03.彗星カラス

 ――コツ、コツ、コツ。


 耳を澄ませてみると、その音は廊下や隣の部屋からではなく、窓の外から聞こえているようだった。

 フィオンのいる部屋は七階なので、街の大通りから響く往来の音はどこかぼやけて聞こえる。だが、その音だけはやけにクリアに聞こえた。


 音の正体を知ろうと、フィオンは窓辺へ向かった。

 カーテンを開けると、音はより鮮明に聞こえるようになった。

 窓の外に目をこらせば、そこには夜のとばりに溶け込んでしまいそうなほど真っ黒な鳥がいた。

 よく見ると普通のカラスよりも一回り大きく、羽根の先だけが水色に透けている。

「……彗星カラス?」


 泣いていたことも忘れ、フィオンはじっとその鳥を見つめる。

 故郷の星にも似たような鳥がいたことを思い出し、懐かしさが込み上げる。

 彗星カラスは普通の鳥とは違って宇宙空間を飛ぶことができるのだと聞いたことがある。このカラスも遠くの星から飛んできたのだろうか。

 窓に指先を当てれば、彗星カラスはその場所をコツコツとくちばしでつついた。ずいぶん人懐こいようだ。

 驚かせないようにそっと窓を開けてみると、警戒する様子もなくするりと部屋の中に入ってきた。


「どこから来たの?」

 そう尋ねてみるが、彗星カラスは答えない。

「もしかして、私の歌を聞きに来てくれたのかしら」

 そう口に出してから、フィオンは後悔した。

 今日の収録でのことを思い出し、ふたたび涙があふれてくる。慌てて涙をぬぐうと、彗星カラスが不思議そうにフィオンの顔を見上げた。


「……もし私の声をあげられたら、あなたもお話ができるのにね」

 思わずそんな言葉が口から出てしまう。

 フィオンは慌てて首を横に振った。

 こんなことを言ってしまうなんて、きっとよほど心がまいってしまっているに違いない。気を取り直そうと大きく息を吸い込む。


 そのとき、それまでおとなしくしていた彗星カラスが一言だけ「ガァ」と鳴いた。その瞬間、のどにチクリと傷みを感じる。

 痛い! と叫ぼうとしたが、声は言葉にならなかった。

 そのかわり、たった今カラスの口から発せられたのと同じ「ガァ」という声が響く。


 フィオンはとっさに自分の口を両手で覆った。

 慌てて彗星カラスに目を向けると、彼女が見ている前でカラスはのんびりと

「あー、あーー」

 その声を聞いた途端、フィオンの背筋がぞわりとした。

 カラスは満足そうに笑い声を立てる。

「おー、こりゃいい。噂通りの綺麗な声だなァ」


 ――なんで、どうして。

 フィオンは彗星カラスを凝視した。

 そのくちばしのあいだから聞こえてくるのは、

「こんないい声をくれるなんて、ありがとよ。じゃあなァ」

 そう言い残すと、カラスはひらりと窓枠へ飛び乗った。


 ――待って!

 フィオンはそう叫ぼうとしたが、口から出てきたのはやはりカラスのような醜い声だった。

 そのおぞましさに、彼女は思わず耳を塞ぐ。


「お前、失礼だなァ。俺の声だって慣れればそんなに悪くないぜ」

 小馬鹿にしたように笑うと、カラスは窓から飛び出した。

 フィオンが慌てて駆け寄ると、高く上昇してゆくカラスの姿が遠ざかって見えた。

 取り返しのつかないことが起きてしまったと理解し、彼女は呆然とした。


 ――どうしよう。はやくあのカラスを捕まえなくては。

 いや、相手は鳥だ。そう簡単に捕まるだろうか。

 とにかく、急いでマネージャーに相談しなくては。

 でも、どのように?

 口を開けば、またあの醜い声が飛び出すだろう。あんなのは自分の声じゃない。私の声は――。


 さまざまな考えが一気に頭をめぐり、脳が乱暴にかき混ぜられているような錯覚に吐き気がした。

 時間が経てば経つほど絶望感が増してゆく。フィオンは落ち着きなく部屋の中を歩き回った。

 しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。


 開け放たれたままになっていた窓がきしんだ。

 彗星カラスが戻ってきたのかと振り返ったが、そうではなかった。窓枠に手をかけてフィオンを見ていたのは、見知らぬ男だった。目が合うと、相手はニタァと笑った。その口のあいだから大きな牙がのぞく。


 悲鳴を上げそうになり、フィオンはとっさに自分の口をふさいでしまった。

 あの声がまた自分の口から発せられると思うと、全身に震えが走る。それは彼女にとってこの場で殺されるより恐ろしいことだった。


 男はするりと部屋に侵入し、続けざまにもう一人が入ってくる。

 あっという間の出来事だった。

 二人は黒っぽい服に身を包み、大柄でしなやかな体つきをしていた。服の隙間からのぞく肌は深い毛で覆われている。そして、突き出た鼻に鋭い牙。すぐに獣人のたぐいだとわかった。


 彼らは我が物顔で部屋を歩き、フィオンへと近づく。

 逃げようと身をひるがえしたが、一瞬遅かった。

 飛びかかるように押さえつけられ、床の上に引き倒される。そして頭から大きな布袋のようなものを被せられた。

 抵抗を試みるが、上からロープのようなもので縛られたたらしく、ますます身動きが取れない。分厚い布に覆われ、視界が闇に呑まれる。


 そして、突然の浮遊感。


 踏みとどまろうと足を動かすものの、両足とも空中を蹴るばかりだ。

 どうやら担ぎ上げられてしまったらしい。このままではどこかに連れ去られてしまう。

 足をめちゃくちゃに動かしてみるが、相手はびくともしない。そればかりか大股で歩くような振動が伝わってくる。相手はフィオンを担いだままどこかへ移動するようだ。


 今度こそ大声を出して、助けを求めなくては――そう思った瞬間、ふと空気の流れが変わった。

 分厚い布袋ごしにでもわかるほどはっきりと、風の音が聞こえる。


 ――まさか、窓の外へ?

 恐怖で体が凍りつく。

 ここは七階だ。下に落とされたのではたまらない。

 すると、今度は強い衝撃とともに浮遊感を感じた。

 何が起きているのかわからないまま、フィオンはただそれに耐える。


 浮遊感を繰り返すたび風の音が強くなり、やがて動きが止まった。かと思えば、今度は平らな場所を走っているような振動が伝わってくる。それも、足元はホテルの絨毯や廊下ではない。建物や道路などに使われる硬質な素材の上を走っているようだった。


 おそらく、侵入者はフィオンを担いだまま壁をよじ登り、ホテルの屋上まで移動したのだ。

 そう気付き、血の気が引いた。

 万が一にも壁を登っている途中で落とされたら、はるか下の地面にたたきつけられて死んでいただろう。


 そして、新たな問題が浮上する。

 彼らのように獣の姿をした生物は数多くいるが、その多くが高い身体能力を有している。小柄とはいえフィオンを小脇に抱えたまま、片腕の力と足の跳躍力だけでホテルの外壁を登れるほどの力がある。

 一度獲物を捕らえれば、彼らがやすやすと逃がすはずがない。――つまり、隙を見て逃げ出すことは困難である可能性が高い。


 平らな場所を走るような振動が途切れ、今度は一定のリズムで振動が伝わってきた。建物の壁に沿って設置されている非常階段を駆け下りているのだろう。

 下手に暴れてうっかり落とされでもしたら、首の骨を折るかもしれない。フィオンは恐怖に震えながらじっとするしかなかった。


 彼らが階段を階段を下りれば下りるほど、布越しにでも往来の音が聞こえてくる。

 ――お願い、誰か助けて!

 フィオンは目を閉じて必死に祈るが、警報機が鳴る様子もなければ、誰かに呼び止められる気配もない。

 人通りも少ない時間帯では、目撃者さえ望めないだろう。


 階段を駆け下りる振動が止まったかと思うと、ランド・モービルのエンジン音とドアが開く音が聞こえた。そして、フィオンは荷物のように車内へ押し込まれる。

 彼女を乗せたモービルは、乱暴な速度で夜の街へと消えていった。

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