終わらないうた

増田朋美

終わらないうた

終わらないうた

今日は一部の地域では、九月にしては割と涼しく、穏やかに晴れている。しかし、九州のほうでは、台風が上陸したと言って騒いでいた。杉ちゃんたちが住んでいる静岡県富士市では、台風は上陸していないものの、なぜか極端な大雨が降って、中には車軸を流すような大雨になるところも在った。ほかの地域では降っていないのに、ある地域だけバケツをひっくり返したような雨が降る。美しい入道雲がわく空も、恐怖の対象になってしまうのであった。

幸い、杉ちゃんたちの住んでいる地域では、雨が降っても深刻な被害は免れたが、ほかの土地では落雷のせいで長時間停電している所もあるようであった。とりあえず家の中に食料が何もないということで、杉ちゃんとジョチさんはスーパーマーケットに行った。

「あれえ、もうスーパーマーケットは、当の昔に開店しているはずだぜ。」

と、杉ちゃんが言う通り、スーパーマーケットは、開店していなかった。周りには人がたくさんいて、何かブツブツ文句を言っている。それに、店長が、一生懸命申し訳ありません、申し訳ありませんと頭を下げながら応答している。

「はあなるほど、停電のせいで店が営業できないってことですね。まあ確かに、今日の大雨はすごかったですからね。」

と、ジョチさんが言った。

「じゃあ僕たちは、どこで食料を買ってくればいいのさ。まさかと思うけど、ほかのところもやってないということはないだろうね。」

と、杉ちゃんが言うとジョチさんは、タブレットを取り出して、営業している店舗を調べてみた。その結果。富士市の店舗は休業しており、隣の沼津市の店舗なら営業しているらしかった。沼津であれば、停電はとくにしていないらしい。

「よし、沼津へ行こう。」

と、二人は、小園さんの運転する車に乗ろうとした。その時、

「お前らはなんで、営業を怠慢しているんだ!だってこういう時こそ、スーパーマーケットとして役に立つ時なんじゃないのか!」

と、中年の男性が怒鳴りつけている声が聞こえてきた。

「またあのひとですか。」

と、ジョチさんがちょっと、ため息をつく。

「あの人って誰だ?」

と杉ちゃんがきいた。

「ええ、鰭崎紘です。鰭崎という変わった名字なのでよく覚えております。そういう災害の時に現れて、大声で店を脅して、金をせびる男ですよ。」

「へえ、変わったやつやな。」

杉ちゃんは、ジョチさんの答えにそういった。

「変わったやつというか、人権感のほとんどない人です。いざというときはああして怒鳴り散らして、お金をせびっているようですけれども、普段は、大渕で漢方薬局をやりながら、お客さんにデリカシーのない発言をして、非常に迷惑しているお客さんが多いと聞きましたよ。まあ、医学関係の事だからなんでも聞くと本人は言うそうですけれども、女性であれば言いたくないことを言わされるのはちょっといやでしょう。」

ジョチさんが顎で示している方向には、一寸小太りで、顔を無精ひげで覆った男が、店長に大声で詰め寄っているのが見える。確かに、声が大きな男というのは、かっこいいと思う若者もいることには

いるが、大きすぎて怖いというひとも少なからずいると思う。

「とりあえず、沼津へ行きますか。あんな、口ばっかり大きくて、何もない男に絡まれるのも嫌ですから。」

と、ジョチさんと杉ちゃんは小園さんの運転していく車に乗り込んだ。とりあえず、車に乗って沼津市にあるスーパーマーケットに行く。途中、ちゃんと信号機もついているし、スーパーマーケットの明かりもしっかりついている。それにこの時期一番大事なエアコンが、しっかり運転されているのが、まるでありがたくて仕方なかった。とりあえず、必要な食べ物はすべて買い、小園さんの運転している車で富士市へ戻ることにした。

「なんだか停電はいつまで続くのかなあ。」

と、杉ちゃんは車の中でつぶやく。

「こればかりは僕たちにもわかりませんね。まあ、どうなる事やらですけど。」

とジョチさんはちょっとため息をついた。しばらくして、先ほどのスーパーマーケットの前を通りかかると、何やら、大きな声で誰かが演説しているのが聞こえてきた。

「あああの、鰭崎紘ですね。」

とジョチさんはあきれた顔をする。

「時々あの男はそういうことをするんです。何か災害があるたびに、ああして演説して、不安をあおって、自分の薬を買えば、強くなれるとか、そういう風にあおるんですよ。まあ、それが違法薬物じゃないから、警察も動かないだけですけど、彼のつくった漢方薬を乱用しすぎて、肝心の病気を悪化させてしまった人が、何人もいるって聞いてますよ。」

「なるほど。なんだか新興宗教みたい。そういうの。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「ええ、ほんと、困りますよ。時々いるんですよね。不安をあおるだけで、何も役に立たないというか、予言者でもあるまいに、天変地異がどうのとか、そういうことを言う人。」

「それで、僕たちの食料はどうなるんだろう。」

ジョチさんがそういうと杉ちゃんはいきなり真顔になってこういうことを言った。

「そうですね。しばらく沼津へ通わなければならないかもしれませんね。まあ、戦時中と違って食料が配給にならなくなっていると考えれば、まだましですよ。」

「そうか。実に不便だな。これからは食料を買いにわざわざ沼津へ行かなくちゃならないなんて。」

「そうですね。まあ、停電が開通するまではいたしかないですよ。」

杉ちゃんとジョチさんは、そういうことを言い合っていると、いきなり小園さんが、

「いつでも車はありますよ。」

とぼそりと言った。

ちょうどそのころ。杉ちゃんとジョチさんが、沼津へ行っている間の事であった。そのころ、大渕では、線状降水帯なるものが居座っていて、文字通りバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。

お昼過ぎ、由紀子が製鉄所にやってくると、四畳半からまたせき込んでいる音が聞こえてきた。由紀子はすぐに音の主がわかって、四畳半へ直行する。やっぱりせき込んでいるのは水穂さんである。でも、出すべきものが出ない。つまり杉ちゃんの言葉を借りて言えば、「出すもんが詰まった」のである。

「水穂さんしっかりして、目を閉じちゃダメ!」

由紀子は一生懸命水穂さんの体をさすったり、背中をたたいたりしたが、水穂さんの出るべきものは出ない。

「しっかりして、目を閉じないで!」

由紀子は、せき込んでいる水穂さんに言った。でも、水穂さんは一生懸命はき出そうとしているが、出すべきものは出なかった。ただ、せき込んでいるだけなのである。痰も何も出ないのであった。ただ、胸を押さえて、苦しそうにせき込んでいるだけである。意識はあるらしく、由紀子がしっかりしてと語りかければ、うんうんと頷いてくれるのであるが、間もなく其れもなくなってしまうのではないかと思われた。

その時、ピカピカっと電が光って、雷がゴロゴロドシーンという音を立ててなった。空は真っ暗になり、昼間なのに真夜中と思われるような暗さだった。電気スタンドのスイッチを入れてもつかなかった。そうなると、痰取り機は使うことができないなと由紀子は確信した。由紀子は電が光り続けるのを見て、少し怖くなった。九州のほうでは台風が来ているというが、それと無関係なところでこんな大雨が降るなんて思いもしなかったから。予測すらできなかったからである。驚くというより、怖い方が大きい。ほかの製鉄所の利用者たちは、学校や仕事に行っているものが多く、製鉄所の中に居る人は誰もいなかった。多分、同級生の家に避難させてもらっていたり、学校や企業で其れなりの対策をとってくれているのだろう。いま、水穂さんの世話をできるのは、自分だけなのだと、由紀子は思った。

「あたししかいないんだわ。」

由紀子は一人、そういうことをつぶやいた。

水穂さんのせき込む声はだんだんに小さくなっている。由紀子はスマートフォンをとって帝大さんの番号を入力した。でも、その時はつながらなかった。もしかしたら、停電のせいで、電話線が着れているのかもしれない。いずれにしても、帝大さんを呼び出すことはできなかった。帝大さんがスマートフォンを持ってくれればいいのになと思うのだが、もうお年寄りだから、こういうことはできないと思った。年よりは、そういうところで優遇されてしまう。そういうところが由紀子はいやだと思うのであった。それに、救急車を呼ぶことは、もっといやだった。呼んだとしても、同和地区のひとだとばれてしまったら、受け入れてくれる病院も大幅に減ってしまうことは、知っていたからだ。そうやって、たらいまわしにされていたら、水穂さんはその間に息絶えてしまうことだって、十分にあり得た。そうなっても、そちら側に責任を問うことができないということが、同和問題というものだ。その間に、大雨は、これでもかというばかりに降り続ける。やがて、富士市の放送が流れ始めた。土砂災害危険区域に住んでいる人は、速やかに安全な所へ避難するようにという内容であったが、由紀子は、そういうところにも、水穂さんはいけないということも知っていた。どこの避難所も、病院も、「普通のひと」のためにできている。「特殊な人」のためではない。日本は水穂さんのような少数民族にはけっして優しい国家ではない。むしろ徹底的に排除し多数派のみが助かるという国家である。それはずっと昔から変わらないことでもある。多数派になれる基準は二つ。生活のためにお金をつくる能力がある事と、他人に迷惑をかけない能力があること。この二つだ。それがどちらか一つでもできない人は、大変な苦労を強いられるのが、日本というところなのである。

由紀子は、水穂さんが多数派ではないことはちゃんと知っていた。水穂さんをそんな目に合わせて死なせたくなかった。もしかしたら、それこそ水穂さんのような人にふさわしいと批判する人もいるかもしれないけれど、由紀子はそうしたくなかった。たとえみんなの幸せというのは、多数派だけが作っているとしてもだ。

由紀子は、水穂さんを死なせたくないことを自分の意志で固めた。そして、とりあえず、水穂さんの気管に詰まっているものを出してしまえばそれでいいのだという事も知った。そうすれば、水穂さんは苦しがらないに違いない。今ここにある痰取り機は、停電で使えない。でも、詰まっているものをとれば助かるのだ。其れさえできれば、自分は悪人でもよいのではないか。由紀子はそうおもった。

それではそうしようと思って由紀子は行動に移すことにした。必要なものは、とにかく中身を出させる薬品である。確か帝大さんが、以前にも同じような症状を出した時、処方しいていた薬があった。それは名前を、吐根といった。別名をイピカックという生薬だ。幼いころ読んでいた赤毛のアンという大好きな小説の中にも登場しているから、覚えている。そのイピカックを煎じて飲めば、気管に詰まった内容物を吐き出すことを促す作用がある。

よし、これを使ってしまえばよい。と由紀子は思った。とにかく近くの医療機関や薬局に駆け込み、分けてもらおう。由紀子は、一寸待っててとだけ言って、猛ダッシュで玄関からはだしのまま外へ飛び出した。誰かにどこへ行くんだと聞かれたような気がしても、返答しなかった。のんびりした声で、そこの女の子、安全なところに逃げろ、危ないよなんて誰かが言っていたようだけど、聞こえなかった。

数百メートル走ると、「鰭崎薬局」と看板のある建物の前へ出た。建物はボロボロで、トタン屋根を置いただけの、本当に今にもつぶれそうな建物であったが、とにかく、薬品を売っているところであることは間違いなかった。というのは、入り口に、漢方薬ありますと書いてあったからである。入り口の戸は、きっとカギをかけたつもりだろうけど、すでに開いていた。急いで由紀子はすみません!と叫びながら入るが、その中に誰も人はいなかった。その代わり、目の前の棚には、意味不明な名前の薬が、大量に置かれていた。その片隅に、由紀子のほしい薬はちゃんとあった。「イピカック」である。しかもシロップ状になっていて、これを飲ませれば、催吐作用があり、詰まった痰などを除去できると書かれていた。由紀子は、金を払うのも忘れて、その瓶をむしり取った。そして開けっ放しにしていた正面玄関の入り口から外へ飛び出した。其れと同時に薬局のトタン屋根が、ガラガラドシーンという音を立てて、売り場に崩れ落ちた。由紀子は、そんなことはどうでもよく、はだしのまま、製鉄所に向かって、すっ飛んでいった。

由紀子が製鉄所に飛び込むと、水穂さんのせき込む声は、もう弱弱しく、小さくなっていて、これでもし放置していれば、本当に逝ってしまうかもしれないと思われた。水穂さんと声をかけても、反応はしなかった。由紀子はずぶぬれのまま、瓶を開け、水穂さんの体を抱え起こし、

「お願い、これを飲んで!」

と、瓶の中身を無理やり水穂さんの口に押し込んだ。もう声をかけても反応しないところから、飲んではくれないと思ったが、由紀子には確かに聞こえた。グイっと、液剤を飲む音。これが由紀子には天からの声のような気がしてしまった。でも、確かに聞こえたのである。液剤は、その通り、瓶から姿を消していたから。

由紀子は、瓶を水穂さんの口元から離し、ひたすらに水穂さんの背中をさすり続けた。すると、水穂さんは、前より激しくせき込んだ。ちゃんと効いてくれるだろうかと由紀子は思ったが、口元から、赤いものが流れてきたので、急いで由紀子はタオルを口元に当てる。そうするとちょうどいいタイミングで水穂さんはせき込みだし、赤いものが勢いよく出てきた。ちゃんと、タオルをあてがっていたので、布団を汚す事はしなかったし、着物も汚すことはなかった。とりあえず、出るものは出るだけ出してしまおうと由紀子は、水穂さんの背中をひたすらにさすった。水穂さんは、しばらくせき込み続けていたが、しばらくすると、静かになった。そのあと聞こえてきたのは、たぶん、疲れてしまったのか、それとも、薬に吐いた後、眠ってしまう成分があったのかもしれないが、静かな寝息であった。由紀子は、水穂さんを布団の上に寝かせてやり、良かったわ、よく眠って頂戴ね、とだけ言い、水穂さんにかけ布団をかけてやる。水穂さんが静かに眠りだして、数分後、雷はどこかへ行ってしまったらしく、小さくなっていった。先ほどの雨も、静かになっていった。そして、周りは少しづつ明るくなっていって、また前のような、穏やかな晴れになった。由紀子は、改めて、薬の瓶を見つめる。自分は悪いことをしただろうか。でも、これのおかげで、愛する人は、命を奪われずに済んだのだ。それは、大いに感謝したいところだ。それでもやっぱり私は、窃盗犯になってしまうのだろうか、、、?

急にガラガラと音が開いて、製鉄所の玄関の戸が開いた。由紀子は、それに気が付かなかった。応答することもしなかった。由紀子が気が付いたとき、隣には、杉ちゃんとジョチさんが、こんにちはと言って、四畳半に入ってきた。

「やあ、すごい雨だったねえ。大雨警報が解除されたっていうから、見舞いに来たんだけど、その濡れ方から言うと、尋常じゃないみたいだな。」

と杉ちゃんがカラカラと笑いながら、由紀子に声をかけた。一方ジョチさんのほうは、部屋の中を鋭い目つきで見つめて、何か起こったのか、顛末をわかってくれたようである。水穂さんは、出せるものが出せたので、楽になったのか静かに眠っていたのだった。

「由紀子さん、ありがとうございました。あの停電の中で、大変だったでしょ。女性が一人で、大雨の中、苦労させてしまってすみません。」

とジョチさんがそういうことを言うので、由紀子は一気に涙が出た。杉ちゃんがどうしたんだよと言っても、応えることができなかった。

「由紀子さんどうしたんですか。こういう時はちゃんと成文化してもらわないと。僕たちは何が起きたのか、判断がつかないです。」

とジョチさんが凛々しい表情でそういうことを言った。でも、その顔はもう何が起きたか理解してくれているようだ。なぜなら、あの小さな瓶は、すでにジョチさんの手中にあった。

「私、盗んでしまったんです。鰭崎薬局と書いてある、薬局に忍び込んで、、、。」

と、由紀子は泣きながらやっとそれだけ言う。

「ああ、いいんじゃないの。」

と杉ちゃんが、また笑い顔でそういうことを言うので、由紀子は、思わずぎょっとした。

「多少懲りた方が良いよ。あの鰭崎薬局とか言う奇妙な名前の薬局の男は、けっして人間的に優れている男じゃないもの。だって、スーパーマーケットの前で、薬を飲めば精神が強くなって、この災害を乗り越えられるとか、あほくさいセリフを言っているんだ。そういうやつだもん、偉い奴じゃないさ。」

杉ちゃんがそういうと、ジョチさんも同じように苦笑いした。

「そうですね。あの鰭崎という人は、僕たちにも、由紀子さんにも、水穂さんにも決して有能な人ではありませんよ。其れよりも、ただ、不安をあおって、自分売り上げを伸ばしたいとかしか、考えてない男ですよ。そんな男が、人を救うことなんてできやしませんよ。ただの詐欺師と同じようなものです。」

「そ、そうなんですか。私が、薬を盗み出した後、確かトタン屋根でしょうか、ガラガラと落ちるのが聞こえました。私は、無我夢中でしたので、その薬局がどうなったか、まったく知りませんが。」

と、由紀子がそういうと、杉ちゃんが手を叩いてげらげらと笑いだした。ジョチさんも、一寸苦笑いした。

「ほらあみろ。そういうひとをだましてばっかりいるからよ、一番大事な家をぶっ壊されてしまったじゃないか。僕たちは、スーパーマーケットの前で、そいつの話を聞いてみたけど何もためにならなかった。ただ不安をあおるような話しはやめろと言いたいよ。」

「そうですか、トタン屋根の家に住んでいたのなら、その人もさほど、いい生活をしていなかったことになりますね。それが、彼を、虚偽の世界にやってしまったのかもしれません。いずれにしろ、鰭崎は、上機嫌で帰ってきて、これから大打撃を受けることは間違いありませんよ。」

二人がそう行っている間、由紀子はこれだけはちゃんとしなければならないと思った。

「私は、盗みをしたことになるんでしょうか。」

それを口にすると、杉ちゃんも、ジョチさんも顔を見合わせた。

「いやあ、どうかな。」

「そうですね。確かにしたことは悪事かもしれませんが、鰭崎がこれまでしてきたことを考えると、度合いが違うと思いますね。鰭崎が、もし、ゆすってきたとしても、毅然としているのが大切なんだと思います。」

由紀子は、畳の上に突っ伏して泣き始めた。水穂さんだけが幸せそうにすやすやと眠っていた。



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終わらないうた 増田朋美 @masubuchi4996

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