02.突然の来訪

「ああ、もうっ」


 フィオンは、その小柄な身体からだをベッドに投げ出した。

 枕に顔をうずめてバタバタと足を動かしてみる。それでも気分が晴れるどころか、ますます憂鬱になるばかりだった。

 ごろりと寝返りをうてば、それに合わせて長い髪がベッドの上に広がる。

 夜空の下では青白い光をたたえているように見えたその色も、今ではどこかめて見える。


 フィオンは悔しさのあまり涙を浮かべた。

 その涙が、枕をじわりと濡らす。

 ――あの曲は、とても大切なものだった。

 有名な作詞家であるエイサ・エトワールが歌詞を提供してくれたのだ。

 歌詞のデータを受け取った日、緊張で手が震えたことを今でもフィオンは覚えていた。

 何度も歌詞を読み込み、自分なりに解釈を深め、時間の許す限り練習を重ねて、万全の状態でリハーサルを迎えたはずだった。


 それなのに、夜空の下であの曲を歌ったとき、ふと故郷のことを思い出してしまったのだ。

 不安で足がすくみ、うまく呼吸ができなくなり、あんなに読み込んだはずの歌詞も頭から抜けてしまった。

 そうして気がつけば、暗闇の中で呆然としていた。

 もしこれが本番のステージなら、目も当てられない。リハーサルだって後日にずれこんでしまった。


 マネージャーやスタッフたちはかわるがわる慰めの言葉をかけてくれたが、それでもフィオンの気が晴れることはなかった。

 収録を終えてからもう二時間は経つというのに、彼女はずっとホテルの一室にこもってふさぎ込んでいた。


 そのとき、ふいに部屋の扉がノックされた。

 フィオンは枕から顔だけ上げて、そちらへ視線を向ける。

 不在なのかと問うように、再びノックの音が聞こえた。少し悩んでから「どなたですか」と声をかけてみる。

 返ってきたのは思いがけない言葉だった。

「エイサ・エトワールだけど。お邪魔だったかしら」


 フィオンはベッドの上に飛び起きた。

 一瞬聞き間違いかと思ったが、たしかにその声は『エイサ・エトワール』と名乗った。それにフィオンは彼の声を。間違いない。本人だ。

 なぜ作詞家のエイサがこんなところにいるのだろう。――いや、彼がここにいる理由はひとつしか思い当たらない。彼はおそらくリハーサルの様子を見ていたのだ。あるいは、どこかでフィオンの失態を聞きつけたのかもしれない。


 自分が作詞した曲を、歌姫が最後まで歌わなかった。

 その事実を知って彼はどう思っただろう。

 呆れただろうか。落胆しただろうか。

 彼はここへ苦情を言いに来たのだろう。あるいは、「もう二度と歌詞の提供はしない」と言いに来たのかもしれない。それだけではなく「今回歌詞を提供した曲も二度と歌わないでくれ」などと言われたらどうしよう。


 ともかく、これ以上印象を悪くするわけにはいかない。事務所にも迷惑がかかってしまう可能性がある。

 ここは、自分がうまく対応しなくては。

 そう決心し、フィオンは涙をぬぐい、震える手でドアノブをつかんだ。


 おそるおそる扉を開くと、そこには身長2メートル以上はあろうかという大柄な男性が立っていた。

 もっと大型の種族は他にいくらでもいるし、宇宙中のどこでもよくみかける二足歩行タイプだが、極度の緊張状態におかれたフィオンにとって、彼が見上げるほどの身長であることに変わりはなかった。


 エイサは濃紺のジャケットと淡いスカイブルーのシャツを着込み、金髪を短く刈り、耳には星型の大きなピアスをつけていた。

 彼は砂糖の入っていないコーヒーのような色の瞳で、じろりとフィオンを見下ろした。

「ごきげんよう、歌姫」


 丁寧に発音されたその言葉は、同時に鋭い緊張感をもって耳に届いた。

 誰だって、せっかく提供した歌詞をあんなふうにないがしろにされて気分を害さないわけがない。

 フィオンは慌てて頭を深く下げた。


「……ごめんなさい!」

 長い髪が床の上にだらりと垂れたが、構わずフィオンは思いつく限りの謝罪を並べる。

「せっかく歌詞を提供していただいたのに、リハーサルとはいえ途中でうまく歌えなくなってしまって……がっかりさせてしまって、本当にごめんなさい。すべては私の力不足のせいです」


 頭上から、エイサのため息が聞こえてきた。

「……フィオン・フィオナ・フェクタ。あなたは宇宙で一番の歌姫だと聞いていたから、こちらとしても喜んで仕事を引き受けさせていただいたのだけれど――、」

 とんだ買い被りだったみたいね。

 そんな言葉が聞こえてきそうで、相手がそれ以上何か言うよりも先にフィオンはさらに深く頭を下げて謝罪を続けた。


「本当に、本当にごめんなさい! もう絶対に二度とこのようなことがないようにします!」

 ふたたび、エイサのため息が聞こえた。

「……そんなに気安く『絶対』なんて言うもんじゃないわよ」

 その語調は、怒りというよりは呆れているようだった。


「お願いします! どうか、また貴方の言葉を歌わせてください!」

「……謝罪の声まで美しいのねえ」

 それ以上何も言えなくなり、フィオンは頭を下げた姿勢のまま固まっていた。


 そのとき、部屋の外からマネージャーであるグリーズの声が聞こえてきた。

「エトワール先生。このたびはフィオンがたいへん失礼いたしました。このとおり本人も深く反省しております。今回だけはどうかお許しいただけないでしょうか。わたくしからも深くお詫び申し上げます」


「……反省、ねぇ」

 その言葉を咀嚼そしゃくするようにくり返し、エイサは頭を下げたままのフィオンに声をかけた。

「どうやら本当にお邪魔だったみたいね。約束もないのに突然訪ねてきて悪かったわ」

「……いえ」

 フィオンが首を横に振ると、ふたたびグリーズの声が聞こえた。

「恐れ入りますが、どうか今日のところはお許しいただけないでしょうか……」

「心配なさらなくて結構よ。日を改めるわ」

 エイサのその言葉を最後にして、部屋の扉が静かに閉められた。


 全身の力が一気に抜け、フィオンは床の上にぺたりと座り込んだ。

 呆然としているうちに涙があふれてきて、絨毯の上にぼたぼたとこぼれてゆく。

 部屋の外からはまだエイサとグリーズの声が聞こえる。

 会話の内容までは聞き取れなかったが、声の調子からグリーズがエイサに謝罪を続けているようだった。


 フィオンは唇をかみしめる。

 エイサ・エトワールは宇宙中にその名をとどろかせる作詞家だ。彼はこれまでに数えきれないほどのヒット作を生み出してきた。

 その名高い作詞家を、失望させてしまった。


 気難しい性格だとは聞いていたが、彼が目の前に立っているだけでビリビリと痺れるような緊張感に包まれた。

 もし今回の失敗が今後の歌手活動に影響してしまったらどうしよう、せっかく歌声を聞いてもらうために歌手になったというのに。

 そう思うと、また涙があふれてくる。


 そのとき、どこからかかすかな音が聞こえた。

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