04.深海の部屋
情報端末のスイッチを操作すると、音楽が流れ始めた。
惑星を照らすふたつの恒星はすっかり地平線に沈んでいて、窓の外は塗りつぶしたように暗い。部屋の入口と手元を照らす鉱石ランプだけを灯せば室内は心もとない薄明かりに包まれるが、今は音楽さえあればいい。
フィオンは椅子に深く腰掛け、目を閉じた。
もう何度となく聞いてすっかり耳に馴染んだメロディが、いつものように優しく力強く心を包み込んでくれる。それは幼いあの日からずっと心に流れている曲だった。
歌うことはできない。だからせめて、歌詞と旋律に耳を傾ける。
彗星カラスは遠くへ行ってしまったが、ここにはエイサやユユやドゥドゥがいる。
それに、グリーズやスタッフたちも協力して動いてくれているはずだ。
フィオンがあきらめない限り、きっと声を取り戻すことができる。
彗星カラスはまた追いかければいい。
何度でも、何度でも。
ふと、ノックの音が聞こえた。
扉のほうを振り返ると、部屋の外から遠慮がちな声が聞こえてきた。
「歌姫。エイサだけど、少し話をしてもいいかしら」
「…………!」
フィオンは慌てて椅子から立ち上がり、はっと気づいてプレイヤーを停止させた。
そして部屋の入口へと走り寄り、緊張する手でドアノブをつかむ。
そっと扉を開くと、大柄なエイサの姿が見えた。
そのとき、フィオンは思わず肩を震わせた。
脳裏に浮かんだのは、ホテルで初めて彼と会ったときの光景だった。
「…………」
笑顔を浮かべようとしたが、うまくいかない。
あのときの言い知れぬ不安が胸に込み上げてきて、視線が床の上を
「……歌姫?」
エイサが屈んで視線の高さをフィオンに合せ、呼びかけてくれる。
しかし、彼はすぐに何かを察したようだった。
「ごめんなさい。来るべきではなかったわね」
「…………」
フィオンは慌てて首を横に振る。
エイサは少しだけ口元を緩め、それから静かな声で用件を伝えた。
「彗星カラスとの交渉に失敗して、そればかりか逃がしてしまってごめんなさい。……それと、助けてくれてありがとう」
フィオンはすぐにシリウス・ペンで文字を書いた。
『エトワールさんが無事で、本当によかったです』
エイサは目を細めて微笑んだ。でも、その顔は道に迷って泣きだしそうな子どものようにも見えた。
「優しいのねえ」
フィオンはまた首を横に振る。
この気持ちは優しさなんかじゃない。
普通の生物はワープに耐え得る体のつくりをしていない。もしエイサになにかあったら、今度こそ自分は立ち直れないほどの絶望に陥るだろうと、そう思っただけだ。
「用件はそれだけ。おやすみなさい」
そう言って戻ろうとするエイサの服の袖を、フィオンはとっさにきゅっとつかんだ。
そして、シリウス・ペンで走り書きをする。
『来てくださって、ありがとうございます』
やっとそれだけ書いて、フィオンはやや乱暴につづったその文字から目をそらした。
手の震えはうまく誤魔化せただろうか。それとも、エイサならとっくに気付いているだろうか。
ステージに立つ前でさえ、こんなに震えたことはない。
それなのに、この作詞家を前にするだけでこんなに緊張で震えてしまうだなんて。
短い髪をぐしゃっとかき、エイサはハァとため息をついた。
珍しいことに、彼もなんと言うべきか考えあぐねている様子だった。
「……気が変わったわ。部屋の中に入ってもいいかしら?」
そう尋ねられ、ひとつ頷く。
招くように彼を部屋へ入れると、エイサは室内をゆっくりと歩きながらいくつかの鉱石ランプを灯していった。
彼が選んだ青と緑の光が、ほんわりと灯り室内を照らす。
「……リラックスしたいときには、青や緑が効果的なんですって」
今まで灯していた暖色系のランプをフィオンが消すと、部屋の中は濃淡のあるエメラルドグリーンに染まった。まるで部屋がそっくり海底へ沈んだかのようだ。壁紙に描かれているアンティーク調の植物たちが、今は揺れる海藻のように見える。
深く椅子に腰かけると、エイサは何かを思案するような顔で目を細めた。
「……さっきは本当にありがとう。あなたが手を引いてくれなかったら、あたしもワープに巻き込まれて酷いことになっていたと思うわ」
「…………」
フィオンは小さく頷いた。
そして、今ごろになって自分の気持ちに気付く。
あのとき彼の手を引いてしまったのは、独占欲のせいだ。
彗星カラスなんかよりも、自分のことを見て欲しかった。
どんな言葉でも、たとえそれが罵りであっても、彼の口から出る言葉はひとつ残らず自分に向けて欲しかった。
フィオンは、エイサを自分へ向かせるためだけに彼の手を引いたのだ。
「音楽を聞いていたの?」
ふいにそう尋ねられ、フィオンはびくりと肩を震わせた。
再生を中断されたプレイヤーが、次の操作を待つように淡く光っている。
思わぬ反応に驚いたのか、エイサは慌てて手を振った。
「ああ、ええと、ちょっと気になっただけよ。……イヤね、職業病かしら」
「…………」
言葉が出てこないまま、部屋に沈黙が落ちる。
フィオンはひとつ深呼吸をした。
そしてようやく決心をすると、一時停止をしていたプレイヤーを再生させる。
部屋のなかにメロディの続きが流れ始め、それを数フレーズ聞くとエイサは懐かしそうに笑った。
「……あら。ずいぶん古い曲を知っているのねぇ」
フィオンはシリウス・ペンを取り出し、指先に力を入れて文字を書いた。
そうでもしなければ、また緊張で手が震えてしまいそうだった。
『歌詞が好きなんです』
そう書くのが精一杯だった。
今にも感情があふれて、体ごと爆発してしまいそうだ。
本当はもっと言いたいことがたくさんある。この曲についてなら一晩中だって語れる自信がある。
それなのに、いざ本人を目の前にすると何から話していいのかわからず、ようやく浮かんだ言葉ひとつを伝えるだけで胸がいっぱいになる。
「……うん」
エイサは穏やかに
まるでフィオンの考えていることがすべてわかっているかのような、そんな相槌だった。
やっぱりこの人にはかなわないなあ、とフィオンはぼんやり思う。
「……あたし、もしかして勘違いをしていたのかしら」
エイサはふとそんなことを口にした。
考えるときの癖なのだろう、彼は頬杖をついて物憂げな表情をしている。
「あなたが彗星カラスに声を渡してしまったのは、ホテルであたしに責められて嫌になってしまったから。――あたしはずっとそう思っていたのだけど」
「…………!」
フィオンは驚いて目を見開いた。
まっすぐにエイサを見つめ、首を大きく横に振る。
ずっと疑問だった。
なぜ彼は、こんなにも助けてくれるのかと。そして、なぜ彗星カラスに声を渡してしまった理由を聞いてこないのかと。
やはり彼は誤解をしていた。「歌姫が声を失った原因は自分にある」と。
そして、フィオンはぞっとした。
湖に身を投げたとき、もし助けられずに死んでいたら、きっと彼は誤解をしたまま一生苦しんだに違いない。
自分自身のあまりの愚かさに、今頃になって強烈な後悔が襲う。
フィオンは泣きたい気持ちをぐっと抑え、シリウス・ペンを握り直した。
これから書く言葉は、本来ならば初めて彼と出会ったときに自分の口から伝えるべき言葉だった。ずいぶん遅くなってしまったけれど、しっかり伝えなくては。
『私は、エトワールさんが歌詞を提供してくださると聞いてとても嬉しかったんです。コンサートで歌うのを楽しみにしていました』
シリウス・ペンの文字は、深海のように薄暗い部屋でひときわ明るく光を放つ。
まるで、フィオンの強い気持ちが宿っているようだった。
「あら」
エイサは驚いたようにフィオンを見て、それからとても嬉しそうに笑った。
「それは光栄だわ。ありがとう、歌姫」
『でも、リハーサルでは結局うまく歌うことができませんでした。そんな自分自身に苛立って、悔しくて、悲しくて……、それで…………』
そう書きつづった文字を改めて読んで、フィオンは恥ずかしくなった。
あまりにも幼稚な理由で、彗星カラスに声を渡してしまい、そのせいでたくさんのひとに迷惑をかけてしまった。
今までカラスに声を渡してしまった理由を彼に言えなかったのも、呆れられるのが恐かったからだ。
フィオンはそっとエイサの表情をうかがった。
彼はただ穏やかにこちらを見つめているばかりだ。その顔からは、彼が今どのような感情を抱いているのか推し量ることは難しい。
そのとき、エイサがぽつりと呟いた。
「あの曲はね、ある人に向けたメッセージなの」
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