05.脱出劇

「**、******……!?〔誰だ、こんなときに……!?〕」


 リーダー格の獣人が、呻くように扉の外へ声をかける。

 その口調から、予期せぬ来客であるらしいことがわかった。

 ふたたび扉がノックされ、外から間延びした声が聞こえた。

「こんばんはぁ。デリバリーで~すっ」


 聞き取りやすい発音の公用語だったが、この状況に似つかわしくない緊張感のない声はどこか異様ですらあった。

 そして、またノック音。

 獣人たちは立ち上がることさえできない様子で、鋭い牙のあいだから苦しげな呻き声を漏らすばかりだ。

 フィオンは獣人たちに気付かれぬよう身をよじった。しかし縄はびくともせず、少しもゆるむ様子がない。

「受け取っていただけない場合、注文詐欺サギとして警察に相談することになっちゃいますよぉ?」


 相変わらず外からは間延びした声が聞こえる。

 口調そのものは呑気そうな響きだが、しかし、言葉の内容はどういうわけか剣呑なものに変わっていた。

 獣人たちはますます強く耳を押さえ、床の上をのたうち回る。


 また、ノック音が響く。

 しかし、あの間延びした声はもう聞こえなかった。

 そのかわりに、カチャリと小さな音が聞こえた。わずかな音だったが、その音はフィオンの耳にはっきりと届いた。

 しかし、床に転がって呻いている三人が音に気付いた様子はない。


 じっと扉を見つめていると、ドアノブがゆっくり動いた。

 警戒するように扉が細く開かれ、その隙間からボールのようなものがコロコロと転がってきた。その表面はつるんと丸く、ほぼ全体が透明な素材で作られており、中心部に核のような黒いものが見える。

 フィオンは、それをスタジオやステージなどで見たことがあった。


 ――マンティスアイ・カメラ。

 360度の景色を映すことができるカメラだ。これを使えば、離れた場所の様子を詳細に知ることができる。

 ライブの様子を会場まるごと撮影することもできるし、何万光年も離れた惑星の様子を知ることもできる。そして、室内へ入らずに中の様子をうかがうことも――。


 フィオンはじっとマンティスアイ・カメラを見つめた。

 いったい誰がこのカメラを部屋に入れたのだろう。

 外から何度も呼びかけていたデリバリーの配達員だろうか。しかし、その目的まではわからない。

 レンズ越しに、カメラの映像を見ている相手と目が合った気がした次の瞬間。


 アパートの扉が、大きく開け放たれた。

 現れたのは、どう見てもデリバリーの配達員などではなかった。

 身長2メートル以上はあろうかという大柄な人物だ。濃紺のスーツに身を包み、中折れ帽とサングラスとストールで顔を隠している。

 その人物は素早く部屋の中を見回すと、フィオンの傍へ歩み寄った。大きなナイフを取り出し、フィオンを拘束する縄を手際よく切ってゆく。


「歩けるわね? ここから出るわよ」

 耳元でささやかれ、フィオンは頷いた。

 深海から水上へ引き上げられるように手を引かれ、その勢いにつられて立ち上がる。

 扉を目指して部屋の中を横切ると、一番扉に近い場所で倒れていた獣人がよろよろと立ち上がった。


 フィオンはとっさに身構え――それよりも速く、大柄な人物が身をひるがえす。

 あざやかな蹴りが獣人の膝に入り、バランスを崩した巨体が大きな音を立てて横倒しになる。

 その振動が収まるのを待たず二人はアパートを後にした。


   ◆ ◆ ◆


 路地裏には濃い闇が忍び込んでいた。

 ぽつり、ぽつりと設置された街灯の光が、心もとなく点滅している。

「こっち」

 手を引かれるまま夜道を走り、いくつかの曲がり角を過ぎる。

 すっかりアパートが見えなくなった途端、フィオンの両足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。


「……あらら、大丈夫?」

 大きな両腕に支えられ、フィオンは肩で息を繰り返す。

 そして、確認するように相手を見つめた。

 その視線に気付くと、相手は中折れ帽とサングラスを外した。


「あたしよ。エイサ・エトワール。さっき会ったばかりね」

 そう言って彼はいたずらっぽく笑った。

 その笑顔に少しほっとして、フィオンも表情を緩める。


 助けに来てくれたのがエイサであることは、体格や服装、声などで気づいていた。しかし、なぜ警察でも事務所のスタッフでもなく、彼が来てくれたのだろう。

「いろいろ聞きたいことがあるのはわかっているわ。でも、今は早く安心できる場所へ行きましょ」

 エイサは帽子を被り直すと、フィオンを抱きかかえた。


「……っ!?」

「しっかりつかまっているのよ」

 激しく動揺するフィオンの耳元で、エイサがささやく。

 言われるがまま、両腕を遠慮がちに彼の首元へからませると、彼はそのまま路地を走り始めた。


   ◆ ◆ ◆


 路地の先に、濃紺色のスカイ・モービルが見えた。

 二人が近付くと、待ち構えていたようにドアが開く。


 エイサはモービルの中にフィオンを乗せ、自身も素早く乗り込んだ。

 ドアを閉めるなり、モービルはすぐに高度を上げる。機体がふわりと宙に浮き、街の灯りが眼下に沈んでゆく。濃紺色のボディはきっとうまく闇夜に溶け込むだろう。


「予定通りにお願い」

 運転席に向かってエイサが声をかける。

「わかりました」

 返事がした方へ視線をやると、チャコールグレーの分厚い毛並みが見えた。

 ――獣人だ。 

 そう気付き、フィオンは反射的に身を固くする。


 エイサがすぐに彼女の手を取り、優しい声音で説明した。

「大丈夫よ。彼はあたしの助手なの」

「少々飛ばすので、しっかり固定ベルトをしてくださいね」

 言われるがままベルトを締めると、モービルは急加速を始めた。

 規則正しく浮かぶ誘導ランプの光が、激流のように背後へ消えてゆく。


「恐い思いをしたわね。でも、もう大丈夫よ」

 エイサの大きな手がフィオンの頭をなでる。

 フィオンは自分の顔が熱くなるのを感じた。今が夜で良かったと思った。そうでなければきっと顔が赤くなっていただろう。


「怪我はない? あいつら……変な事しなかったでしょうね」

 エイサの問いに、フィオンは首を横に振る。

 笑顔を見せようとしたが、曖昧な作り笑いしかできなかった。


「……そう。よかったわ」

 エイサは小さく頷くと、慌ただしく情報端末を取り出した。

「もしもし、ミスター・グリーズ? 歌姫を無事奪還したわ。こちらは予定通りに動くので、そちらもよろしくお願いします」

 通話の相手はどうやらフィオンのマネージャーのようだ。


 手短に用件を済ませて通信を切ると、エイサは運転席に声をかけた。

「ちょっと、ドゥドゥ。お姫様を乗せるカボチャの馬車にしてはショボ過ぎるんじゃない?」

「贅沢を言わないでくださいよ、先生。あいにくすぐにレンタルできるのがこれだけだったんです」


 ドゥドゥと呼ばれた獣人は、小柄なフィオンよりもさらに半分ほどの身長しかなかった。ずんぐりむっくりとした体が短い毛で覆われている。

 長く突き出た鼻先に、ピンと伸びたひげ。つぶらな黒い瞳と頭の上にある小さな耳は、げっ歯類を彷彿とさせた。

 彼は短い手足で器用にモービルを操作しながら、フィオンに話しかけてきた。


「初めまして、フィオンさん。僕はエイサ先生の身の回りの世話をしているドゥドゥといいます。お会いできて光栄です。話にうかがっていたとおり可愛らしい方ですね。あっそうだ、もしよかったらあとでサインでも……」

「いいから前を見なさい、前を」

「はいはい」


 ドゥドゥのおどけた口調に、フィオンは緊張がほぐれていくのを感じた。

 彼も獣人の姿をしているが、誘拐犯たちとは違って愛嬌がある。

 そして、エイサの物言いにも慣れた様子であしらっている。なんとも頼りになりそうな存在だ。


 三人を乗せたスカイ・モービルは、夜の闇の中を高速度で進んでゆく。

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