第三章 知識
01.動物学者
玄関の呼び鈴が激しく鳴り響き、フィオンは顔を上げた。
身支度を終えてそろそろ部屋を出ようとしているところだった。
耳を澄ませると、玄関へむかうドゥドゥの足音が聞こえ、続いて低い声が聞こえた。あれはフィオンのマネージャーであるグリーズの声だ。しかし、どうも様子がおかしい。
ずかずかと乱暴に踏み込む足音、そして怒号。かすかにエイサの声も聞こえる。
フィオンはシリウス・ペンを握りしめ、慌てて部屋を飛び出す。
三階から一階まで一気に階段を駆け下りると、グリーズの声はひときわ大きく響いてきた。
「あなたを信頼して預けたのに、声が出なくなったとは一体どういうことですか! しかも湖に落ちただなんて!」
扉が開け放たれた応接間の中に、三人の姿が見えた。
グリーズがエイサに詰め寄り、エイサは言われるがままになっているようだった。そして、ドゥドゥはどうすることもできずおろおろしている様子だ。
フィオンは慌てて走りだし、グリーズに体当たりをする。
岩のような彼の巨体はエイサよりも一回り大きく、小柄なフィオンにはこうでもしなければ他に彼を止めるすべがない。
「フィー!?」
グリーズが驚いたようにフィオンを見る。
フィオンはシリウス・ペンで乱暴に書き殴った。
『やめて! 落ち着いてください!』
しかし、グリーズは嘆くように天井を仰ぐ。
「ああ、なんてことだ……。まさか本当に声が出なくなってしまったのか、フィー」
フィオンのことを一番近くで見守ってきたのはグリーズだ。
しかも、彼はまるで子どもか孫のようにフィオンを溺愛している。
今だって歌姫の声が出なくなってしまったことを嘆いているのではなく、フィオン自身の今後を真剣に心配してくれているというのはわかっている。
しかし、エイサに非がないのもまた事実だ。
フィオンの体当たりをものともせず、グリーズは今にもつかみかかるのではないかという勢いでエイサに詰め寄る。
身を挺してもグリーズを止めなくては、惨事になりかねない。
「フィオンは歌姫なのですよ? 彼女にとって声を失うということがどういうことか、おわかりですか!?」
グリーズの激しい怒号に耐えながら、エイサが深く頭を下げる。
「……たいへん申し訳ございません。できる限りのことはいたします」
その言葉に、フィオンは耳を疑った。
なぜエイサがそのようなことを言わなくてはならないのか。おそらく彼はなにか酷い勘違いをしているに違いない。
グリーズはまだ噛みつくように怒鳴っている。
「できる限りのことですって!? 宇宙でもっとも有名な歌姫が声を失うということは、宇宙規模の損失になるということなのですよ!? それをあなた一人に責任が取れるとでも!?」
なおも詰め寄るグリーズを、フィオンは必死に押し留める。
声が出せるくらいならとっくに叫びたかった。
そのとき、聞き覚えのない声が響いた。
「声を取り戻すことは可能ですよ」
その声に、全員が振り返る。
相手の姿を見た瞬間、フィオンは獣人と見間違えた。
身長はフィオンよりも頭ひとつ分ほど高く、肩から大きな獣の皮を羽織っている。それもファーコートなどという代物ではなく、縫製技術の発達していない惑星の住民たちが身につけているそれとよく似ていた。
よく見るとその肌は半透明に透けていて、頭の内部や呼吸器官などの一部がぼんやりと見えている。黒目がちな5つの目は大きく、興味深そうに部屋の中を見回していた。
細身だが骨格は頑丈なようで、その背中にはフィオンが丸ごと入りそうな大きさのリュックを背負っている。
「やあ、ひさしぶりだね。エイサ君。呼び鈴を鳴らしても誰も出てこなかったので入らせてもらったよ」
そう言って相手はにこにこと笑った。
エイサはただ驚いたように相手を見た。
「……えっ? ユユ・シャク博士……よね?」
「そうだよ! 覚えててくれて嬉しいなあ」
満面の笑顔を浮かべる相手に対して、エイサは訝しげに眉をひそめていた。
「あたし、ここの場所を教えたかしら」
するとユユと名乗った相手はこともなげに答えた。
「カラスたちに聞いたんだよ。『歌姫は今どこにいる?』ってね」
その言葉にフィオンは耳を疑った。
カラスに聞いた?
まさか、カラスと話ができるとでも言うのだろうか。
「ユユ・シャク博士とおっしゃいましたか? 動物学者の?」
そう声をかけたのはグリーズだった。
「おや。僕をご存知で?」
「ええ。わたくしはフィオン・フィオナ・フェクタのマネージャーをしているリズリー・グリーズと申します。お目にかかれて光栄です。誘拐事件の際にユユ・シャク博士から助言をいただいたと聞いております。その節は大変お世話になりまして、本当にありがとうございました。博士のおかげでフィオンは……」
とうとうと話すグリーズを遮り、ユユはきっぱりと否定した。
「それは違いますよ」
「なんですって?」
驚いて口が開いたままになったグリーズに、ユユは言った。
「誘拐犯から歌姫さんを助け出したのはエイサ君だって聞いています。それに、彼が
ユユはグリーズの胴体にしがみついたままのフィオンに視線を向けた。
「あなたが歌姫さん?」
フィオンはそっとグリーズから離れ、ユユに向かって深くお辞儀をした。
「よろしくね」
それだけ言うと、ユユはふたたびグリーズに向き直る。
「歌姫さんが今ここにいるのは、エイサ君のおかげですよ。彼は感謝されることはあっても怒鳴られる筋合いはないはずです」
「……うむむむ」
「もし警察が動くのを待っていたら、彼女の可愛らしい顔に傷がついていたかもしれない。いかがです?」
グリーズは観念したように両手を上げた。
「……ユユ・シャク博士のおっしゃる通りです」
これはあとから知ったことなのですが、と前置きしてグリーズは言葉を吐き出す。
「犯人からの接触がない限り、警察は夜が明けてから動くつもりだったらしいのです。そんな悠長なことをしていてはフィオンが……」
そのときの不安を思い出したらしく、グリーズは「あああ!」と嘆き、顔を両手で覆った。
フィオンは安心させるためにそっと彼の背中に手を添える。
しばらく肩を震わせていたグリーズだったが、どうにか落ち着きを取り戻したらしく、彼はいつもの丁寧な口調で告げた。
「エトワール先生、たいへん失礼いたしました。そしてフィオンを助けてくださったことを改めて感謝いたします」
「……いえ。こちらにも至らぬ点があったのは事実です。そして連絡が遅くなってしまったことをお詫び申し上げます」
そう言ってエイサはまた頭を下げる。
いてもたってもいられなくなり、フィオンは全員に見えるよう、大きく、はっきりと文字を書いた。
『エトワールさんは少しも悪くありません。すべて私の不注意です』
「歌姫、」
エイサが何かを言おうとしたが、フィオンはかまわず書き続ける。
『昨夜はとても星が綺麗でした。バルコニーへ出ると、湖に星が映っていました。もっとよく見ようと椅子を出して水面をのぞきこんでいたらうっかり落ちてしまって。ご心配をおかけして本当にごめんなさい』
まるで魔法のようにすらすらと文字が浮かんでくる。
空中に浮かぶそれらの文字は、すべて嘘だ。フィオンがエイサに伝えようと考えた嘘だった。
ちらりとエイサの様子をうかがうと、彼はわずかに顔色を変えたようだった。それに気付かぬふりをして、フィオンは深く頭を下げる。
そして、どうかもう二度とエイサが頭を下げなくて済むようにと祈った。
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