ダライ・ラマの眼鏡

呂句郎

めがね

 いいね。

 四時ちょうど?

 では、テケテンテン……。


 もう、落語というものは、つまらないものです。

 自虐じゃないですよ?

 明らかに斜陽だ。

 こんなね、めんどくさい着物着て。

 でも、ジャージってわけにもいかないでしょ?

 だから着物着て、こうして来るんです。

 高座なんてね、えらそうに、すみませんね、上からねえ。

 たった三千円を払ったあなたたちは、そもそも、きっぱり、ヘンタイです。

 あたしは経験ないのですが、どの大学にも、落語研究会というのがある。

 オチケンといいますな。

 たいてい、オチケンにいるやつは、面白くなくてね。

 才能もなくて勉強もしない、いわば、馬鹿だ。

 でも、連中は、楽しい思い出を作って、役所やら会社などへと、就職していき、けっきょく、あたしらのような、おめおめと着物着て、なんか話してるのが、よほど馬鹿でして。

 まあ、そういうもので。


 でもそんなところ、寄席なんてところにね、何千円かしらないけど、払って入ってくる、お客様のほうが、わるいけど、大馬鹿です。

 さて、あたしらのギャラ、報酬は、ワリというのです。

 つまり、さっき出てきたタダモト亭みたいなんてのは、三百人も集めてしまって、前座とはいえません。

 さーっとお客が、いなくなったね。

 あたしくらいになるとね、ひいふうみい、だなんて、数えはしない。

 パッと見て、あ、百と五人、あ、逃げた人が二つ、と、こう見える。

 あれは、いまもやってるんですかな。

 紅白歌合戦の。

 いや、テレビがデジタルになってしまったでしょう、だからあたしゃしばらくテレビがないの。

 あの『野鳥の会』とやらの人達の、赤白数える……あ、ない?

 ないのね。

 だったら、あたしの目のほうがいいわ。

 あ、いままた、ひとり逃げた。

 だから、百と二人だね。

 じゃ、一〇二人むけの話をこしらえましょう。

 あとふたり消えたら、きっかり一〇〇なんだけどな。

 だれか逃げない?


 ダライ・ラマという人を、ご存知でしょうな。

 知らない人はいない。

 チベット仏教の偉い人、とてもとても偉い人なんですよね?

 このひとが、けっこうあんがい、大勢の人と会っている。

 一年間に千人というんだから、一日に三人かという計算ですわな。

 あたし、じつは、会ってきたんですよ。


「おい、二郎や、いるかい」

「あい、おりまする」

「ダライ・ラマに会ってこい」

「ほえ?」

「ダライ・ラマ法王さまだよ、仏教のさ」

「うん」

「その、えらーいお方が、この深川の霊厳寺れいがんじに来てくれるそうだよ」

「それはありがてえことですね」

「そこでだよ。ダライ・ラマから、密かな指令を受けているのだ、この長屋が」

「えっ! 指令? 怖いなあ」

「そうよ、怖いだろ? わたしも怖い」

「で、なんで俺に?」

「おまえだからいいんだよ」

「なんで?」

「ぼさーっとしてて目立たない」

「ヒドイなあ」

「ひどくないさ、あのな? おまえ、わかってるのか?」

「なによ?」

「チベット仏教の」

「タライまわし?」

「いいねえ。いいわ、二郎よ」

「そんなにいいかい」

「うん、実にいい」

「どこがいいの」

「ばかなところ」

「うん」

「で、ダライ・ラマ法王さまには、秘密の目的があるんだ」

「どんな秘密? おれ怖いよ」

「ここにな、長屋のみんなから集めた十万円がある」

「うわあ。怖い。やだ」

「おまえ、それで、買い物をしてこい」

「やだ、やだよ、怖いよ、十万円とか」

「大家としての、命令だ。かわりに、家賃、ただにしてやる」

「ただって! おれ、三月ばかり溜めてて」

「それ、チャラにしてやるよ」

「ほんとかい」

「うん。家主には内緒だぜ? わたしのヘソクリだ。二言はないよ。えっへん」

「ぷぷぷ。エッヘンだとさ」

「ん? なんか言ったか?」

「いえいえ何も」


 と、当時は、大らかというのかそれとも強権的というのか、なんだか、懐かしいものでございますな。

 深川の霊厳寺というのは、いまもしっかりありまして、「れいがんじようちえん」なんて、ちょっと怖いような名前ですがね。


「とにかく、おまえの使命はだ!」

「へい」

「上野で、ダライ・ラマのメガネを買ってこい」

「メガネ?」

「そうだ。ダライ・ラマさまは、悟りを開いていらっしゃるのに、メガネだ」

「はあ」

「これみろ。ダライ・ラマ様の写真だ」

「はい。なんか派手な服をきたジジイ」

「ばかもん!」

「すんません。で、十万円で、このジジイの」

「ばかやろう! ダライ・ラマ法王さまが、おまえ、霊巌寺にいらっしゃるのだぞ」

「はい。では、上野でメガネを買ってきますよ、このジジイの」

「ばかもん!」

「はい、たらい回しさんのメガネね」

「うん。そんだけわかってればいい」

「どんなメガネがいんでしょうね」

「それあ、十万円相当のやつよ」

「黄金とか?」

「うむ。でも、黄金は重そうだなあ」

「なら、サンゴとか」

「いいなそれ」

 というようなわけで、二郎は上野の高級眼鏡店にちゃんと行きましてな。


 あ、そこの、ご婦人。

 眠ってるのビッチ?

 あ、起きてたのね。


 さて、二郎が買ってきたのが、赤珊瑚にダイヤモンドが埋まった、とてつもないシロモノでございました。

「大家さん、こんなのでどうだろう」

「ああよかった。おまえさんにゆかせて」

「そうですか。なぜですかね」

「打ち明けていうけどな? おまえくらいこんな、馬鹿げたメガネは買ってこないよ」

「おれが馬鹿ってことかよ」

「いやいや、そう言うな。馬鹿とハサミは使いようとナ」

「なんでい」

 ともあれ、二郎はバカな律義者ですから、領収書なんてもらわない代わりに、

「大家さん、二千円、おつりです」

「ああ、それは駄賃だよ、とっておきなさい」


 あれ? そこのお嬢さん、寝てるかねビッチ? ニエット?


 あれは、一九七〇年のことでございますナ。

 ときの首相は、中曽根康弘なかそねやすひろ

 ダライ・ラマとは、いや、ここだけの話、噛み合ってはおらんでしたな。

 かたや、もと海軍の将校、一方は世界平和をいう人。

 だけど、オレンジ色の、半裸でございまして。

 いやいやいや、よくお似合いでございましてナ


 深川の霊厳寺は、もう、とんでもない人混みです。

 その前日、音羽の護国寺を参られた、世界の仏教の頂点の人が、こんどは、いっちゃ悪いが、深川に降りてくださるというので、もう、下町はめっちゃくちゃでした。

 ダライ・ラマ師は、しずしずと、霊厳寺を参られて、そこで、あの二郎のメガネです。


 大家の上に家主というのがいまして、これがほんとうの権力者だ。

 紫色のふくさの上に、赤珊瑚とダイヤモンドのメガネをこう、載せましてな。


「法王さまー、どうかその貧乏臭いメガネをやめて、このリッチな赤珊瑚とダイヤモンドのを、おかけくださいましー」と。


 ト、ここで、あたしは法王と似たようになるんだ。

 なんでもひと目で見えてしまう。

 あ、今一人、変なとこで入ってきちゃったひとがいるから、まあ、一〇一でいいか。

 でも、ダライ・ラマとなると、あたしなんかとは、桁がちがうから。

 ばーっと、千人くらいの人は、もう見えちゃう。

 一万人でも見えるでしょうな。


 メガネをさっと外したものだから、家主、興奮した。

 が、ダライ・ラマは、そんなとこ見てないの。

 チベット語ではなく、きれいな英語でしたよ?

「あそこにいる、赤い服を着た少女を、ここへ連れてきてください」と。

 それは、霊巌寺の境内の隅っこにいた、実に汚い、いっちゃ悪いが、垢だらけの少女で、赤と垢の間違いではないのかってもので。


 法王がおっしゃったことが、記録にあるんですよ?

「わたしは、めがねをかけていようがいまいが、すべてがみえる。

 少女よ、おまえは貧しいようだね。

 ここに、赤珊瑚とダイヤモンドのメガネがあるので、みんなが証しするまえで、あなたにこれをあげよう。

 わたしがもらったものだから、わたしはそれを自由にあなたにあげるのだ。

 幸せになりなさいね」


 家主と大家と二郎は、ずっこけた。


「ダライラマも、めがねえなあ」


 おあとがよいようで。

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ダライ・ラマの眼鏡 呂句郎 @AMAMI_ROKUROU

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