③
下校時刻になり、リュカの具合は大丈夫かしらと考えながらいそいそと
(今日出された妖精学の課題……、どうしよう)
ロザリアは勉強が得意ではない。残念すぎるくらい、頭が良くない。
そのため、ゲーム内でも課題は常にリュカにやらせており、成績に関しては公爵家の権力を使ってどうにかさせて、なんとか
そして、前世の自分も決して勉強が出来る部類の人間ではなかった。かと言って、体調が悪くて休んでいるリュカに、この課題をお願いするわけにもいかない。
(というか、そもそもリュカに押しつける考えが駄目じゃないの!)
つい目を逸らしてきてしまっていた自分を恥じ、反省する。
(こんなことではいかんぞ私! リュカに負担をかけないようにするって決めたんじゃない、これくらいは自分でやらなきゃ!)
そう決意し、図書室へ向かって歩き出す。
(妖精学だし、なんとかなる気がするわ)
この世界や妖精のことに関しては、《おといず》公式設定資料集で穴が開くほど読み
(情報収集に向けたオタクの熱い情熱と
いくつか役立ちそうな本を借り、さあやるぞ、と気合を入れて教科書を開く。
その時、
「おや、珍しいお客さんだ」
(げっ、イヴァン!)
面倒なのに見つかった、という気持ちを前面に出さないように、
「……ウォーリア先生。どうしてここに?」
「僕は資料を探しに来ただけだよ。君は? 従者君がいないようだけど、一人なのかい?」
「リュカは体調が悪そうだったので、早退させました」
「……早退させた? 君が、彼を?」
「なんです、その顔は」
イヴァンが信じられないとでも言いたそうな顔をしたので、ムッとして返す。
「……いや、驚くだろう、そりゃ。君が従者君の身を案じた発言なんてするもんだから」
「い、いいでしょう!? 私だって大事な従者の心配くらいします!」
「大事な……。へぇ」
イヴァンは含みのある笑みを浮かべ、あろうことかロザリアの目の前に座った。
「……どうして前に座るんですか」
「好奇心をくすぐられるものを見つけたから」
大人の余裕を見せる微笑みに、嫌な予感がしてくる。イヴァンという男は、女性が大好きなのと同じくらい、人を
「それ全部、妖精学の本だろう? まさかとは思うけど自主勉強かい?」
(くっ……、ロザリアが勉強している姿を面白がってやがるわね……!)
ニヤニヤしているので間違いない。そりゃあ、揶揄いたくもなる光景だろうけども。
「どういう風の吹き回しなのかな? 君は昔から勉強嫌いだし、面倒な課題はいつも従者君に押しつけていただろう。成績も裏で圧力をかけてなんとでも出来るし」
ロザリアの所業を全部わかっているのだ、この男は。わかっていてあえて口にしている。
「……そういうことをしないために、今ここにいるんです」
「なるほど、本当に変わったようだね」
立ち上がったイヴァンが、覗き込むように顔を近づけてきた。咄嗟に身体を後ろに引く。
「妖精たちに急に好かれ始めたから、何があったのかと思っていたんだが。こういうことか」
「何が言いたいんですかっ」
「いや、興味深いなぁと思って。あのロザリアが、こんなふうになるなんてね」
親しげに名を呼んだイヴァンは、実はロザリアの
「君は昔から、自分の思い通りにいかないことが許せなくて、妖精も勉強も嫌いだったろう。なのに今では妖精と親しくしていて、自ら勉強もしようとしている。驚きだよ」
「まあ、その……昔はご
ゴニョゴニョと謝ると、イヴァンはクスリと笑った。
「君が他人に謝るなんて、
「ちょっと、失礼すぎますわよ、先生」
「嫌だなぁ、そんな
カチンときたので、わざとつっけんどんに返してやる。
「これが今の私なのよ。放っておいてちょうだい、イヴァン」
プイ、と顔を背けたが、イヴァンは余計に面白くなったらしく、笑みを深めた。
「まあ心境の変化は良いことだよね。婚約者殿との仲も、良好になってきたようだし」
「……は?」
話の流れが見えなくて、気の抜けた声が出てしまう。
「だって君たち、以前に比べてギスギスした雰囲気がないじゃないか。校舎内で話をしている姿なんて今まで見なかったのに、近頃は仲良くしているんだなぁと思って」
確かに最近のオスカーは、すれ違った時に軽く声をかけてくるようになった。だが別に親しくしているわけでもなく、挨拶をする程度なので、特に気にしていなかったのだが。
(まさか周りからは、私たちの仲が良いように見えてるの……!?)
大問題だ。そんなつもりは毛頭ないのに。
「な、仲良くってほどでは、全然ないと思うのだけれど」
「そうかなぁ。これまでの君たちと比べたら、
(そんなふうに見られてたことにも、気付かなかった自分にもショックなんですけど……!)
「どうしてそこで落ち込むのかな」
「……あなたには関係のないことよ」
「ま、
また面白がるような
「揶揄って遊ぶつもりなら、出て行ってちょうだいっ」
「揶揄うなんてとんでもない。君の心の成長を
言いながら、イヴァンはまた顔を近づけてきた。
「ちょっと、なんなの」
「その成長をお祝いする意味も
「なっ……」
(何言ってんの!? 特別講義ってそれ、あなたがサラに言う
聞き覚えのある台詞に、
(これってもしや、イヴァンとの図書室イベント──!?)
授業に追いつこうと図書室通いを始めたサラに、まさに今の状態でイヴァンが
(と、とりあえず全力で回避──っ!!)
「け、結構よ。自分の力でどうにかするので、放っておいてちょうだい」
「元々
「あなた本当に失礼ね! いいって言っているでしょう、
「そうやって怒るところは変わらないなあ」
不敵に笑い、ロザリアの髪に手を伸ばす。ゾクリと背筋が震えた。
(この……っ、女たらし────っっ!!)
「……何をしているんですか、先生」
「リュ、リュカ!?」
自分の腕を摑んでいる従者の姿に、
「先生、いち生徒との距離が近すぎるのではありませんか」
睨みつけるリュカを見て、イヴァンが降参するように両手を挙げた。
「残念、ナイトのお出ましか。
(冗談にしては
「そんなに睨まなくても、僕はもう退散するよ。じゃあね、ロザリア。また授業で」
そう言ってイヴァンは去っていった。
腕を摑んだままのリュカの手に力が込められた気がして、そっと顔を見上げる。
目が合うと、リュカは慌てたように手を離した。
「っ、すみません」
「いえ、いいのよ。そんなことより……ありがとう、リュカ」
とんでもない、とリュカは首を振る。
「申し訳ありませんでした。私がお傍を離れていたばかりに」
その言葉に、そういえばリュカは早退していたはずでは、と思い出す。
「そ、そうよあなた帰ってたんじゃ!? どうしてここにいるのよ! 体調は!?」
「屋敷に戻ってすぐ、使用人一同に協力を
(いやいやそんなわけないでしょ!? そんな
しかしリュカの顔色は、確かに良くなっていた。笑顔もいつも通りの輝きで、具合が悪そうには見えない。
「そんなことよりも、貴女を一人で残してしまったことの方が気がかりで。なのに、いつもの帰宅時間になってもお帰りにならなかったので、もう心配で心配で……。待っていられず学園に戻ることにしたのですが、まさかこんなことになっていようとは」
「今日出された課題をやっていこうと思ったのよ。だから遅くなってしまって」
「課題? お一人でですか?」
「だって、課題もいつもあなたに
尻すぼみになってしまうロザリアに、リュカが不服そうな顔をする。
「ロザリア様、以前も申し上げましたが、私の存在は貴女のためにあるのです。遠慮せずに私のことを使ってくださいませ」
「使うだなんて言い方をしないで。あなたは道具じゃないのよ」
リュカが大きく瞬きをした。以前のロザリアはリュカを道具のように扱っていたから、こんなことを言われ慣れていないのだろう。でも、慣れてもらわなくてはいけない。
(私は、リュカの〝人〟としての尊厳も守りたいのよ)
「……そう仰ってくださるのは嬉しいのですが、やはり私のいない場所でなんて危険すぎます」
「危険ってそんな、大袈裟な」
「私が来るのがもう少し遅かったら、ウォーリア先生と二人きりだったということですよ」
強めの口調に、言葉が返せなくなる。
「万が一にも何かあったら、私は後悔してもし切れません」
「そ、そうよね。独身男性と密室で二人きりなんて、あらぬ疑いをかけられてしまうかもしれないものね。一応王太子の婚約者である身なのに──……」
しかし、王太子と口にした
「……そういうことではないのですが。──ロザリア様?」
(うう、仲が良くなったと思われてたなんて。今後の身の振り方を考え直さなくちゃ……)
深刻な表情で考え始めてしまったロザリアを、リュカが心配そうに覗き込む。
「ロザリア様、どうされました? まさか他にも、先生に何かされたのですか?」
「えっ? あ、違うのよ。……なんでもないわ、気にしないで」
笑顔を作ってみせたけれど、リュカの眉尻は下がったままだ。
そして少し考える
「ロザリア様、今夜、貴女の時間を
「今夜? いいけれど……、どうしたの?」
「帰ってからのお楽しみです」
*****
──そして、夜。
「……これは一体……」
ロザリアの私室のテーブルにずらりと並べられた、甘いお菓子の数々。ケーキにタルト、プリンにエクレア。ロザリアの好きな甘いお菓子が山盛りだ。こんな遅い時間に、恐ろしい飯テロである。
「こんなにたくさん、どうしたの?」
ゴクリと唾を吞んでリュカを見ると、彼は
「どうぞ、お好きなだけ
「いいのっ?」
目を輝かせたロザリアに、リュカはニッコリと笑って頷く。
(いつもなら、こんな遅い時間に甘いものを食べるのは良くないと窘められるのに……!)
毎日、朝とお茶の時間にリュカ手製のお菓子をたくさん食べているし、美容に気を
ホクホクし出したロザリアに、リュカが切り分けたケーキを差し出す。生クリームがたっぷりのった、フワフワのシフォンケーキだ。リュカ手製のお菓子の中でも、ロザリアが一番に好んでいるものである。
「いただきます」
一口含むと、幸せの味が口内に広がった。
「
ほっぺたが落ちるとはこのことだろう。
次は何をいただこうかな、と改めてお菓子の山に目を向ける。
(よく見たら、私が特に好きなものばかり用意してくれてる!)
「すごいわ、大サービスね」
嬉しさのあまり
「これを食べて、少しでもお気持ちを晴らすことが出来ればと思いまして」
「え?」
そこでロザリアはようやく気付いた。
(もしかして、イヴァンの件で私が落ち込んでたことを察して、このお菓子を……?)
あの時誤魔化しはしたものの、長年一緒にいるリュカにはバレバレだったのだろう。それで、少しでも元気づけようとこの場を設けてくれたのだろうか。
その優しさと、些細な変化も
「……あなたにはなんでもお見通しなのね」
ポツリと零した言葉に、リュカがタルトを切り分ける手を止めた。
「当然です。私はロザリア様のことを、いつも一番に考えていますから」
迷いもなく返され、苦笑してしまう。
「そしてとにかく私に甘いわ」
「……貴女のことを、誰よりも何よりも大切に想っていますから」
思いがけず真剣な顔で言われ、ケーキを
慌ててリュカが差し出してくれた紅茶を飲み、流し込む。
「──あ、ありがとう」
なんとか自分を落ち着かせてタルトの皿を受け取る。
(ビ、ビックリした……急に真面目な顔をするんだもの……)
従者としての言葉だとわかっていても、不覚にもドキッとしてしまった。優しい笑顔でめいっぱい甘やかされた直後だから、その表情のギャップに余計驚いたのかもしれない。
その時、部屋の扉がノックされ、リュカの声に応じてメイドが入ってきた。
彼女が運んできたものを目にしたロザリアは、目を丸くした。
「……教科書?」
「はい。例の課題を、一緒にやらせていただこうかと」
「ええっ」
爽やかな笑顔と共に、お菓子の向こうに教科書が積まれていく。
「ロザリア様の主張を聞いてよく考えた結果、こうするのが一番なのではと思いまして」
「いえ、
「貴女は私に負担をかけたくないと仰いましたが、貴女がお一人で図書室へ行くことの方が、私にとっては重大な精神的負担になるのです」
キッパリと言われ、言い返せなかった。そして、自分を一番に気にかけてくれているリュカに、これ以上心配事を増やすことも躊躇われた。
「……わかったわ。じゃあ……お願いするわね」
渋々頷くと、リュカは満足そうに微笑んだ。
*****
夜も
「……まったく、人の気も知らないで」
起こさないように、声を落として独りごちる。月明かりに照らされた
その優しい手つきとは裏腹に、声音はとてつもなく低い。
「貴女という人は、どこまでも無防備なんですから」
やはり
他者への態度が、今までの近寄り
「貴女の傍にいて、貴女の良さを知っているのは、私だけだったはずなのに」
つい恨みがましい口調になってしまう。ロザリアが自ら望んで変わっていこうとしているのだと、頭ではわかっているのに。ああも無防備に他の男と接している姿を見てしまうと、どうしても不安になってしまうのだ。
この関係性が、
「……
頰から耳、そして
「お許しください。こんな私が、貴女のお傍にいることを。お傍にいたいと──願ってしまうことを」
ちゅ、と髪の先に口づけた従者の姿は、夜空に浮かんだ月だけが見守っていた。
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