第六章 舞台

01.永遠の歌姫

「フィー、そろそろ本番だよ」

 スタッフに声をかけられ、フィオンは頷いた。

 いよいよ、今から大勢の前でステージに立たなくてはいけない。緊張をやり過ごすために、何度か深呼吸をくりかえす。


 舞台袖から空をあおぐと、数羽の彗星カラスが飛んでいる様子が見える。

 最初の一羽が見えた途端、ユユは「彗星カラスだっ!」と叫んで奇声を発しながら飛び出して行った。

 コンサートの準備に関わってくれているスタッフたちには「胴体が銀色のカラスがいたら教えて欲しい」と頼んである。羽根の先が水色のカラスが飛んでいたという情報は何件か耳に入ってきたが、カァグはとうとう姿を現さなかった。


 それでも、フィオンが声を取り戻すことを想定し、通常のステージと同様に楽器、音響、照明、衣装といった準備も進められている。

 フィオン自身もまた、ステージ用の装いに身を包んでいた。

 彼女の細身を覆う水色のドレスは、裾にいくほど華やかに広がっていて、鮮やかな熱帯魚を彷彿とさせる。縫いつけられたスパンコールが淡く光を跳ね返し、フィオンの姿を幻想的に見せている。

 足首まで届きそうなほどの長い髪はそのまま背中へと流され、風になびくたびに光を透かして波のようにたゆたう。


 もしコンサートの開始時間までに声が戻らなければ、スタッフが彗星カラスについて説明をし、そこから声が出せなくなってしまった事情とカァグについてわかっていることを話してくれることになっている。


 その発表は、宇宙全体を混乱に巻き込むことになるだろう。

 宇宙でもっとも有名な歌姫の声が出なくなったとあれば、音楽業界はもちろん、経済にもいくらかの影響を与えることになる。最悪の場合、事務所は解散を余儀なくされ、グリーズも責任を逃れることはできないだろう。もちろん、フィオン自身も。

 そればかりか、研究という名目でどこかの施設に協力を求められ、そこで一生を終えることになるのかもしれない。

 そんな暗い未来ばかり思い浮かべてしまう。

 しかし、今は前を向いて笑ってみせなくては。これが最後のステージになるかもしれないのだから。


「歌姫」

 呼ばれて顔を上げると、エイサと目が合った。

 彼はフィオンへと歩み寄り、穏やかな声で話す。

「……これだけはどうしても伝えておきたくて」

 頷いてみせると、彼は言葉を続けた。

「もしあなたの声が出なくても、今まであなたが歌ってきた声はすべて残ってる。――あたしの心の中に。それは誰にも奪えないし、消すことだってできやしないわ。その揺るがない事実がある限り、あたしにとってあなたは永遠の『歌姫』なの。たとえこの先、どんなことがあろうとも」

 エイサの瞳が、優しく微笑む。

「あなたは絶対に失わない。あなたにとって一番大切なものは、あたしが預かっているから」


 ――ああ、やっぱり。

 フィオンは思った。

 このひとは、ずっと以前から私のことを知っていたんだ。きっと、有名になるよりも前から、ずっと。


 彼は、ずっとそばに寄り添ってくれた。

 今もこうして、まさにフィオンが一番ほしかった言葉をくれる。

 声が出ないままステージに立つことになっても、彼がいてくれるだけで不思議と恐くはない。


 そのとき、頭上から声が降ってきた。

「見せつけてくれるねぇ」

 フィオンはぎょっとして振り返る。

 どこから入り込んできたのか、機材の上に一羽の彗星カラスが止まっていた。その胴体に銀色のペンキがついている。

 カァグの姿を見てスタッフたちがざわめき出したが、カァグはそれを気にする様子もなくじろりとフィオンを睨んだ。


「おい小娘。てめぇ正気かよ。てっきりとっとと引退でもするのかと思ってたのになァ。まさか声が出ねぇ状態でステージに出ちまうつもりかァ?」

 あおるような言葉に、周囲のスタッフたちのざわめきがいっそう強くなる。

「……カラスがしゃべった」

「たしかにフィーの声だわ!」

「どうする、捕まえるか?」


 それを面白がるように、カァグはゲゲゲッと笑い声を立てる。

「おーう、てめぇら。そんなにこの声が返してほしいかァ? 小娘ならそこにいるだろ? それともやっぱり声にしか興味がねぇかァ」

 スタッフたちが不安そうに顔を見合わせたそのときだった。


「なんとでも言えばいいわ」

 きっぱりとそう告げたのはエイサだった。

 彼はフィオンを守るように前へ出ると、カァグを睨みつける。

「あたしたちはどんな手を使ってでも声を取り戻してみせる。たとえあなたが宇宙の果てに逃げたってね」

「おお、恐い恐い。できるもんならやってみろよ」

「ええ。そうなったら、あなたはいつまでたっても仲間の元へ戻れやしないわ」

 エイサがそう言うと、カァグはつまらなそうにケッと鳴いた。


「……もういい。声を返すぜ」

「!」

 ひらりと目の前に舞い降りたカァグを、フィオンは嬉しさのあまり思わず抱きしめた。

 まさかそんなことになるとは思っていなかったようで、カァグは羽根をばさばさと動かして暴れる。

「お、おいコラ離せ! お前の返事がなけりゃァ声を返せねぇんだからな!」

 フィオンは慌ててカァグを離すと、一言だけ「ガァ」と声を出した。


 その途端、のどに痛みが走る。

「……!」

 とっさに手で触れるが、やがてその痛みはゆっくりと引いていった。


 ガァ、ガァア、ガァガァ!

 カァグがなにか悪態のようなものを叫んだあと、振り返ることなくまっすぐに空へ飛んでいった。

 そして、仲間たちに向かって自分の存在を示すように鳴き声を上げる。

 ガァ!

 それに反応するように、何羽もの彗星カラスたちがガァ、ガァと口々に鳴いた。

 カァグは群れに迎え入れられ、たくさん飛んでいる彗星カラスたちのうちの一羽となった。

 それは、あっというまの出来事だった。


 フィオンはおそるおそる口を開き、声を出す。

 その唇から、やわらかい音がこぼれた。

 口ずさむのは、フィオンが脱出船の中で聞いた曲だった。何度も人生を救ってくれた歌であり、いつかエイサに聞いてもらうことを夢見ていた歌だ。

 彼女の歌声はあたりの空気を揺らし、キラキラと輝かせる。それは白い花びらが散っているようでもあり、雪の結晶が輝いているようにも見えた。


 彼女が歌い終えると、スタッフたちがフィオンを囲んだ。

「フィー! 声が出るようになったんだな」

「よかった、本当によかった!」


「フィー! ああ、あああ……!」

 報告を受けて飛び込んできたグリーズが、滝のような涙を流してフィオンを力いっぱい抱きしめる。

 そして彼はスタッフたちを振り返り、次々と声を飛ばした。

「演奏いけるな?」

「オーケーです!」

「機材の準備は?」

「ばっちりです!」

「よし、通常のコンサートに切り替えるぞ!」


 ステージ裏に歓声が沸き起こり、スタッフのひとりがフィオンを立ち位置へと案内する。

 彼女が振り返ると、スタッフたちの合間にエイサの姿が見えた。

 彼はなにも言わず、ただ静かに微笑んでいるようだった。

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