06.内緒話
翌朝、フィオンは部屋に近付く足音で目を覚ました。
続けて、扉がノックされる。
「フィオンさん、起きてますか?」
ベッドの上に身を起こすと、寝巻姿だということに気付いた。
急いで旅行鞄の中から上着を取り出し、肩に羽織る。
緊張して部屋の扉を細く開くと、ドゥドゥの姿が見えた。
「おはようございます。……といっても、もうお昼近くになりますが。ご気分はいかがですか?」
フィオンはにこりと微笑んで頷く。
本当はまだ少し頭がぼんやりするし、体も重い。
だが、そうも言っていられない。
「グリーズさんは午後の便でこちらに来るそうです。軽いお食事を用意しましたが、食べられそうですか?」
フィオンは上着のポケットに入っていたシリウス・ペンを取り出して『ご親切にありがとうございます』と返事を書いた。
「いえいえ、仕事のうちですから」
そう答えるドゥドゥの口調に、フィオンはかすかな違和感を覚えた。
「……ところでフィオンさん。昨晩、湖に飛び込んだそうですね」
その言葉にフィオンはどきりとした。
彼の口ぶりはまるで「事故」ではなく「故意」であると言っているかのようだっだ。
初めて出会ったときのような陽気さはなく、彼は淡々と言葉を並べてゆく。
「先生から話を聞きました。バルコニーに椅子が置かれていて、靴もそろえてあったと。どうしてそんなことをしたのか、などと野暮なことは聞きません。歌姫でありながら自分の声を失ってしまったのは、さぞかし辛いでしょうから」
「…………」
フィオンは黙って彼の一言一句に耳を傾けた。
「僕からひとつだけ言わせてください」
ドゥドゥは真顔でフィオンを見つめ、言葉を続けた。
「先生が決めたことですので、僕はこうしてフィオンさんのお世話をしています。こちらへ来るためのスカイ・モービルや宇宙船のチケットの手配をしましたし、フィオンさんのために朝食の準備もしてあります。……でも、」
そこで彼は一度言葉を切り、深いため息をついた。
そして少し強い口調で続ける。
「もし、次にフィオンさんが危険なことをすれば、僕は先生に苦言を呈さねばなりません」
「…………」
フィオンは神妙な顔つきで頷いた。
彼がそのようなことを言わなくてはならない理由はわかっている。
シリウス・ペンを動かし、空中に丁寧な文字を書いてゆく。
『昨夜は本当に愚かなことをしたと反省しています。ご心配とご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい』
ドゥドゥはその文字を二度、三度と読み返し、頷いた。
「わかってくれるなら結構です。もう二度と危険なことはしないと、約束してくれますか?」
フィオンは深く頷いてみせた。そして、文字でも意志を示す。
『はい。お約束します』
「わかりました。約束してくれてありがとうございます」
先程よりも少し柔らかい口調でドゥドゥが言う。
彼は役目を果たせてほっとしてるような表情だった。
建前の話は、もう充分だ。
フィオンはペンを構え直すと、空中に走り書きをした。
『ドゥドゥさん。聞いてほしい話があります』
「ん、なんでしょう」
ドゥドゥが言い終わるのさえ待ち切れず、フィオンは感情のままに文字をつづってゆく。
『私は子どもの頃からずっとエトワールさんの言葉を聞いてきました。もう数えきれないくらい、あのひとの言葉に救われ、生かされ続けてきたんです。それだけではなく、あのひとは誘拐犯からも冷たい湖の中からも私を助け出してくれました』
文字はときに揺らぎ、ときに跳ね上がり、ときには大きくなり過ぎた。
それでもフィオンは気にすることなく書き続ける。
『今、私がここにいるのは、あのひとのおかげです。私はあのひとのことを心から尊敬しています。言葉につくせないくらいに。だから、今回のようなことはもう二度としないと誓います。もう諦めません。必ず声を取り戻してみせます。あのひとに、私の歌声を聴いてほしいんです』
殴り書きと呼んでもさしつかえないほどの、昂ぶった感情によってつづられたその文字を眺めたあと、ドゥドゥは一言だけ答えた。
「……そうですか」
彼は困ったように視線をさまよわせていた。
フィオンは彼がそうするしかない理由をよくわかっている。
空中に浮かんだ文字は、光に溶けるように少しずつ消えていった。
消えてしまえば、もうなにも残らない。
「あの、もしかして……」
おずおずとドゥドゥが視線を投げかける。
フィオンは頷き、口の前に指を立てて「内緒ですよ」と示した。
そして、今度は丁寧に文字を書く。
『どうか、エトワールさんにもよろしくお伝えください』
ドゥドゥは肩をすくめて小さく笑った。
フィオンも、少しだけ笑う。
「たしかに承りました」
やけに芝居がかったお辞儀をすると、ドゥドゥはぱたりと扉を閉めた。
◆ ◆ ◆
動揺した気持ちを落ちつけるため、ドゥドゥはひとつ深呼吸をした。
そして、廊下で待っていたエイサに声をかける。
「先生、フィオンさんは今後危険なことはしないとお約束してくれましたよ。もう安心です」
そう伝えると、エイサは緊張していた表情を緩めた。
「……そう。よかったわ」
先ほどのやり取りを思い出し、ドゥドゥは思わず苦い顔になる。
「僕はとんだ大根役者でしたけどね」
「あら、そんなことないわよ。なかなかの演技派だったわ」
ドゥドゥは自分の感情をごまかすため、ぐしぐしと鼻先をなでた。
部屋の中でフィオンがどんな言葉を書いたのか知らないから、この作詞家はそんなことを言えるのだ。
ひげを整えながら、ドゥドゥはそう思う。
「僕、こんなことはもう
「これで最後にするって約束する。嫌な言葉を口にさせてしまってごめんなさい」
そういうことじゃない、と心の中で愚痴れば、口からもため息がこぼれ出た。
「……はあぁ」
「なによ、ため息なんかついちゃって」
「……なんでもありませんよ? どうせまた先生に泣きつかれたらわがままを聞いてしまうんだろうなあと、我が身のふがいなさに嘆くばかりです」
ドゥドゥはこの偏屈な作詞家と、付き合いだけは無駄に長い。
そのせいで、いつしか場を誤魔化す方法を覚えてしまった。もちろん、彼が相手の場合にしか通用しないのだが。
そして、その偏屈な作詞家も助手の扱いをよく心得ているようだ。
「頼りにしているわ、ドゥドゥ」
心底信頼しているといわんばかりの笑顔を向けられては、それ以上なにも言えなくなってしまう。
「はいはい。光栄です」
まったく嬉しくなさそうに答えると、ドゥドゥは不満そうに耳の後ろのあたりの毛をかりかりと掻いた。
彼はそうやってしばらく逡巡すると、思い切って提案してみる。
「ところで、先生」
「なに?」
「僕は、先生とフィオンさんが直接話したほうがいいんじゃないかと感じましたが」
しかし、そう告げてみたところでエイサの表情は曇るばかりだった。
「……歌姫はあたしのことを恨んでいると思うわ。だから、あたしが言えることじゃないのよ」
恨んでいる、という言葉にドゥドゥは首を傾げる。
部屋の中で見たあの光景は、そういう類のものではなかったはず。
眼前に広がってゆく文字の、感情が込み上げたかのような崩れ方を思い出す。
――私はあのひとのことを心から尊敬しています。言葉につくせないくらいに。
彼女の言葉におそらく嘘はない。
だが、彼女の感情が込められたあの文字を、エイサは知らない。だからそんな思い違いをするのだ。
しかし、そのことを伝えようとしてドゥドゥは口をつぐんだ。
これ以上は助手風情が出しゃばることではない。
当人同士で話すべきことだ。
それにどうせ、フィオンはエイサの足音を聞き分けるほど耳がいい。
きっとこの廊下での会話も筒抜けになっているのだろう。
そんなことよりも、さっさと戻ってお茶でもいれよう。
とっておきのハーブティが歌姫の好みに合うといいけれど、などとドゥドゥは思い巡らせた。
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