臓が高鳴る。総司の傍に立ち、彼の肩を踏んでいたのは麻屋紗矢香。剣を右手に持ち、総司の事を見下していた。その光景を見て、政宗は叫んだ。

「そこを、どいてくれ!」

両手から稲妻の残光を曳きながら、彼女に肉薄する。麻屋は事もなげにそれを刀で受け止めた。政宗はボクシングのワンツーの要領で、左、左とジャブ気味に彼女に電撃を浴びせる。彼女がそれを剣で弾くたびに、白い電撃があたりに飛び散った。二度目の衝撃を彼女の剣が弾いた際に、政宗は空いた彼女の左のわき腹めがけて右手からボディブローを繰り出す。クリーンヒットするそのわずか手前で電撃を増幅し、最大級の稲妻を見舞った。彼女の顔が歪み、一気にライフが減る。彼女はそれに耐え抜くと、即座に右手を伸ばして、政宗の伸び切った右手首を封じる。同時に体を滑り込ませながら体重を移動させ肩を政宗にぶつける。そしてその密着した体勢のまま、自分の右脇を通して政宗の腹に左手の刀を収めるように突き刺す。極低速で発動した木刀の突きが、政宗の右の脇腹から左の背中に深々と抜ける。体の大部分を抉られ、政宗は気の遠くなるような痛みが伴ったがなんとか意識だけは保つと、次の瞬間には彼女に右足で後ろに蹴り飛ばされ、刀をずるりと引き出された。途端、止血をやめたように紋章光が噴き出す。政宗は膝をついた。

「本当に呆れるぐらい間が悪いのね。私達って」

麻屋は一瞬の死闘に息を切らしながら政宗にそう告げると、彼にゆっくりと近づいた。刀を振り上げ、彼にとどめを刺そうとする。

「デジタリゼーションを解除してから、ゆっくり話をしてあげる。今なら信じられるかもしれないから」

しかし、彼とどうこうなる事は今更ないように思えた。だから彼女は、自分に言い聞かせるように付け加えた。

「単なる御伽噺と同じよ」

と、その瞬間だった。彼女はギョッと身を引いた。彼の上目遣いに強烈な殺意を見たのだ。紗矢香はハッと気がついてその場で後傾し天を仰ぐと、刀を振りかぶった。ほぼ同時の瞬間にホールの屋上のステンドグラスが割れて弾け飛び、そこを突き抜けて巨大な落雷が姿を表した。強烈な光が紗矢香に降り注ぐ。しかし彼女は振りかぶった剣を思い切り降りながら叫んだ。

「コーデリアァッッ!」

Please leave

(お任せください)

途端、彼女の木刀を巨大な赤い光が包む。彼女はその巨大な光の剣で落雷を力任せに根こそぎ叩き斬った。辺り一帯に白い電気の束が弾け飛ぶ。政宗の体にも小さな破片があたり、吹き飛ばされる。彼女は無理な姿勢で上空に斬撃を加えたために、そのままバランスを崩して倒れた。2人とも体は大分消耗しており、立ち上がるのには時間を要するようだった。忌々しげに彼女は呟く。

「今のがレベル3の落雷ね。だけど次はもう当たらないよ。それ、天井に穴が空いてるこの中央部分でしか使えないんでしょ?」

木刀を杖代わりに、息を切らしながらよろよろと立ち上がる。政宗はうずくまっていたがゆっくりと体をもたげた。

「一瞬で見破るのは凄いけど、そんな強さ、あっても意味がない。麻屋さん、目を覚まさなきゃいけないんだよ。こんな力に頼って、ゲームを楽しむみたいに・・・他の人は希望を踏みにじられたって感じているのに!」

言いながら彼は紗矢香をぎらりと睨んだ。その右手にはなんと、ばちばちと火花を散らす光の大剣が握られていた。その剣を紗矢香に向けて構える。

「あなたのデジタリゼーションは、今ここで解除する」

彼女は驚愕した。先ほどの落雷の一部をその身に受けた時に、一瞬でその雷を掴んだとでも言うのか。確かにレベル2スキルの電力吸収とレベル1スキルの電力発生を組み合わせれば理論上は可能だ。しかし稲妻の剣などいまだかつて聞いた事もない。それは、失敗すれば自分の即死につながる危険があるからに他ならない。政宗はゆっくりと歩み寄る。

「解除?私を貴方が?どうやってするか、教えて欲しいよ」

紗矢香は剣を一振りすると、赤い巨大な光の剣が火の粉を散らすように掻き消え、中から西洋風の大きな黒い剣が現れた。木刀の二倍はあろうかという長さだが、彼女はそれを軽々と二、三度振り、感覚を確かめた。二人の視線が交錯する。

「どうやら分かり合えないらしい」

政宗は呟くと踏み込みながら一閃した。

「分かり合う?何を!私たちは何が分かり合えるの!」

激しい稲妻を散らしながら麻屋の大剣がそれを弾く。稲妻の剣は電気属性を保持しているのは間違いないだろう。とすると、無敵時間外に紗矢香の剣が稲妻の剣に触れただけでもアウトだ。紗矢香はギリギリの綱渡りを強いられる。

「分かり合えないかな。天使の命の重さとか、人の気持ちの重さとかさ!」

政宗は縦に一閃する。彼女はステップでそれを避ける。

「人の気持ちの重さ?そんなもの分かっているわよ!分かっているから・・・!」

腰だめから音速の一撃を放つ。これはガード不能な角度だ。

「いや、分かっていない!」

政宗は左手を突き出して、紗矢香の大刀をガードした。なんと、左手にも稲妻の剣が握られている。二刀流・・・紗矢香は舌打ちする。彼は土壇場で稲妻の分離をやってのけたのだ。

「分かっていたならなんで、騎士の彼女にあんなひどい事が出来たんだ!」

政宗は回転するように相手の刀を振り払いながら突きを繰り出す。

「なんで総司を踏みつけられたんだ!」

彼女は間合いを調節しながら刀の柄で稲妻の剣を払う。政宗もまた驚愕した。柄に無敵判定を発生させる方法があるとは。そしてそれを使いこなしている紗矢香にも畏怖の念すら感じる。

「分かってないのは貴方よ!」

紗矢香は刀を面にして振り抜く。幅広のその洋刀は、政宗を刀のガードもろとも吹き飛ばした。

「譲れないものがあるのよ!例えそのためなら、恐怖を抱かせるのだって武器に使う。心だって鬼にするわよ。こっちはね・・・」

彼女はその大きな刀を深々と大地に突き刺す。そしてそのまま、フォークでケーキを持ち上げるように大理石の塊を抜き出した。

「遊びでやってる訳じゃないんだよ!」

彼女はその大きな塊を宙に舞わせると、構えた剣を超高速で振り抜き、吹き飛ばした。岩の破片が数多の礫となって政宗を襲う。

「俺にだって、守りたいものがある!」

政宗は剣をがむしゃらに振って礫を叩き落すが、すべては落としきれない。耐えきれず顔をガードをしたその時だった。礫に紛れて背後に回り込んだ麻屋の刀が横一閃に彼に襲いかかる。

「貴方は良いじゃない!」

そのまま、政宗の体に刃を刻み付ける。

「最高の姉もいて、彼みたいに友達もいて、可愛い女の子も、近くにいて!」

彼の脇腹をえぐるように貫いた。即座の動きで致命傷は避けたものの、激しい痛みが彼を襲う。

「私には選抜戦しかない」

彼女は剣舞のような滑らかな剣舞で連続攻撃を見舞う。政宗は攻撃を受けるので精一杯だった。

「天使選抜戦なんてやっても!」

彼女はさらに斬撃を重ねる。

「夢みたいな力で戦っても!」

刀を引き抜く。彼女は政宗にさらなる斬撃を加えるべく刀を持ち上げる。

「ここは不思議の国じゃなかった!」

彼女は再び刀を振り下ろす。光の奔流がそのたびに彼の刀からはスパークする。麻屋は息が上がっていた。彼女は必死で声を振り絞る。最後にもう一度だけ、政宗に力無く剣を振り下ろす。

「大天使は白ウサギなんかじゃなかったのよ」

彼女は政宗の上に崩れ落ちた。もはやこれまでだろう。政宗は紋章光の溢れる手を伸ばし、紗矢香の瞳からこぼれた赤い光を受け止めた。

「いつでも泣いて、良いんだよ?」

紗矢香はその言葉にハッと我に返る。しかしその言葉の通りに本当に涙が出そうになってくるのを彼女は我慢した。二年分の寂しさが溢れ出てしまいそうで、ひたすらにそれを必死に堪えた。今泣いたら、この二年間彼に対して保って来た距離が本当に無駄になるようで、彼女は怖かった。

「無理だよ。私は・・・私達はもう、運命の歯車の中なんだよ」

政宗は顔をしかめると、懐からよたよたとブレイクギアーを取り出す。彼は自分でそれを見つめたあと、力なく笑い、紗矢香にもそれを見せた。

Break gear!

(運命の歯車なんて壊しちゃいなさい!)

You have Break gear!

(あなた達には私が側についてるんだから!)

それを見て紗矢香は力無く崩れる。

「私はアリスに、なりたかったんだ」

彼は微笑んだ。

「なれるよ。白うさぎなんてどこにでもいる」

紗矢香はもしかしたら彼は失った記憶を取り戻したのかもしれないと一瞬思ったが、それはあり得ないと考え直した。失われた時は戻らない。とすれば今から作り治す事は出来るのだろうか?呪われてるとしか思えないこの2人の宿命の歯車を断ち切る事が出来るのだろうか?彼女は胸が高鳴るのを感じた。

「一つ、麻屋さんに言わなきゃいけない事があって」

政宗は口を開いた。

「お姉ちゃんは一週間前に死んだんだ。だから、俺の祝福で蘇らせたんだ」

それを聞いて紗矢香はキョトンとする。そして、徐々に小さな笑いが漏れていった。

「なぁんだ」

彼女は政宗の横にゴロンと仰向けになった。

「私もよ。あの子、二年前にも一回死んでるのよ」

今度は政宗が驚く番だった。そしてやはり最後には小さく笑う。

「よく死ぬ人だよね、本当」

「これからどうしようか?」

紗矢香の問に政宗は立ち上がりながら応える。

「俺たちが、最後の2人になれば良い」

紗矢香はシンプルなその答えに笑う。そして少しだけ顔を赤くした『最後の2人』というのはなかなか照れてしまう。彼女は顔を赤くしながら上目遣いで彼を見た。

「私がその日まで君を守る」

「俺がその日まで貴方を守る」

政宗は紗矢香を見返す。2人は頷くと見つめ合いながら立ち上がった。

「でも・・・」

紗矢香は一つだけ、わがままを付け加えた。少し記憶が混同する。いくつもの過去の、自分の思いがこんがらがっているのがわかる。それでも

「麻屋は嫌だから。さやって呼んでね」

また少し顔を赤くしながら言った。こんな気持ちはいつぶりだろうか。


10


ホールの中に一つの拍手が響き渡ったのはその時だった。見るとテラスから全身白い法衣に身を包んだ長身の男が現れる。ホールを取り囲むテラスには気がつくと何人もの所持者達が見下ろしていた。一様に二人に敵意を剥き出しにしている。

「お見事でした。麻屋紗矢香組長殿。見事な敗北ぶりです」

「真麻戸さん、どう言うつもり!」

紗矢香は力を振り絞って立ち上がる。

「申し訳ございません。私、新宿組織の上位機関、G機関からの直接派遣員でございまして。紗矢香様、申し訳ありませんが、あなたを排除させて頂きます」

その場の全員が武器を構える。真麻戸の傍には小さな女の子がまくらを抱えてうつらうつらしていた。彼女の目で見た映像を、遠く離れたアジトのテレビで視聴していた裏花加奈子は呟く。

「さて、楽しみに見させていただこうかしら?頑張ってね、政宗くん」

そして、そのホールの様子を千里眼で見ていたメガネの大天使達も一人呟く。

「まだ計画は始まったばかりだ。君たちは大いなる鍵。こんな所でくたばって貰っては困るな」

その時、ホールの中央に再び巨大な雷が落ちていた。今度はそれ全てを受け取り、巨大な刀へと変換する政宗。彼は紗矢香をチラリと見た。

「さや・・・さん、隣に来てくれないか?」

彼女は頷くと彼の隣に並ぶ。右手で洋刀を構える紗矢香の左に左手で光の剣を構える2人が並び、敵の大軍団を前に雄々しく立った。二人の手が触れ会う。紗矢香が無意識に握ったその手に、政宗は戸惑った。しかし強く握り返す。紗矢香はまた顔を赤くした。政宗が呟く。

「アリス、行くよ」

それは誰に言ったものだろうか。いや、私はもはやどちらでも良かった。この白うさぎとならどこまでも行けると、そう思う。私はもう一度強く彼の手を握り返した。


さぁ、二人でこの歯車を壊そう。

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