02.おとぎ話のように

 メッセージの差出人はマネージャーのグリーズだった。用件にはたった一言だけ『落ち着いたら電話がほしい』と書かれていた。

 フィオンは唖然とした。

 宇宙船に乗っているあいだ、エイサはずっと情報端末と向かい合っていた。てっきりグリーズと連絡を取り合っているのだとばかり思っていたのに。

 違うのだとしたら、彼は一体何をしていたのだろう。


 今現在、グリーズはフィオンの状況をどこまで知っているのだろう。

 ――もしかして、声が出なくなったことも知らない?

 その可能性に気付き、フィオンはじっと情報端末を見つめた。

 もしグリーズが知らないとしたら、声が出なくなったことを早く伝えなくてはならない。でも、どのように伝えるべきなのだろう。


 フィオンは部屋に戻り、ベッドの上に寝転んだ。

 小柄なフィオンが使うにはかなり大きなサイズだ。ごろりと寝返りを打ち、毛布の中に隠れるように潜り込む。

「…………」

 フィオンはそっと目を閉じる。

 脳裏に浮かんできたのは、ホテルで見た光景だった。


 エイサがフィオン部屋を訪ねてきて、そのうしろからグリーズのなだめるような声が聞こえていた。

 彗星カラスに声を渡してしまったということを伝えれば、次は「なぜ」渡してしまったのか問われるだろう。そのときにエイサが原因だと疑われることだけは避けなくてはならない。


 何から伝えるべきか。どのように伝えたらいいのだろう。

 考えているうちに、フィオンはいつのまにか眠ってしまった。


   ◆ ◆ ◆


 夢の中で、フィオンはステージに立っていた。


 数万もの観客席が用意された会場には大勢のファンが集まっている。

 いつもと変わらないはずの光景。

 それなのに、何かがおかしい。

 観客は棒立ちでフィオンのことを見ていた。

 いや、まるでその目に何も映っていないかのように全員が虚ろな表情をしている。

 まるで黒い霧がかかっているかのように視界がかすれ、照明も少しずつ暗くなっているようだ。


 流れ始めた音楽は、どこか不協和音が混じっている。

 そればかりか音量も安定せず、テンポもめちゃくちゃだ。

 どうにか歌い始めるものの、口から出てきたのはカラスの鳴き声だった。

 それを合図に、観客は次々と席を立ち始める。

 フィオンは必死で歌おうとしたが、声を出そうとすればするほど醜いカラスの声ばかりが響く。

 観客は減り続け、ついには最後の一人までいなくなってしまった。


 いつしか音楽も止まり、フィオンは慌てて舞台袖に駆け寄る。

 そこにいるはずのスタッフたちの姿も見当たらなかった。

 広い会場の中で、フィオンはただ独り、呆然と立ち尽くした。


   ◆ ◆ ◆


「…………!」


 目を開くと、真っ暗な室内が見えた。

 少しずつ意識がはっきりしていて、悪い夢を見ていたのだと気付いた。

 明るかったはずの外の景色はすっかり暗くなっていて、知らないうちにずいぶん長く眠ってしまっていたらしいと気付いた。

 ――大丈夫。ただの夢。

 なんどもそう言い聞かせる。それでも心臓はどきどきしたままで、呼吸は激しいまま収まらない。

 フィオンはベッドの中にうずくまり、声を押し殺して泣いた。

 嫌な考えが波のように押し寄せてフィオンを呑み込んでゆく。


 なぜグリーズは一言だけしかメッセージをくれなかったのだろう。

 そもそも、なぜ初対面のエイサにフィオンを預けようと思ったのだろうか。フィオンのことを気にかけてくれているなら、仕事で何度か会っただけの相手になど預けようとは思わないはずだ。

 宇宙港へ旅行鞄を持ってきてくれたスタッフもそうだ。彼女はどうしてフィオンと一緒に来てくれなかったのだろう。

 もしかして、もう誰もフィオンのことを必要としていないのかもしれない。グリーズがメッセージを送ってきたのも、本当は声が出なくなったことをすでに知っていて、それを確認するためにあのような内容にしたのかもしれない。


 それに、どうしてエイサは目の前に彗星カラスがいるのに「この場を離れたほうがいい」と言ったのだろう。

 たしかに周囲には利用客が大勢いたが、まだ誰もフィオンの存在には気付いていなかった。きっとあれは声を取り戻すチャンスだったはずなのに。

 彗星カラスの笑い声が脳裏に甦る。

 もしこのまま声が戻らなかったら、もう自分は歌姫に戻れなくなる。そう考えるだけで不安に押しつぶされそうだった。

 そうしたら、

 それとも、あの彗星カラスの言うとおり、声を失った自分にはもう歌姫としての価値はないのかもしれない。


 ひとしきり泣いたあとで、フィオンはベッドから起き上がった。

 ふらふらとした足取りで部屋の奥へ向かう。足元が真っ暗になって、次の一歩を踏み出せば奈落へ落ちてしまいそうだ。

 大きな両開きの扉を開け、バルコニーへ出る。


 衛星の光が、景色を青く染めていた。

 眼下には湖が広がっている。

 風がなく、湖面はとても静かだった。

 バルコニーの柵は、フィオンの身長で乗り越えるには少し高すぎた。

 またふらふらと部屋の中に戻り、ベルベットの布地が張られた椅子を運んできて柵の手前に置く。

 靴のまま椅子の上に乗るのはためらわれたので、靴を脱ぎそろえて裸足になる。

 椅子の上からのぞき込むと、風もなく穏やかな水面が広がっていた。

 湖面は鏡のようになっていて、星空が映っている。その様子を眺めていると、まるで宇宙へ放り出されたような気分になった。


 ふと、故郷へ帰りたくなった。

 母に会いたくなった。

 父に会いたくなった。

 兄に会いたくなった。

 押し寄せる望郷の念が、フィオンの心を捕えて過去へと閉じ込めた。

 もしこのまま跳び込めば、「あの日」に戻れるだろうか。

 あるいは、子どもの頃に聞かせてもらったおとぎ話のように、泡となって消えるだろうか。


 フィオンはただ静かに湖面を見つめる。

 すべての悲しみを受け止めるような穏やかで優しい闇が、そこに広がっていた。

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