第3話 交錯
1
からからと車輪が廻る。廻り出したのは運命の輪なのか。それとも破滅の罠の歯車か。俺は満然と考えながら自転車を押していた。今日は風が強い。隣には姉が黒髪を揺らしている。今朝は早く家を出て風が強いので自転車を押して行こうかと思っていたところ、偶然姉と家を出る時間が重なったのだ。
「そう言えばさ、今度うちの駅に新しいケーキ屋さんできるんだってさ〜」
姉はにこにこと今日も機嫌良さげだ。右手にはカバン、肩には竹刀を下げている。姉は引退した身だが、今でも部活にはたまに顔をだしている。家にいる時は優しい姿しか見せない姉だが、竹刀を持つとどんな豹変を見せるのか。俺はそれを知らない。姉と駅に新しくできる、ケーキが美味しいと話題の店について話をしていると、やがて交差点が近づいてきた。俺が右に曲がらなければいけない交差点だ。俺は遠くで白いヘッドホンに手をやりながら、目をつむる一人の赤毛の少女を見つけた。今日も何食わぬ顔で姉を待っている。思えば俺はおよそこの2年間、ほとんど毎朝彼女を遠目に見ていた事になる。彼女は毎日毎日そこで姉を待ち、夕方には別れ、その毎夜にはブレイクギアーを振るって天使を狩っていたなどとは夢にも思わない。俺はうすら寒いものを感じた。少女はこちらには全く気がつかない様子でまだ目を閉じて耳を澄ましている。お気に入りの曲なのか、口元は緩んで楽しそうだ。俺はこの距離では彼女の言った『今度会ったら』は適用されないだろうなと警戒しつつ、彼女に気がつかれない位置で、コッソリ彼女を指差して姉に聞いた。
「お姉ちゃん、あの人誰だっけ?」
姉はそれを聞いて一度キョトンとしたあと、ニヤリといたずらっぽい色を目に浮かべる。思い出し笑いを堪えるように右手で口元を隠しながら、近所の噂好きのオバさんのように左手を振る。この仕草は一体なんなのだ。
「なになに、可愛くなり過ぎててわかんないの? あなた昔は『さや姉ちゃん』って言ってベタベタだったのに〜」
俺は驚きを隠せない。しかし、たしかに『さや姉ちゃん』という響きは強烈な思い出を喚起させる力があった。
「あ、さや姉ちゃんか」
俺はすべてを理解した訳ではなかったが、取り敢えず名前を口にしてみた。口に出して見てから、その単語が余りにも滑らかに俺の舌を動かさせた事にびっくりする。もしかするとこの感触、口にしたのは一回や二回では無いかもしれない。俺は俺が思うよりもずっと長く、姉を含め三人で過ごしたのでは無いだろうか。俺の思案もよそに姉は横でニヤニヤを繰り返していた。
「そうか〜 ずっと分からなかったから無視してたのね〜 私はてっきり嫌いになっちゃったのかと思って、気を遣ってさやの話はしなかったのよ〜 良かった〜!」
今となっては『嫌い』という単語はあながち間違いではなく、当たらずも遠からずと言った印象を俺に抱かせる。むしろ彼女が昨日俺に抱かせた感情は『恐れ』に近い。姉は俺の悩みなど素知らぬ風で今度はいきなり俺の耳に口を寄せて囁く。俺は姉の息遣いと、頬に当たる指の感触に意表を突かれ、思わずドキドキする。
「じゃぁ、あなた『あの約束』まで思い出したの?」
「なんだよそれ?」
俺は背筋が寒くなった気がして聞きなおす。しかし姉はそれ以上教えてくれなかった。
「なぁんだ。残念。 まあ、そのうち思い出すわよ。あ、そうそう」
姉は胸ポケットからメモ帳とペンを手早く出すと、さらさらさらっと何かを書いた。さらりと崩れているが丁寧な美しい字だ。
「さやのメールアドレスよ。今日の昼休みにメールしたげなさい!」
俺は余りの突飛な姉の思考について行けず、思わず自分で押していた自転車のペダルに自分の足をぶつける。
「な、何だって?なんでそんな事っ」
姉は今度は妙に清々しい顔でニコリと笑った。
「良いじゃない。紗矢香もあなたに会いたがってたわよ」
昨日本人に会ったばかりの俺からすれば、その姉の言は確実に嘘だと言う事はわかったが、それを俺が知っているのもおかしい話だ。
「朝のうちにあの子には言っておくから、昼休みにメールするのよ?順序が逆になったらあなた殺されちゃうかもしれないし。それじゃぁね!」
「会いたがってるんじゃなかったの?」
キョトンとして立ち尽くす俺の質問は虚しく空に消えた。そして交差点に差し掛かると姉はこちらに手を降ったあと、向こうに向かって駆け出した。俺は自転車にまたがると、遠くの『さや姉ちゃん』を見やる。彼女と一瞬目が合ったかのようにも見えたが、すぐに蓮に気がついて彼女はそちらを見ると、こやかな笑顔が見えた。『殺されちゃうかも』と言う姉の言葉が俺の中で思い出されたが、それもあながち冗談ではないかもしれないと思った。
2
ブレイクギアーが振動した。通常の呼び出しではなく振動なのは、本来の携帯電話のメッセ機能が働いたと言う事だ。画面を操作して表示させる。
『おっはにゃ〜♡ すごく眠いよぉ〜 今日も一日がんばろぉ〜♪ 頑張ったら土曜日にまたなでなでしてね?それまでがんばるにゃん♪』
それを見た俺はピキッと固まる。
「なんだこれは」
Analysis is impossible
(解析不能です)
ユーリも困惑を露わにする。俺は学校の屋上にある給水塔の上に座っていた。政宗とコンタクトを取るためだ。メールアドレスには覚えが無かったのでブレイクギアーを懐にしまう。さて、昼休みにここで政宗と皐月美憂と会う約束をしたものの、それまでどうして過ごすか。俺はコートが汚れるのも構わず、給水塔の上に横になった。腕を両手で組んで枕にする。今日の天気は快晴で、だが雲が影を作り非常に気持ちがいい。俺は昨日の事を思案する。政宗はレベル2になった。彼は恐るべきスピードで進化している。いよいよアリスは政宗に馴染んでいる。俺は一抹の寂しさがよぎり、同時にふっと俺は息を漏らした。昨日のダディの言葉が思い出されたからだ。奴に政宗の天使を奪い返せと言われた時、本の一瞬だがそれもいいかと思ってしまった俺がいた。例えば今すぐ教室に乗り込み、奴からブレイクギアーを奪う。今ならまだ俺とユーリの敵では無いだろう。だがしかし、もしこのまま政宗がレベル3になったらどうだ?いや、高レベルの敵ばかり倒しているから、実際にレベル3になるのも本当に時間の問題だろう。2ndしか持たない俺にとっていつまで手に終える存在なのだろう。いずれ彼には2ndも発言し、さらに『投射』などというその辺にごろごろしているありふれた力とは違う『ボルト』は凄まじいポテンシャルを発揮するだろう。もしやるなら今しかチャンスは無い。なんて事は無い簡単な仕事だ。教室に乗り込んでも投げる物は豊富だし、狙撃で仕留めてもいい。と、そこまで考えて俺はさらに笑う。もっと簡単な話だ。彼は俺を信用している。ブレイクギアーを貸してくれと、一言言うだけでおそらく事は叶うだろう。そう、彼は俺を信用しているのだ。俺は悔しくて歯ぎしりをした。俺が奴の信頼を裏切ってどうする。アスカの事は忘れるんだ。俺は自分に言い聞かせた。アスカなどいなくても、ダディは俺が倒すしかない。俺一人の力で。政宗をこれ以上巻き込む事はできない。そもそも、アスカを失ったのも元はと言えば、奴を恐れた俺に原因がある。二年に渡る長い戦いの末、次第に俺は確実に勝てる勝負のみを求めるようになり、自分より強い敵とは戦おうともしなかった。その挙句『どうしても勝てない存在』と言う物を自分の中に作り出し、抗おうともしなかったのだ。奴を倒さぬ限り、奴を恐れた俺という存在は消える事は無い。その存在を残したまま生き続ける事は、俺が消滅する事より辛いのでは無いか。俺は改めて自分の心に決めた。奴を必ず倒す。そして、自分の判断ミスを取り戻すのだ。俺は何時の間にか手を握りしめていた。その時俺はまだ、ポケットの中で震えるユーリに気がつく事ができずにいたのだ。
3
「な・ん・で!そうなるの!?」
「え!?紗矢香なんでそんなに怒ってるの?!」
私はぜいぜいと息をきらしながら、自分が大声を出していた事に気がついて、こほんっと咳払いをした。電車の周囲の客がこちらを見ている。と言ってもたった一区間の乗車だ。じきに駅にもつく。私はあまり怒るのも確かに不自然ではあるので、極力落ち着きを取り戻す事を心がけた。
「いや、だってほら。蓮も知る通り私ってさ、そのあれじゃん」
「人見知り?」
彼女の鋭くも適切な指摘に私はガクッと肩を落とした。私の生来の性質はいかんともし難い。幼い頃からほとんど蓮以外の人とは遊ばず、本ばかり読んで過ごして来た。その弊害として生まれたのが、人付き合いが苦手なこの私の人格そのものだった。そこは、自覚している。
「そ。蓮の弟くんだってさ〜 きっと例外じゃないわけ。そもそも男子自体が大嫌いだしね・・・」
私は両手を広げてジェスチャーして見せた。お手上げ、と言うわけだ。
「でもさ〜 政宗だけは大丈夫だと思うな〜 だって昔はあんなに仲良かったんだし」
「うっ」
私は胸が締め付けられた思いがした。彼女はそう言うが、彼はもはや覚えてはいるまい。名前すら忘れていたのだから。河原の秘密基地で三人で遊んだ毎日も、春にはシロツメグサで王冠をつくり、頭に乗せてやった事も。花の首を飛ばして顔に当ててやった事も、きっと。いや、それもしょうがないのだ。二年前までは忘れていたのは私の方だ。
「あの時とは違うんだよ」
私は静かにつぶやいたが、電車の停止音に掻き消された。今日も同じだ。今日も私は、私の望む主人公には決してなれない。
4
我が校の屋上は人気が無い。おかげで人の往来はほとんどなく、俺や総司はここでお昼を取る事が自然と日課になってきた。しかし今日は2人ではなかった。お昼の時間になり屋上に着くと、そこにいた女子を紹介され、俺は目を丸くする。
「政宗、彼女が美憂だ。俺の『仲間』として登録してある」
総司は事も無げに彼女を指す。隣のクラスの皐月美憂といえば、話した事こそ無いが、可愛いと学内でも評判の女子だ。まさかこの子も夜な夜なその手元の白いスマートフォンを振るい、リアルファイトを繰り返していたとは。しかし彼女、明らかに顔は暗く落ち込んでいる。俺は何か悪い事でもしただろうかと、自分の行いを振り返る。ズボンのジッパーが開いてないかと疑ったぐらいだ。
「よ、よろしく」
俺は遠慮がちに手を出した。彼女は力ない様子で俺の手を握る。
「どうしたの、皐月さん?」
「いや、ちょっとね〜」
口ごもる彼女に俺は小心者ゆえか、びくびくしながらも、総司に目をやった。女の子関係の事は全くと言っていいほど不器用な自分が情けなくなる。総司はため息をしながらも答えた。
「なんだか彼氏さんからメールが返って来ないんだってさ」
「そ、そんなにはっきり言わなくても良いでしょ!」
総司は飽きれた様子で近所のコンビニから買ってきたと思われるうな重弁当を取り出した。俺は姉さんが作ってくれたおにぎりを取り出す。美憂はと言うと、ダイエット中なのか小さな小さなお弁当箱にヘルシーなメニューばかりが詰まったお弁当だった。
「一回くらい返信しない時もあるだろう〜 風呂でも入ってるんじゃないか?」
言いながら割り箸を割り、ムシャムシャと食べ始める。レンジでチンしたてなのだろう、香しい香りが周囲に流れ始める。このいかにも幸せそうな香りは彼女の神経を逆なでしているようだ。
「朝から昼までお風呂入る高校生がいますかっ!慰めるなら携帯を家に忘れたくらい言えないのっ?」
「じゃぁそれだろ?」
総司は自分の弁当から鰻を取ろうとしたが、隣から美憂の箸が伸びてきてそれを奪う。
「なんだと?!しかしなんて送ったんだよ。そんな大事なメールだったのか?」
総司は行儀の悪い事に食べながら箸で残りの鰻をガードをしつつ聞いた。
「普通よ!おはよう、と眠いね〜と、今週も土曜日のデート楽しみにしてるねって!」
それを聞いた瞬間、総司は箸の動きが止まった。
「そ、そうか」
Ma, Master!
(マ、マスター!)
ユーリもポケットの中で不安気にピピっと声をあげる。総司はどうしたものか迷ったようだが、半分あまり残ったうな重弁当をすっと美憂に差し出した。
「これ、やる」
美憂は頭にハテナ顔を浮かべていたが、それを尻目に政宗はコートをはためかせながら立ち上がり、素早くブレイクギアーを取り出す。
「ユーリっっ!」
I already do
(もうやってます)
総司は流れるような動作で文字が羅列されているブレイクギアーを美憂に差し出した。
5
「これは・・・」
茶色のスーツの男はメガネの奥の目を光らせた。待ち合わせの指定場所を間違えたかと思ったからだ。しかし何度見返してもそのメモの地図と実際の場所は間違っていない。しかし目の前にあるのは珍妙な木製の手押し車にカウンターがついた設備だった。こんな物は天界でも見た事がない。今にも崩れそうなそれの前で躊躇していると、暖簾が手で持ち上げられ、下から見知った顔が姿を表す。オールバックの男だ。
「遅いぞ。何やってるんだお前。早くこっちに来いよ」
手招きに急かされてメガネの男は近づく。どうやら暖簾の下には椅子が用意されているらしく、そこで座って食事ができるようだった。暖簾をくぐるとそこは別世界のような蒸し暑さと、香しいスープの香りが漂う。
「これは、中華か」
「野暮なジャンル分けするんじゃねーよ」
はぁ、とオールバックの男はため息をつき、慣れた感じで注文をして行く。
「親父、いつもの二杯頼む」
「へい、かしこまりやしたっ」
威勢のいい男性が手早く調理を始めるのを見つめながら、目を逸らさずオールバックの男が告げた。
「俺の組織だけどな」
「お前の組織だと認めるのか」
メガネの男は冷静に揚げ足をとる。
「あぁ、認めるよ!ただなぁ、少し語弊があってな。実際に派手に活動してるのはそれの下位組織になる。どうやら奴ら暴走気味でな。支部を細分化してえらく手広くやってるらしい」
暑さに耐え兼ねて、茶色のジャケットを脱ぎながらメガネの男は聞いた。
「それが、新宿組織か。で、どうするつもりだ?」
「これは本来俺の仕事じゃないんだが、俺の組織、つまり上位機関のボスに『介入』を頼む事にした。元はと言えば奴らの落とし前だ。自分でつけてもらうさ」
「そうか。で私に何をしろと?」
「何もするな」
メガネの男は少し驚いた顔を作った。
「これは奴らの落とし前だ。出来れば奴ら自身に処置をさせたい」
と、ここでカウンターの向こうから元気な声が聞こえてきた。
「へいおまち!」
とん、と2人の前に並んだ醤油ラーメンは蒸気と共に、芳醇な香りを漂わせる。メガネの男は戸惑ったがその香りに食欲を刺激されたようだ。さっそくフォークを探すが見当たらない。隣ではズルズルと音を立てながらオールバックの男がラーメンをすする。
「お前、箸が使えないのか?それ人生、5割損してるぞ」
みると男は綺麗に箸を操り具をつかんでいる。
「むっ 私とて100年ほど前には使ったことがある。たしかこう・・・」
ぎこちない様子で箸を操り麺を掴むと、何とか口に放り込んだ。熟成された小麦独特の風味と卵の味が濃く残った麺は、腰のある歯ごたえと共に絶妙なモチモチとした食べ応えをもたらす。また絡んだスープが秀逸で、透き通った醤油はどこまでもてらいがなく素直な味わいを奏でるのだが、ほんのわずかな背脂がその澄んだ味に豊満な膨らみを持たせ、舌の上にシルクを敷いたような重厚な余韻を残した。
「こ、これは!」
メガネの男は箸をもどかしく動かしながら、それを存分に味わった。相方は早くも具を食べ尽くし、スープを飲んでいる。かなり手慣れた食べようだ。オールバックの男はスープを最後の一口まで飲み干すと、得意気な顔で立ち上がった。
「とまぁ、そういうわけだ。言いたいこと言ったから俺は帰るぜ。ちなみにこれは『ラーメン』だ。気に入ったならまた誘うぜ」
そう言うと答えを待たずに彼は去って行った。メガネの男はチューシューの深い味わいに心を打たれていたが、ハッと気がつく。
「あいつ、金を払わず行きおったな」
と、その時だった。暖簾をくぐって現れたのはよく知るスーツの女性だ。黒子が特徴的な口元でニコリと笑う。彼女は慣れた手つきで椅子に座ると注文を始めた。
「ニンニクラーメン。醤油は薄目で、麺は少し硬くして下さるかしら?」
「何だと?」
メガネの大天使は彼女のその玄人じみた調子に衝撃を受けた。どうやらラーメンを全く食べたことが無かったのは自分だけらしい。彼女はニコニコと機嫌良さげに水を水差しからついで飲んでいる。
「あなた、演技が上手いのね。彼を騙して罪悪感は無いのかしら?」
笑顔を微塵も崩さず彼女は言った。何もかもお見通しと言う雰囲気だが、それでも自分の利害に関係しないことは関与しないつもりなのだろう。さも他人事のような物言いだ。
「何の事かな?」
メガネの男は苦労しながらナルトを掴むと、口に放り込む。
「あら、とぼけるつもり?あなたがあなたのエンジェルサーフェスを使って『新宿組織』を上手い具合に動かしてる事ぐらい、私にも分かるわよ」
顔色を一つも変えないまま、2人は沈黙した。黙々とメガネの男はその場にそぐわないほど、上品に少しづつネギを口に運ぶ。
「そしてその狙いもね」
「君は」
メガネの男は水を飲んでグラスをそっとカウンターにおいた。
「私の邪魔をするのかね?」
「ご冗談。何も干渉しないわよ。何故かと言えば、出来ないと思っているから。分かる?」
それを聞いても彼は静かなものだ。表情ひとつ変えずに答えた。
「理論上は可能だ。私は『彼』をあの狂ったDシステムの軛から解放する」
はっきりと言うと、最後のスープを飲み干した。トンっと小気味のいい音を立てて器を机におく。彼女はそれを聞いてほんの少し眉を動かす。
「今のは・・・聞かなかった事にしてあげるわ。ルーキフェルに構っている事が知れたら『あの方』もいい顔はしないわよ。せっかくのあなたの完璧な経歴を不意にする代償があるとは思えないわね」
「それは私が決める事だ」
新しく机の上に静かに器が運ばれた。年のいった店主は客の話が聞こえない振りをしながら、広くも無い屋台の裏に引っ込み器を洗い始めた。やはり長年この屋台を引いてきただけの事はあり、気の使い方は心得ているらしい。彼女の器から漂う香りは、またニンニクの濃厚な香りがして、先ほどの醤油ラーメンとは違った魅惑に満ちていた。メガネの男はくいとメガネをあげると、メニューの名前をもう一度思い出し、心に深く刻み込んだ。
「何にせよ、忠告は感謝するよ」
そう言って暖簾をくぐり外に出ようとする。
「待って」
彼女の声が響いた。男は立ち止まり、振り返る。すると暖簾を持ち上げながらこちらを向く彼女のニコニコ顔と、その下には右手が差し出されていた。
「お金、払っていきなさい」
6
「あら珍しいわね。新顔さん?」
公園のベンチにもたれかかり、本を読む加奈子の前には2人の男が立ちはだかっていた。公園は広く見渡す限りの草原で、ベンチが等間隔に続く綺麗に整備された道には路樹が美しい並木を作る。そのベンチの一つに彼女は座っている。はるか遠くには、小さな子供が母親とのどかにボール遊びに興じる姿が見られた。こんな昼間から学校の制服を着てベンチに座る少女も異質だが、その前に立つ男はいずれもスーツを着た大男。明らかにこの場には不似合いな風貌だ。
「あなたち例の『新宿組織』の人たちだよね?困るな〜 顧客リストに無い人の面会には手順を踏んでもらわないと」
加奈子はペースを崩さずにニコリとして言う。しかし顔はうつむき気味だ。おそらく彼女の顧客の中から情報がリークしたのだろう。相手が個人ならともかく、大規模な組織とあっては、彼女とてなかなか分が悪い。男2人は答えずに無言の圧力をもって彼女に接した。加奈子はピリピリと彼らの手の内に殺気がこもって行くのを感じた。彼女はチラリと遠くで遊ぶ親子や、散歩を楽しむ老人達に目をやった。観念したようにため息を吐く。
「はぁ、わかったよ。いーくーよ!その代わり・・・」
彼女はブレイクギアーをさっと取り出す。男たちは警戒して各々のブレイクギアーを手元に出した。加奈子は右手から人差し指をだし、艶やかな唇に当てて男達を制止すると、自分のブレイクギアーを手元で一回光らせた。
「伝書鳩は飛ばすかもね」
途端にブレイクギアーから白い鳩が一羽現れると、羽を散らしながら大空へと舞い上がった。すべては一瞬の出来事だった。
7
俺は大きくため息をつく。目の前では美憂が顔を真っ赤にしながら鰻を食べているところだった。総司はというと、物足りなさそうな侘しい顔をしている。彼が食べたのはうなぎ弁当の半分に過ぎないのだから、当然と言える事だった。メールアドレスを交換しながらも美憂のアドレスを登録しなかった総司も総司だが、実際に彼氏に送るべきメールを誤送信した美憂のミスなのは間違いない。しかし半分以上は照れ隠しであるその怒りに付き合う総司も、相当なお人好しとも言えるのだが。ふと、彼女のブレイクギアーから音楽が流れてきた。黙っていれば良いのに沈黙に耐え兼ねた総司が口を開く。
「なんか、鳴ってますけど」
美憂は照れ隠しになお口調をトゲトゲさせながら答える。
「何かじゃないの。メールの着信音よ!」
どこか間の抜けたやり取りが取り交わされる。
「メールの着信音なら返した方がいいかと思うんだが」
美憂は最後の鰻を飲み込むと、お箸で行儀悪く総司を指した。その口元にはご飯粒がついている。
「返すかどうかは私が決めるのよ!」
言い終わると、コホン、とわざとらしく咳をつく。どうやら照れ隠しでツンツンしているのも恥ずかしくなってきたらしい。ブレイクギアーをさっと操作して、おそらく彼氏からだろうメールの着信音を切った。彼女は意外にもメールを返しもせずにこちらを見る。
「で、私は尾張野くんと『仲間』になったらいいわけ?」
もはや空になったうなぎ弁当の容器をコンビニ袋に収めながら、つっけんどんに美憂は聞く。
「そうだな。この三人は行動範囲が近いから、互いに仲間扱いにしておいて、不干渉にするのが良いと思う」
総司もやっといつもの調子に戻り話し始めた。今日の本題はこの件についてだったのだ。彼は昨日の戦いで彼女とDシステム上の仲間の契約をしたという。俺にとってはそのようなシステムがある事自体が初耳だった。
「私は構わないわ。その方がよく眠れそうだしね」
俺のポケットの中からまたピリピリとアリスが電気を発した。俺はたまらずに取り出す。
I do not good!
(私はよく無いわよ!)
Girl not yet increased
at this stage of the game?
(この期に及んでまだ女の子が増えるわけ?)
それを見て美憂が目を丸くした。
「驚いた、その子自分の意思で電気が出せるの?」
All they have to do more surprised?
(もっと驚いてもいいのよ?)
アリスを放っておいて総司は淡々と説明を開始する。
「そもそも、この選抜戦においての『仲間』の定義は不明確だ。最終的な勝者は1人しか選ばれない事が大天使から明言されているしな。つまり仲間など本来は無意味なシステムだし、何のためにあるのか不明な部分が多いが」
総司はブレイクギアーを取り出した。彼のMAPには二つ点が表示されている。
「お互いの位置を常に知っていると言うのは、自分の命を預けているのと同じだから、ある程度信用は出来るだろう。俺はこのシステムを『部下システム』と呼んでるがね」
美憂がはぁっと小さくため息をついた。
「ま、その仲間集団のボスしか美味しい思いしないならそうなるかもね」
俺は麻谷が言っていた『部下』という言葉を思い出した。彼女も総司と同じ考えを持っていたのだろう。彼女はかなりのベテランのようだったし、ある程度の上級者の中では常識なのかもしれない。
「つまりこのシステムはこの選抜戦においてほとんど機能していない。間違っても、倒せそうな敵を勧誘しようとは思うなよ。位置がばれるんだ。いつでも寝首が掻ける」
俺は頭の中で一瞬騎士の彼女が浮かんだ。もし彼女と仲間になっていたらどうだったろう。彼女は俺を裏切っただろうか。裏切らないとは信じたかったが、最後の2人になればそれはどうかわからない。その場合、騎士の彼女が俺の姉に止めを刺す事にもなるのだ。しかし、そこまで考えてから俺は首を振った。いや、もし姉が死ぬ事に誰かの責任があるとすれば、戦場に鎖をつけて姉の命を引っ張り回している俺自身。そして俺の弱さだろう。他人の所為にする前にまず自分がもっと強くならなければならない。俺は顔をあげると、すでに俺のブレイクギアーにはメッセージが表示されていた。
『天使ヴァンと同盟を結びますか?』
というシンプルな物だった。俺はタッチパネルを操作する。
「ヴァンって言うんだね」
「好きな画家からね。尾張野君の天使はアリスなんだ。えらく可愛いわね」
俺は戸惑った。先日も麻谷に同じ事を聞かれたばかりだったが、確かになんでアリスかと言われると自分でもわからない。だが最初のあの夜にとっさに思いついたその名前に、妙に安心感を覚えたのは事実だ。
「俺とも頼む、政宗」
総司からの申請がアリスに送られてくる。俺はすぐに受諾ボタンを押した。
Regards Julia
(よろしくね!ユーリ!)
アリスが茶化して文字を表示すると、ユーリもふざけて返す。
Welcome all the way from Wonderland,Alice!
(不思議の国からはるばるようこそ、アリス!)
「さてと、とりあえずはチームを組んだが。これは暫定的な物だ。とりあえずはお互い不干渉を目指そうと思う」
美憂はニヤリとした。
「まぁ、私もあなたの部下になるのはゴメンだわ」
「結構だよ。もともと利害は一致しない三人だしな」
総司の発した『利害』と言う単語に俺は一瞬はっとした。ここに一応、チーム伊月が誕生した事になるが、俺は2人に大きな隠し事をしているのだ。こうなった以上、いつか姉さんの話を総司に話さなければいけない日が来るかもしれないと、俺は思った。それは麻谷に対しても同じ事だ。彼女といつまた遭遇し『殺す』と言われるかわからない。そうなった時に土壇場で姉の話をしたところで、きっと命乞いか脅しと思われて、信じてもらうのは困難だろう。逆に考えると姉に彼女のメールアドレスを教えてもらったのは運が良かったかも知れない。学校が終わったら、俺は彼女にメールをしてみようと、俺はやっと決心を固めた。ふとその時、昼休みの終わりが近い事を告げる鐘が校舎になり響いた。
「やれやれ、学校ってものは何でこうも厄介なのかね?」
総司は立ち上がりながら、さっ、とコートのフードをかぶると、日陰のベンチに移動する。どうやら一眠り決め込もうという腹らしい。俺と皐月は手早く荷物をまとめる。そう言えば総司は普段何をして生活をしているのだろう?と、素朴な疑問が頭をよぎったが、俺は皐月に急かされてそそくさと教室に向かううちにすぐに忘れてしまっていた。
8
「で、立川の方の奴と池袋の方はどうでした?みなさん?」
黒い学ランのヒョロリとした男は、バーカウンターに肘をつきながらコーヒーを口にした。前髪が異常に長く顔の表情は深くは読み取れないが、言動と口元の歪みからは自らが権力を行使している事の喜びを隠そうともしていない。この部屋には幹部数名が集まっていた。薄暗いこのバーは、地下にあるとは思えないほど広い。さらには深い茶色の木材で作られたアンティークの家具を充実させており、シャンデリアが薄暗くも暖かい光を投げかけている。バーというよりアンティーク喫茶と言った方がしっかりくる空間だった。学ランの男が視線を投げかけると、彼とは対象的な全身白の法衣を身に纏った長身の男が、淹れたての新しいコーヒーをカップに注ぎながら彼に答える。整えられた白髪のオールバック。四角いメガネは湯気を受けても曇りもしない特別製だ。
「池袋戦線は現状維持が精一杯という所でしょうか。立川戦線は敵方の防衛戦が伸びきっていますから、補給、交代要員の差でそろそろ勝負がつくかと。しかし良いのですかマイスター。ボスの許しもなく戦線を拡大させて・・・」
学ランの男は反論された事に少し苛立ちを見せながらコーヒーを煽る。
「問題は無いでしょう。事後報告は毎回していますしね。全てが終わった後に、毎回ね」
彼は殻になったカップを少々乱暴にカウンターに置くと、ダディの方を見た。彼は口元に苦笑を浮かべている。
「何か言いたいようですね。ダディさん。良いんですよ?言っても?」
「いや、何でも無いさ。ただあんたがこういう事をし始めてから、ボスが積極的に部屋を空けてくれていると思ってね。本当は、ボスにも気がつかれているんじゃないかい?まぁ、俺はどちらでも良いんだ。多分、ボスもな」
ダディはそう言うと、再び部屋の隅に腰をおろす。言われた側はイライラを隠そうともせずに舌打ちをした時だった。ドアの外からコツコツと階段を降りてくる音がする。小さくしかし硬質なこの音は、体重の軽い少女がはいたローファーの靴音だ。音はやがて扉の前でとまると、ガチャリとノブを回した。ギィッと硬い木の扉を押して入ってきたのは彼らのボスだった。赤い髪を揺らしながら彼女は中に歩み入る。
「お疲れ様です、ボス」
白い法衣の男に応えて彼女も短く挨拶をする。彼女もまた、この重厚な部屋には不似合いな紺色の制服姿だ。彼女は二年前に天使選抜戦が始まって以来、天才と呼ばれ続けてきた少女だった。だがこの場にいる者は皆知っていた。彼女はセンスこそ並外れているが決して天才ではない。その力は生まれながらではなく、彼女の努力で勝ち得たものなのだ。だからこそ、彼女がこの集団のトップに立つ事を誰も拒まなかった。彼女はつかつかと暗い部屋の中央まで歩むと、ひときわ豪華な三人掛けのソファにどっしりと腰掛け、ちょこんと小さなスクールバックを隣におく。彼女は一度もそんな事は要求した覚えも無いのだが、そのソファは自然と決まった『彼女専用』の椅子であり、他の者が座る事は断じてない。
「本日はキリマンジャロです」
白い法衣の男は彼女の脇におかれたサイドテーブルにスッとコーヒーを出した。暖かな湯気が立ち上る。
「ありがとう・・・ございます」
彼女は礼を言うも口を付ける様子はない。沈黙を破るようにして、それまで壁際で壁に持たれてうずくまっていたダディが立ち上がり、彼女に近づいてきてこう言った。
「ボス、例の『小鳥』だが、砧公園で捕らえた。これは私の餌にして構わないか?」
ボスと呼ばれた少女は驚いた顔をする。
「本当にやっちゃったんですね。まぁいいわ。好きにしなさい」
「感謝する、ボス」
言うとダディはその部屋から出て行こうとする。ふと彼は歩みを止めて思い出したかのように口を開いた。
「そうだボス、例の小鳥だが、どうやら伝書鳩で救援を読んだらしい。俺としては呼び出しの手間が省けて助かったがな。だが、あなたにとっては『会いたくない奴』も呼び寄せてしまうかもしれない」
その言葉に一瞬、紗矢香の眉はピクリと動いた。マイスターと白の男もその様子に密かに反応する。その彼女の表情が途端に曇って行くのを2人は見逃さなかった。しかし彼女はそれを振り払うと、すぐさま毅然とした態度で顔をあげると口を開いた。
「問題ないですよ。殺すだけだよ」
ダディはニヤリと笑いを浮かべる。
「それを聞いて安心したよ。貴方はどうやらあの少年と『訳あり』のようなんでね」
ダディは再びノブに手をかけると静かにそのドアから出て行った。廊下にコツコツという靴の音が響く。紗矢香は一人、思案しながらその場の重い空気を支える。
「ごめん。ちょっと考え事するから出て行ってくださいな」
突き放すように残った二人の男に言うと、少しだけ彼らは怪訝な顔をした。
「ボス、あなたは・・・」
「承知致しました、ボス」
何か言いかけた学ランの男を、白の男は言葉で遮ると、グイグイと引っ張って直ぐにその場から立ち去る。何か言いたげに抵抗する学ランの男の声が幾つか聞こえ、扉がしまってからも向こう側で口論する声が聞こえたが、やがて遠くへと消えて行った。やがて時計の針の音だけが鳴るその部屋には紗矢香だけが残された。彼女はふぅ、と大きなため息をつくと、広い革張りのソファに靴も脱がずにごろりと横になった。目を細めながら誰にともなくポツリとつぶやく。
「今度こそ、本当に嫌われちゃうかもな」
そして彼女は机の上のコーヒーがどこまでも冷たく冷えていくのを見つめていた。
9
学校が終わると、俺はまたしても部活をサボって夕日の坂道を総司と下っていた。気づけばいつもよりもだいぶ足取りが重い。無理も無い。この一週間は信じられない出来事の連続で、その疲れは想像を絶する物だった。しかし俺達の前には問題が山積みにされている。もうしばらくは安心して眠れない日々が続きそうだ。それは総司もきっと感じているはずだ。俺はチラリと総司を見た。彼はやはり真摯な顔で夕陽を睨んでいる。昨日、深手を負った総司と合流した後の事を思い出した。
10
「まだ痛む?」
彼に肩を貸すと、小さなうめき声が聞こえた。まだ痛みがだいぶあるようだ。俺はといえば、電気を思い切り吸ったおかげで体の痛みはだいぶ和らいでいる。しかしこの能力は本来は彼の物なのだ。恨めしそうに総司が俺を見た。
「アスカは良くやってくれてるようだな」
痛みで意識が朦朧とするせいか、彼はいつも気を使って呼ぶアリスの名を、今ははっきりとアスカと読んだ。俺は気にせず話し続ける。
「アスカさんは・・・」
辞めようかと飲み込みかけて、やはり言わなければと言いなおす。
「総司は、天使選抜戦に勝ったら、アスカさんを蘇らせるの?」
俺は胸が高鳴るのを感じた。この問いは何度も飲み込んできた物だ。もし彼がそれを望むなら、俺は姉さんの、彼は恋人の命をかけて、いつか戦わなければいけない日が来るかもしれない。俺は自分の鼓動を肩越しからに聞かれるのではないかと内心ひやひやした。
「いや、それは出来ないんだ」
彼は悲しそうな顔を浮かべる。思わずドキッとするほど月に映える今にも泣き出しそうな顔。
「彼女は海に落ちてね。死体が上がってないんだ。それに、もう二年が経っているからな」
総司は顔を伏せる。俺は自分の姉の話をしようか迷い、口を噤んだ。もし言えば彼にとっては口惜しい話に違いない。大事な人を失う気持ちは俺にも痛いほど分かった。その夜、俺はそれ以上を語る事はできなかった。
11
俺は再び彼を見る。その真摯な顔に、俺はいつまで秘密を作れるだろう。早く言ってしまいたい衝動にも駆られたが、今の2人の関係が壊れてしまう事が怖くてたまらなかった。そしてもう一つ。俺はポケットの中に手を入れて、冷たい硬質の感触を確かめる。俺のブレイクギアーには一通のメールが送信保留されたまま残っていた。本来なら既に送っているべき、麻谷へのメールだ。大天使との約束や、俺が例外的に『祝福』を授かっている事、そして俺の電子化が解けた際には、姉の命が尽きる事、それらをすべて書いた手紙。彼女にこれを送ればどういう反応をするだろうか。恐らく姉の命と引き換えともなれば、彼女も引き下がるだろう。しかし、それによって彼女は何を諦めるのだろう。それを考えると、今だに送信ボタンが押せずにいるのだ。ボタン一つでこの電子データは驚くべき早さで彼女の元に届くというのに。考えながら坂を下りきったその時だった。白い鳩が総司の元に舞い降りたのだ。鳩は滑らかに空気を制動して止まると、彼の肩にスウーッと着地する。と、途端に白の鳩は姿をみるみる小さく変化させ、白い紋白蝶となった。総司はハッとなりブレイクギアーをチェックする。俺はただならぬ様子に彼に問いかける。
「どうしたんだよ、総司?」
彼の返答は深刻なものだった。
「白の鳩はカーコの救難信号だ。位置をチェックし急行して欲しいと言う、な。見ろ、どうやら事態は最悪だな」
総司は自分のブレイクギアーのMAPを俺に掲げて見せる。その中心には新宿に点滅する一つの点が映し出されていた。
12
新宿のさらにハズレにある目立たない通りにその座標はあった。駅からも少し離れているため、人通りも少ない。ここならある程度は戦いも自由に出来るだろう。俺たちはその建物の地下に続く薄暗い階段を見ていた。店の看板らしいものが出ており『彼岸』と書かれている。客商売をもししようと言うのならこんな辛気臭い名前はあったものではないが、組織の隠れ蓑としてはこれで良かったのだろう。俺は隣で俺と同じように階下を見下ろす総司を見た。確固たる意志に固められたかのような彼の表情に、俺は緊張感を高めた。恐らくここにいるのはダディ。そして麻谷。俺はここにくる前にすべてを書いたメールをなんとか送信したが、この地下に彼女がもし居るとすれば電波が届かないために彼女の元には届いていないだろう。紋白蝶はずっと俺の肩に止まっていたが、ひらひらと扉まで飛ぶと力なくノブに止まった。
「行こう」
と俺は総司を促した。最初に俺もついていくと言った時、総司はやはり1人で行くと言い張ったが、俺も加奈子には助けてもらったお礼もある。むさむざ見殺しには出来ないと、総司に無理を言って結局ついてきたのだ。階段を降りながら総司は俺に作戦の確認をした。
「ダディは俺が引き受ける。お前は絶対に身辺の安全確保をした上で、加奈子を先に救い出してくれ」
「分かった」
俺は短くうなづいた。俺たち2人はドアの前で中の様子を伺ったが、中からは物音は無かった。総司は俺に顔で頷いて合図すると、意を決してドアを開けた。と、その時だった。ドアから白い光が満ち満ちたかと思うと、俺たちは知らぬ間にどこぞと知らぬ白い宮殿の中にいた。
「宮殿(パレス)の能力者か」
驚きを隠せない俺とは対象的に、冷静なままの総司がつぶやいた。さらに彼は説明を続ける。
「この中では基本的にWi-Fiも携帯回線も届かない。ポイントとライフの自然回復は期待出来ないぞ」
俺はあたりを見回す。そこは相当な広さを持った西洋風の建物だった。不思議な事に建物自体が不思議な光を出しているようにも見えて、屋内なのにどこにも深い影が刺していない。広さは体育館ほどもある、八画形のホール状をしている。天井は高くバドミントンすらできそうなくらいで、その上には巨大な天使のステンドグラスが光る。中二階のテラスの柵にはイバラの装飾が施されていた。柱が無数に並ぶ向こうには扉が見える。どうやらこの部屋さえ大きな宮殿のひとつに過ぎないらしい。と、部屋の片隅に1人の男が壁にもたれて立っているのが目に入る。黒いスーツにボサボサの長髪。ただ一度見たきりだが、見間違えようはずもない。それはやはりダディだった。彼は不敵な笑みを浮かべると、右手を左の腰に添え、日本刀を抜き去るように巨大な刀を生成する。
「さて伊月、完全体にはなれたかね?もっとも・・・」
刀を腰溜めに構えながらしゃがみ込んだかと思うと、バネのような強靭な足で一足のもとこちらに跳躍した。奴の踏んだ足跡は青く輝く足跡が残されていた。事前に総司に聞いていた奴の能力を思い出す。これは『侍』の持つ高速跳躍スキル『縮地』だ。恐るべきスピードで俺たちに迫る奴は、俺など眼中にない様子で総司に襲いかかった。総司は俺にアイコンタクトを送る。俺は頷き返すと、柱を挟んで総司とは距離をとり、奥のドアに向かって走り出した。ダディは俺を横目で一瞬見たが、総司の方を睨み返した。やはり奴の狙いは総司との決着にあるという事か。
「二人で来た時点であまり期待はしていないがね!」
総司は左手を素早く振りかぶると、赤く輝く煙のようなものを投げ放った。それは小瓶から散布された砂だ。一つ一つ加速された砂は、超高速のつぶてとなってダディを襲う。ダディは全く勢いを緩めずに屈むと、上空の空気をすくうように刀を一閃した。やや変形ではあるがこれが『居合い』であろう。途端に空気が歪み、砂は空気の渦に絡め取られる。総司によると、居合いはその刀を降られた空間に『何も存在しない』という判定を即座に作り出す。すなわちもし人体に受けた場合は確定の『切断』属性すら持つという。ダディは屈んだ反応を利用して再び縮地を使い凄まじいスピードで総司に肉薄した。よく見ると奴はこの15mあまりの距離をたったの二歩で移動している。何という機動力だ。奴はみるみると総司との距離を詰めた。俺はその攻防を横目で見ながらも扉を目指して走り続ける。その手には檻を作って紋白蝶を囲っている。今すぐにでも俺はダディの後ろに回り込んで電撃を見舞いたい衝動に駆られたが、それでは体を張ってくれた総司を裏切る事になる。俺は自分に言い聞かせながら、一心不乱に扉を目指す。ノブに手をかけた瞬間ダディはまた俺の方を見たが、その瞬間に総司のナイフが投げられたのを目の端で捉え、それを受け止めるためにすぐに向き直る。恐るべき反応の早さだ。ダディは軽々と刀でナイフを払うと、そのまま一足飛びに縦の打ち下ろしを狙って踏み込んだ。総司はあまりの早い振り下ろしに回避が間に合わないと判断し、溜めが不十分ながらも即座に砂の投射で迎え撃つ。不本意にも貴重な切り札である砂を早くも二瓶も使ってしまった事に苦々しい表情をにじませながら総司は叫ぶ。
「行け!政宗!振り返るんじゃないぞ!」
俺は扉までたどり着くと、彼の声を背中に聞きながら重いドアを開けた。後方ではダディの刀と総司が手に取るナイフが激しく火花を散らす音が聞こえていた。
13
紋白蝶に導かれて歩く宮殿は思ったよりも広く、どこまでも続いていた。俺の胸には後方で戦っているはずの総司との距離が開く毎に言いようのない不安が広がって行った。唯一ありがたいのはこの宮殿が基本的に一本道であるため、迷子になる可能性は無い事だった。カーコを見つけ出したらすぐさまこの道を走って引き返し、総司に加勢に行ける。俺は焦る気持ちを抑えられずに、早歩きで蝶を急かしながら進んだ。やがて、紋白蝶は小さなドアのノブに音もなく止まる。真珠のような輝きの滑らかな石で出来た、透き通るような白の美しい扉だった。その扉に金のノブに、紋白蝶は止まって羽をゆっくりと動かしている。俺は静かにドアを見つめた。この向こうにおそらくカーコがいる。もしかしたら大勢の敵もともに・・・。俺はそのノブに手をかけて思わず唾を飲み込んだ。そしてほんの少しだけ躊躇する。しかしその時俺のポケットの中でアリスが僅かに光った。
It is okay
(大丈夫よ)
I'll luck to you
(私がついてるわ)
俺はアリスを見て少し笑った。そして励まされるようにしてドアを開ける。そのドアは見た目の通り重く、中の陰鬱とした空気を押しつぶすように静かに開いた。
14
そこは広い部屋になっていた。やはり白い壁面だったが豪奢な赤い絨毯が奥の方には敷き詰められており、最初の部屋ほどの硬質感は感じられなかった。壁は金で縁取りされた赤い旗が掛けられている。どうやらこの部屋は他の部屋と違って装飾に特に力が注がれているようだ。柱の一本一本には樹々の彫刻が彫られ、白一色の森のような美しさがホールを包んでいる。さらに床は磨き上げられた大理石が輝きを放っていて、赤い絨毯が引かれた奥のあたりにはパイプオルガンが黄金の輝きさえ放っていた。紋白蝶はひらひらと舞い、その麓にいる人物の頭に止まる。俺は目を細めた。そこには屈強そうな男が約20人と、そしてカーコが縄に手を縛られて繋げられていた。項垂れた彼女の栗色の髪は乱れ、乱雑に垂れ下がっている。カーコは俺に気がついたのか、毛虫のようにニョキニョキと体をよじらせた。
「やっほ〜 政宗君。おっひさ〜」
相変わらずの軽い口調で手を降ろうとして、縄でつながれている事を思い出しブー垂れる。俺はその様子を見て少しだけ安心した。思ったよりだいぶ元気そうだ。と、並んでいた男たちの中から、リーダー格と思われる男が歩み寄ってくる。黒髪を左右できっちりと分けた男だ。異様に長い前髪が、ある種の陰湿さを漂わせている。
「ようこそ、尾張野君。君の事はボスから聞いてるよ?私の事は、そうだな。メイスターとでも読んでもらおうか。ダディと同じようにね」
前髪をくりくりと指で弄びながら、革靴で大理石の床をコツコツと叩く音が部屋に響き渡る。
「君、なんでも以外とやるらしいねぇ?でもどうだろう。コンセント一つ無いこの僕の空間で、どこまで戦えるかな?」
俺は耳がピクリと動いた。目の前の大仰な男の言葉を反芻する。奴は今『僕の空間』とそう言ったのだ。つまり奴はこのパレスを作り出した能力者だと言う事になる。こいつを倒せばここから脱出できる可能性は高い。俺はブレイクギアーをつかみ出すと、奴に向けてゆっくりと歩き始めた。
「アリス・・・行くぞ!」
俺は電圧をなるべく高めないように注意しながら、両手の掌で放電準備を始めた。何しろ、携帯回線が通じない以上は俺の電撃は回復しないと言う事だ。なるべくポイントを節約して戦わなければいけない。この先もしかしたら麻谷に襲われる事も十分あり得る。いや、彼女との対決はほぼ確実に避けられない事態だと考えた方がいい。電力は少しでさえ無駄には出来ない。俺は状況を分析し、この敵は出来るだけ電力を節約して倒すように電気の生成量を抑える事にした。この男はこの大きな宮殿を生成しているからには相当な量の力をこれに費やしているはずだ。さらに言うなら、宮殿(パレス)そのもの自体が戦闘に不向きな能力のようにも思われた。俺は両手の電圧の準備が出来たのを感じ取ると、一気に正面突破を狙って走り出した。奴の首にさえ触れば、そこに高圧電流を叩き込んでお終いだ。俺は大地を蹴ってみるみる奴との距離を縮めていく。しかしマイスターはポケットに手を突っ込んだまま、動く様子を見せなかった。おかしい、とは感じながらも、今さら前進を止められない。あと一息で奴にたどり着く、というその時だ。突如目の前の床が隆起し巨大な壁を形作った。
俺は走る足を方向転換させて回り込む。しかしまたしても眼前に壁が生成される。幾重にも折り重なった壁の隙間から、奴の下卑た笑みが見えた。
「君、思ったでしょう?宮殿を生成する事しか出来ない私の能力は弱いとね。ところがとんでもない!」
俺は奴の言葉にも耳を貸さず、奴の生成速度より早く回り込むために走り続けた。
「無駄無駄!」
次々と床が隆起して壁が出来上がる。それはまるで職人が削り出し、磨き上げたかのような完璧な平面で、余りの反射率に自分の顔がうっすらと映るほどの壁だ。俺が勢い余って壁にぶつかると、マイスターは笑いながら大仰に手振りでこの建物全体を示した。
「この建物はまさに私の胃袋の中。空間自体を私が支配していると行っても過言では無いのですよ。ねぇ?ガウディ?」
奴に呼ばれた天使が答えるかのようにピピっと鳴ると、途端に俺の周囲の床が次々隆起し、針のむしろがその姿を表した。俺は後方に飛び退き、その針を回避する。すると今度はそこが開いて針の山が現れるところだった。たまらずに横に飛び退く。その後はもはや、安全地帯を探して走り回るしかなかった。奴は下品な笑いを浮かべながら、実験動物を見るような目で俺を見ていた。ボール紙で作ったケースの中にダンゴムシをいれて、迷路をさせて楽しむ子供のような、ある種残酷な目。その中で転がる一匹の虫に成り果てた俺は必死で走り、転げ回りながらもカーコの方をチラリと見た。今回の目的は彼女の救出だ。最悪彼女さえ助かれば逃げ出す事も選択肢のうちではある。見たところ彼女はまだ無事であったが、あの場には所持者が20人以上いるのだ。彼女がいつまでも無事でいる保証は無いように思われた。ふと、俺の視線に気がついたメイスターが叫ぶ。
「どうした少年!女が気になって戦いに集中出来ないか?ならこれでどうだ!」
マイスターは左手をさっとかざすと、カーコの床がせり上がり、大理石で形作られた悪趣味な断首台が姿を表した。さらにその上には高くそびえ立つギロチンが白い刃を輝かせている。
「お前達、その女をそこに乗せろ!」
マイスターは壇上の男たちに命令する。咄嗟に俺は叫んだ。
「何をする!」
断首台に向かって走ろうとするが、またしても高い壁が現れてそれを阻んだ。もはや俺は迷路創造主の気まぐれに脅かされるマウスに等しい。
「俺じゃ無理なのか?」
俺は壁を叩いた。悔しくて手から電気が溢れてきそうになる。壁の向こうでは加奈子が抵抗する声と悲鳴が聞こえる。俺には何も出来ないのか。
「ほらほら、どうしたんですか?早く私を倒してご覧なさいよ。そうすれば少なくともあの断首台は消す事が出来ますよ?」
俺は衝動的に奴に向かって走り出す。またもや壁が出現して俺はぶつかった。何も出来ない、手が出ない事に悔し涙が溢れてくる。
「ちくしょう、ちくしょう!」
壁を叩いても何も起こらない。後ろを見ると、ご丁寧にも俺に見えやすいように一段高くした床の上に、断首台に繋がれたカーコの姿が見えた。わずかにまだもがいているが、台を揺らして刃が落ちる事を恐れてか彼女は大人しく繋がれている。それを見たマイスターは高らかに笑った。
「あはははは。惨めですよねぇ!あんな可愛い女の子なのに、無様に膝をついて!貴方の所為ですよ」
高笑いが白いホール一面に響き渡った。俺はその瞬間、自分の中の理性が外れるのを感じた。脳裏に浮かぶのは救えなかった騎士の彼女だ。そして、ほぼ同時にポケットの中でアリスが俺を呼ぶ。
What are you having trouble?
(貴方、何手間取ってるのよ?)
Please just go straight!
(ただ真っ直ぐ進みなさい!)
「そうだな、アリスッッ!!」
俺は急激に手の電圧を高めた。ばちばちと音を立てながら青白い光球が手の中で収束されていく。俺はまず奴との間の目前にそびえる大理石の塊に静かに手を当て思い切りの力を込めると、それを粉砕した。大きな音を立てて、あたりに石片と砂煙が弾け飛ぶ。マイスターは驚愕の表情を浮かべていた。
「な、な、な、何をしてるんですか君は!属性系のスキルで石を粉砕しようなんてね、こ、効率が悪すぎるんですよ!そんなんじゃすぐに力尽きて、うちのボスとは戦えなくなりますよ!」
俺はもはや聞く耳をもたない。奴に向かって走り出す。途端にまた別の壁が出現するが、俺は意にも介さず拳を振るうと最大出力の電撃でたちまちそれを粉砕した。
「き、君はバカか?!あの女はて、天才なんだぞ!No.2のこの僕でさえ足元にも及ばなかった、ほ、本当の化け物だ!そんなの相手にポイントゼロのお前が行ってなんになる!よく考えろ!」
俺は奴が器用にも早口でまくし立てる間に、なおも奴に向かって疾走を続ける。すでに視界には奴しか見えてはいない。新しく出現した壁を再度光の奔流で吹き飛ばす。全力をぶつけると、その石壁は気持ちの良いくらいに粉々に砕け散った。もはや奴に肉薄したところで、俺はぎろりと奴を睨む。すでに手の届く距離まで来ていた。
「わかった!わかった!もうやめてくれ!やめないか!頼む!辞めないとあいつを殺すぞ!今殺すぞ!さあさあさあさあ!ふがっ!」
奴の口を塞ぐとほぼ同時に、奴が生成した杭がいくつも地面から突き出した。俺は貫かれ、全身を鈍い痛みが襲う。それでも俺は奴の顔を掴んだ右手を離さない。杭はそのまま天高く伸び、俺は体が宙に浮いたが、そんな事は関係ない。歪む奴の顔を握り締めると、俺は遠ざかる意識の中で最後の一撃を放つために残りの全電圧を右手にかき集めていた。俺という電池が空になるぐらいの電圧の絞り方だった。身体から大量のライフが溢れ出すのが分る。天使との結合が薄れていく感覚さえある。それでも何とかこの男だけは倒すと、俺は力を振り絞った。
「ふがっ!」
奴が俺の手の中で何かを言いかけた時、俺の電撃が奴の体を駆け巡る。奴の全身がまばゆいばかりに青く輝く。しかしその瞬間に、俺はザシュっという小気味の悪い音を後方で聞いた気がした。俺はその惨状を確かめる力もなく、その場で意識を失った。
15
夢を見ていた。夢の中で私は蓮に髪を切ってもらっていた。日光の指す綺麗なアトリエで彼女と二人きり。心地よいハサミの音が響く。最近の専門学校での話とか、私は大学の話をしてお互いに笑い合う。気がつくとどうやら彼女はかなり大胆に私の髪を切っているようで、私は戸惑った。ちょっと切りすぎじゃない?なんて言うと、彼女は笑って、紗矢香も大人なんだからイメージ変えなきゃね、っとわざわざ私の目の前に回っていたずらっぽい顔でウィンクした。すべてが終わって鏡を見せてくれると、私の赤毛は可愛らしいショートボブになっている。私は慣れない髪型に照れてしまった。何だか本当に、大人の女性みたいだと思った。似合わないよね?って言うと蓮は似合ってるよ、と暖かく笑う。大学生なんだし、紗矢香だって明るく元気にならなきゃね。もう私だってついててあげられないんだし。と。その時ドアに掛けられた鈴を鳴らしながら、1人の少年が入ってきた。手にはドーナツの袋がたくさん抱えられている。彼は姉に対して、こんなに買わせるなんて非常識だなんて文句を言っている。蓮は飄飄としたもので腰に手を当てながら、折角久しぶりに三人で会うんだからご馳走が必要でしょう?なんて。その時彼はやっと私の髪に気がついたようで、正面から覗き込む。息がかかるくらい近い。私は彼の唇を見つめてしまい、顔を真っ赤にした。むしろそんなに近くから見たら髪型なんてよく見えないでしょ?と言うと彼は笑った。そして、似合ってるよ、と一言頭を撫でてくれる。最後に一言、ロングヘアーも素敵だったけどな。と付け加えて。
16
突然ピピっとヘッドホンのスピーカーが鳴り、私をその夢から連れ戻した。ハッと開くと誰もいない部屋が目に映る。どうやらプレイリストの終わりを告げる音だったらしい。ソファで寝込んでしまったらしい私は頭をもたげたが、今度は軽い頭痛が襲ってくる。押し寄せる現実感に私は軽い絶望を覚えた。終わったのだ、何もかも。私はもう一曲だけどうしても聞きたい曲があり、ブレイクギアーを操作すると、その古い曲を探す。古い記憶と言うものはいつも奥に埋れており、そう簡単には引き出せない。人間も機械も同じなのだ。私は何とかその曲を見つけ出す。ふと思う、機械は消去した曲は二度と思い出す事はないけれど、人間は一度刻まれた思い出は完全に忘れる事はなかなか出来ない。思い出の方が余計にタチは悪いかもしれない。私はその曲をどうしても一回だけ聞いてから戦場に赴きたいと願い、最後の再生ボタンを押した。ロマンチックな歌詞が流れてくる。決して人気があったわけじゃなかったけど、私の心を捕らえて離さなかった曲。私はソファに深く座り直し、目をつむってその曲を噛み締めた。と、ある歌詞の一部が心に引っかかる。「キスを想像して〜」と言う歌詞だ。私は脳裏に昨日の彼の姿が浮かんだ。私から1人の少女を守ろうとして、口付けを交わした彼。その姿は美しく、しかし力強さに溢れていた。そんな前向きな強さを圧倒的な力でねじ伏せた私は本当に虚しい女だ、と自虐する。私は何時の間にか自分の唇を撫でていた事に気がついてしまった。別にキスを想像してたわけじゃない。私はただ絶望していただけ。と、その時ついにその曲は終わり、沈黙がもたらされた。そこにあるのは私を決戦の場へと導く無言の意思。私は立てかけてあった木刀を手に立ち上がる。行かなきゃ。終わらせなきゃ、そうすればやっと私も諦めがつくはずなのだ。私はきっとアリスにはなれないと言う事に。私は戦場へのドアを1人で開く。
17
「まさかこんな戦い方があるとはな。やはり俺の目に狂いは無かった」
ダディはニヤリと狂喜の表情を浮かべた、それは自分の釣り上げた魚が大物だった時と同じ笑み。そして今からの時間はさしずめ、その魚を調理して酒の肴にでもしようという所か。俺は腹の傷を抑えた。確かに多少は痛みを伴うが、奴の刀技は正真正銘の決闘用。居合こそ『出血』物理属性を持つものの、その他の攻撃の衝突判定は『出血』も『切断』も伴わないもので、戦闘力が落ちないという点で俺は多少救われていた。奴の持つある種スポーツマン気質とすら言える性格が、この『侍』能力を呼びこんだとした思えない。政宗に聞く限り、麻谷というここのボスもどうやら刀使いのようだったが、彼女は刀を生成出来ないなどの特徴から、どちらかと言うと俺の投射のような『物理系』の可能性が高い。
「こいつはとって起きなんだ。誰にも喋るんじゃねぇぞ」
俺は痛みを我慢しながら、両手にナイフをもって奴に向かって走る。奴もそれに応じて刀を構えながらにじり寄る。お互いに間合いの読み合いをするが、やはり先行攻撃を放ってきたのは強烈な踏み込みを持つ奴だった。やはり縮地の存在が大きいが、それ以上にチラつかせるだけでも牽制になる居合いが間合いの制御に絶大な力を発揮していた。奴は目にも留まらぬ早さで突きを繰り出したが、かろうじて俺のナイフが受け止める。ここで俺は再び勝負をかけた。ナイフは赤く光り無敵判定を持っていたが、俺が手を離すとその場にほとんど空中静止し奴の剣を弾きながらもごくゆっくりと前進を続ける。俺は左手のナイフを奴に向かって突き出した。正確にはこれは突きでは無い。ほぼ手元から離さない投射だ。よく見るとほんのわずか、俺の手からナイフは放たれ、赤い尾を引いている。奴は恐るべきスピードで突きを放っていた刀を手元に引き戻し、その柄で俺の右手のナイフの突きを弾く。俺は空中に静止、いや『極めて低速で投射』していたナイフをそのままに、左手に仕込んでいた小型のナイフをそのまま最短距離で奴の右太腿に突き立てた。右手の突きを防ぐためにわずかにあいた奴の刀の隙間を通したのだ。今度は深々と突き刺さる。この戦い始まって以来のクリーンヒットだ。俺は奴の刀を蹴ると、そのまま後ろに飛んで距離をとった。わずか時間にして数秒の攻防。これこそが俺が奴との戦いのために編み出した究極の近距離投射術だった。俺は新たに腰から大型ナイフを二つ引き出し、目前に構えた。
「名付けて、イージスシュート、及びゼロレンジシュート」
ダディは太腿に刺さったナイフを抜き取ると、遠くに放り投げた。動きが先ほどより少しだけ鈍い。どうやら効いてはいるようだ。
「なるほどね。先ほどと合わせて二回の衝突でやっとわかったよ。つまり君は極めてゆっくりと短距離を投げる・・・と言うより、ほぼその場で静止させて無敵判定を発生させる投射と、投射の開始時間と終了時間を完全に把握して、零距離で投射する、言わば「擬似突き」を会得しているわけだ」
奴のあまりに完璧な理解に俺は身震いした。正に奴の言った通りだった。俺は苦悩の末、やつと戦う場合にはもはや遠距離の間合いを制御する事は不可能であると判断したのだ。奴にはあの強力な踏み込みがあり、間合いの調整は困難を極める。あれに勝つには逆に近接レンジでの打ち合いの選択肢を増やすしか方法が無いだろうというのが俺の結論だった。そして実戦してそれは概ね正しいことが証明された。俺は再度の衝突に耐えるため、ナイフを握り直す。と、沈黙を破りダディが口を開いた。
「よかろう。伊月、正直お前が2ndのみでここまで戦えるとは予想外だった。敬意を評して、俺も俺の2ndを使わせてもらう事にしよう」
やはりか、と俺は唇を噛んだ。奴はその挙動から『侍』の能力だけで戦っていたのは明白であった。それはやはり大抵の相手がそれだけで勝ててしまう事を意味している。という事は彼が2ndと併用した場合の強さは、全く予想のつかないものだと言う事だ。俺は奴のありとあらゆる残虐で凶悪な2ndを想像し恐怖した。いや、と俺は自分を奮い立たせる。恐怖するのはもう辞めたんだ。アスカはいない。アスカはいないけど、俺は一人で何とかするんだ。俺はナイフを再び強く握りしめる。
「アイ、ソラを呼んでくれるか?」
ダディは口を開く。
He says I want to lazy
(彼、少しゴネるかも)
「なら餌の時間だと言ってやれ」
Yesss
(はーい)
と、途端にダディはとんっとんっとその場でジャンプを始めた。いったい何の能力だというのか。俺はナイフを構えて奴の動きに目を凝らす。イージスシュートは奴の一瞬先の動きから、正確にその刃の侵入経路を読まなければ成功しない、正に綱渡りだ。イージス----完璧な盾だなんてハッタリも良い所だな。と自嘲しながらも、俺は奴の動きを、筋肉の一収縮まで見極めるべく目を凝らす。呼吸すら奴に合わせる。と、その時だ。タ、タ、タンッと奴の足音が規則的な動きを踏むと目の前から消滅した。いや、それは違う。俺は辺りをキョロキョロと見回してしまう。戦闘中に相手の動きを見失うとはなんたる事だ。俺は焦りを覚えながら後方までも見たがそこにもいない。
「こんなもので見失うとは。いささか拍子抜けだな」
耳元で囁かれ、俺はびくんと体を震わせる。いったい何時の間に?奴は俺の上方から余裕で宙返りを披露し、俺の後方に降り立った。俺は全く奴の動きが見えずに狼狽する。
「おいおい、その程度でお終いか?こんなものは挨拶がわりだが」
奴が言うのとほぼ同時に、俺は左の肩に激しい痛みを感じた。見ると何時の間にか赤い紋章光が滴り落ちている。先程すれ違うほんの一瞬に、深々と居合いが俺の肩に入っていたのだ。ダディはにやりと笑う。
「頼むから、せいぜい楽しませてくれる事を祈るぜ」
再びあの不思議な足さばきを始めた。
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