お悩み相談所

@almonb

第1話

 「…メンタルケア、ですか」

念願だった役場に勤務が決まった初日、与えられた仕事はこれだった。上司に案内された先にいた、私の担当係であると言う女性の梶は私に言うのである。彼女が私に語った仕事内容はとても簡単で、しかしよくわからなかった。主な仕事は言った通りのメンタルケア。それも、学生や未成年を対象としたものであった。いわゆる『子ども相談所』のようなものらしい。元々学校のアンケートなどでも自殺志望者が多く見受けられるという噂は聞いたことがあるし、私の友人にもそういう人がいた。こんな対策をしているとは知らなかったが、まぁ妥当なことだろうと思う。毎日毎日、数十、数百という相談がこのスマートフォンに送られてくるというのだ。それを私たちが捌く。捌くという言い方は悪いかもしれないが、本当にそういう作業なのだそうだ。

「うん。えっと…牧ちゃんが担当するのは一度に一人。相談事が解決するか、相談者さんが満足するか…私たちが切られるかってなったときにその人の担当は終わり。何人かと同時に話すとかはないから安心してね」

彼女は私のネームプレートを確認して、おずおずと私の名前を呼んだ。この仕事はもしかすると残酷なのでは、と思った。何故って、私たちが切られる。その発言に少しドキッとしたのだ。相談する相手が気に入らないからと、向こうから相談を取り止めることもできるのである。それはそれで気になるのであるが、私が今気になっているのはそこではない。

「あの…えっと…」

私が言葉に詰まっていると、梶さんはん?と優しい笑顔で促してくれた。私はそのまま続ける。

「こういうのは心理カウンセラーの方とかの仕事じゃないんですか…?履歴書に相談事は得意って書きましたけど…」

もしも万が一の事態になったら。そんなお門違いな心配を口に出すことはできなかった。確かに、得意なことは相談に乗ることと書いたのだ。しかし実際は友人からの相談に数回乗っただけで、結局解決できたかどうかすら怪しいくらいであった。そんな私が、人の命を左右する立場に立ってもいいのだろうか。そんなことを思ってしまった。

「あー、それは大丈夫!」

彼女は私の心配に気づく素振りすらなく、明るい声音で答える。

「一回心理カウンセラーさんが判断して、私たちでも力になれそうな相談者さんの相談だけに乗るからね!」

私の不安を取り除こうとしてのことだろうが、それが払拭される気配はなかった。むしろ責任がより重くなった気がして、気持ちは沈んでいくばかりだった。なんとなく目の前のスマートフォンを手に取る。手に取ってみると、それは自分のものよりも軽いことがわかった。最新の機種のようには見えないが、それほど古いようにも見えない。というか、初めて見る機種である。側面に付いたボタンは一つだ。きっと電源ボタンであろう。スマートフォンの前面全てが画面になっており、ホームボタンと呼ばれるものはなかった。異様に薄い板を手に取り、側面のボタンに手を置く。あ、なにか連絡きてるかも。そう言う梶さんにつられて、電源ボタンを押した。画面上に見たことのないローディング画面が表示される。本当にこの用途だけで作られた新型のスマートフォンなのだろうか。彩度の低い七色が、画面内をゆらゆらと不規則に動く。それをぼんやりと眺めているうちにローディングは終わったらしく、画面の中心から明るい青緑が広がった。円形のまま広がったそれは、どうやらホーム画面の背景らしかった。緑がかった青の海と、雲ひとつなく真っ青な空。それが背景らしい。とても綺麗な風景だと思った。海外の海だろうか、こんな綺麗なものは見たことがない。それを隅々まで見ようと思ったその時、梶さんが口を開く。

「うん、やっぱり相談きてるね」

梶さんの目線を辿る。目線の先にあったのは、アプリのアイコンのようだ。右上に赤い丸が付いている。それは淡く光り、私に通知しているようだった。アプリ自体は、私の知らないものだ。しかしどこかで見覚えはある。なにかのオマージュだからなのか、それとも単純に知っているけど思い出せないだけなのか。それはわからなかった。そのアプリをタップしようとした私の手を、隣の先輩の声が止める。

「牧ちゃん牧ちゃん」

突然の声にびっくりして肩を揺らしてしまう。彼女はそれを見て少し笑いを漏らしながら言った。

「まずは設定終わらせちゃおっか。ほら、開けなくなると困るから」

彼女が画面を二回タップした。そうすると、新しい画面が表示される。上に大きく『設定』と書かれていることから、設定の画面なのだとわかった。梶さんの指示で、色々ある項目をスライドして探っていく。

「あ、ストップ」

彼女の合図で手を止める。そして言われるがまま、パスワードと書かれた項目を開いた。私のパスワードは、『七一ニニ』の四桁らしい。理由はあるらしいが、それは牧ちゃんが先輩になったら教えてあげる、と梶さんに言われたので深くは聞かなかった。電源ボタンを押して、一度画面を閉じる。そしてまたすぐに開く。パスワード認証の画面になったので、さっき設定したパスワードを入力した。無事にホームが表示されたので、ほっと息をつく。

「…牧ちゃん、用心深いんだね」

隣の先輩が感心したように言った。周りの人があまりしないことであるのは自覚していたが、感心されるとは思わなかった。

「あ、いえ…普段注意不足で色々失敗しちゃうことが多いので…」

私はそう言いながら、件のアプリをタップした。また表示されたパスワード認証画面に、先程と同じパスワードを入力する。画面は滞りなく開いた。見覚えがあるようなトーク一覧に、一つだけアイコンがある。『no image』そう書かれたアイコンは初期設定のものなのか、相談者本人が選んだものなのかはわからない。まぁどちらでも関係ないのだけれど。私の動向を見ていた梶さんが、ふーっと一息ついてから話す。

「よしっ!これで私が教えることはしばらくないかな!」

彼女は両の拳を胸の前に構えて、頑張って、の意思を示して見せた。

「なにかあったら言ってね。なんでも手伝うから!」

最後にそう言って彼女は自分のデスクに戻った。そのまますぐにスマートフォンを開き、相談を再開したようだ。タイプスピードは驚くほど速く、口で話すのとあまり変わらないくらいの速さなのではないかと思うほどである。そんな光景を横目に見ながら、私は相談者とのトークを開く。無機質なアイコンから発せられたそのメッセージは、驚くほどに人間的だった。表示されたメッセージはとても簡潔な文。

『こんにちは

 死にたいです』

 死にたいです、だなんて直接言われたのは初めてで、一気に動揺が押し寄せた。どう返事をすればいいのかわからない。人を一人殺してしまうかもしれない悩み事に関わったことなど、これまでの人生で一度もないのだ。命が一つ失われるかもしれない。それほどまでに大きな相談に私は関わっている。助けなければ。私がこの人を救わなければ。そんなプレッシャーが重くのしかかって、言葉に詰まってしまっていた。硬直した手を無理に動かして、一文字ずつ文を作った。元から遅いタイピングの速度が、さらに遅くなっている。一分程かけて、短い文章を書いた。それはひどく簡潔で、カウンセラー紛いのことをしている人間の文章とは到底思えないものだった。受け取り方によっては、冷たいとさえ思える文章を推敲する余裕すらなく、そのまま送信ボタンに手を置いた。

『こんにちは

 私で良ければ聞かせてください』

トークに私の返事が追加される。向こうは聞いてほしくてこちらに連絡をしているのだから、聞かせてください、なんて言うのは変だっただろうか。私で良ければ、と書いたが、向こうは人を選べないのだから気に触るかもしれない。もう一度書き直そうかと思った瞬間、送ったメッセージの左下に小さく『既読』という文字が映される。

「くっ…」

思わず口から声が漏れた。拙い日記を学校のクラスメイト全員の前で音読されるような、失敗したイラストを美術館に展示されるような、そんな辱めを受けた気分になった。…いや、これは言い過ぎかもしれないが。とにかく、見られた、と思ってしまったことに変わりはなかった。見られた、あぁ、なんと思われただろうか、なんと返事が返ってくるだろうか。両手で頭を抱える。どれだけ悔やんでも後の祭りなのに、心の辛さは拭いきれない。

「あぁぁぁ…」

返事が来るまで、私はそう呻くことしかできなかった。

 握り締めた電子の板が震えたのはしばらくしてからのこと。ブーっと短く通知を示すそれに、私はそれに過剰に反応してしまう。必要以上に肩を揺らしてしまい、顔に熱が集まるのを感じた。急いでトーク画面を開く。用意された二つの壁を同じパスワードて乗り越え、その先で出会ったメッセージは先程よりは少し長いものの、これまた簡素なものだった。

『ありがとうございます

 少し時間をください

 一つに絞ります』

そう送られてきて、少し動揺した。どうして相談事を絞る必要があるのか、私には全くわからなかったのだ。向こうは相談する側で、こちらは相談を受ける側。見知らぬ相手なので多少の遠慮もないわけではないだろう。しかし、こちらは料金が発生しているのだ。相談相手本人が支払っているわけではないとは言え、金銭を受け取っている者に、この仕事を金だとしか思っていない者に遠慮など必要なのだろうか。…もちろん私は、金銭のために相談を受けているわけではないが。この感情を全て説明すれば、不審がられることなく残りの悩み事も引き出せたのかもしれない。けれど私はそこまで器用ではないし、この気持ちを短くまとめられるような語彙も持ち合わせていない。だから理由は言わなかった。文字にせずとも、この気持ちが届けばいいなと希望を込めた。

『悩んでいること、全て聞かせてください』

既読はつかなかった。

 結局、就職一日目は私からのメッセージで幕を閉じた。感情の起伏が激しく、家に帰った途端倒れるように眠ってしまったみたいだった。最後の記憶は、役場を出る前の先輩の言葉。

「牧ちゃん。牧ちゃんは長い付き合いになりそうだから先に言っておくね。これは私たちの信念っていうか、約束事」

先輩は人差し指を立てて言う。

「一つ。会わないこと」

次に立てたのは人差し指と中指。

「二つ。教えないこと」

そこに薬指を追加して、さっきよりも真剣な面持ちで言う。

「三つ。…肩入れしないこと」

慎重で、真剣で、強い言い方だったことを鮮明に覚えている。最初はなんのことか全くわからなかった。先輩はそれを察知したのか、もともとするつもりだったのか、詳しい説明を開始した。

「一つめはそのままの意味ね。相談者とは絶対に会っちゃ駄目。会いたいなんて言ってくる人は大抵危ない人だし、普通の人も危ないから駄目。二つめは個人情報について。こっちの名前はもちろん、住所とか電話番号とか、そういうのも教えちゃ駄目。あと一応言っておくと、不必要な個人情報を聞き出すのも駄目だよ。三つめは絶対。これを守れない人はこの仕事をしちゃいけない。行き過ぎた共感、痛み分けは身を滅ぼすことになる。わかった?」

鋭い双眸からかけられる圧に、私は頷くことしかできなかった。それほど大事なことなのだろうと、そんなぼんやりとした理解しかできていなかったが、いずれその大切さはわかるだろうと楽観して飲み込んだ。数十分バスに揺られる。狭い地域とはいえ、私が住んでいる場所からでは役場は遠過ぎた。バス内の人はバス停に止まるたびに入れ替わる。学生を見つけるたびに昨日の相談のことが頭を過った。この中に昨日のあの子が、それと同じように悩んでいる人がいるのかもしれない。そう思うと、彼ら彼女らの笑顔が全て偽物のように思えた。役場前のバス停で降りる。そのまま仕事場まで直行した。デスクから伸びたコードによって充電されたスマートフォンが一台置かれている。私が近づくのを待っていたかのように、画面が点灯した。表示されたのは、新着メッセージが一件あります、というもの。私は慌ててパスワードを入力し、アプリを開いた。そこにあったのは、常識の範囲内では絶対に送らないであろう程の長文だった。

 読み終えるのに何分かかったかわからない。気づくと周りにはたくさんの職員がいて、隣で梶先輩が心配そうにこちらを見ていた。朝一番の出勤だったのに、下の階から聞こえる人々の発する音は既に騒がしくなっている。

「…牧ちゃん仕事熱心、だね?」

声色からも心配が滲み出ていた。凛々しい眉は下がっていて、なんだか冷淡で無表情なイメージがあったのだけれど、そんなこともないんだなぁと思った。私は一瞬あー、と言い淀んで、それから言う。

「昨日話の途中で終わっちゃったもので…気になってたら朝早く起きちゃいました」

それを聞くと、彼女は表情を緩めた。安心したのだろうか。そのまま彼女は言う。

「よかった…まだ新人さんなんだから根を詰めすぎないようにね…?それじゃあ今日も頑張ろう!」

私がはいっ!と返事すると、先輩は私に一度大きく笑いかけて、そのあと真面目な顔でスマートフォンと対峙した。私も再び、スマートフォンに目を向けた。送られてきた長文は一画面では収まりきらず、下にしばらくスクロールしなければならない程の長さだった。それに込められたのは、沢山の負の感情と覆しようのない事実。百や二百ページもある小説よりも内容は濃かった。もし百字要約しろと言われても、私は戸惑ってしまうだろう。どこをどうまとめればいいかわからない。綴られた文章の全てに意味があって、その全てが相談者自身を表す大切なものなのだ。認めてくれない母親。過干渉なのに重要なことは何も知らない父親。複雑な交友関係。成績不振。自己嫌悪。その他色々。送られた文章は、そんな環境に一人抗う小さい命の悲痛な叫びだった。

『僕には、もうどうすればいいかわかりません

 助けてください』

遠慮気味で、しかし率直な言葉が最後に添えられていた。その言葉に応えたい。偽善だと言われようとなんだろうと、私は彼を助けたい。そんな一心でキーボードを展開した。指を画面に近づける。そして、指が止まった。なんと言っていいかわからなかったからだ。彼がその全てをどうすればいいのかわからないように、私にもそれを解決する術はわからなかった。本人が変わってどうにかなる問題ではない。たとえ努力しても彼の母親は彼を認めないだろうし、何を言ったとしても父親の過干渉は止まらないだろう。面倒な人間関係をこなさないというわけにもいかないし、本人の努力ではどうにもならない成績もある。今すぐ自分を好きになれなんて、到底不可能な話だ。だから私は、何も言えなかった。周囲に文句を言うな。周りを変えろ。周りを変えられる影響力を持て。自分が変われ。そんな言葉を私はかけたいわけじゃない。そんな突き放した言葉じゃなくて、私は彼と共に問題を解決していきたいのだ。だからといって返信をしないわけにもいかない。迷いに迷った私は、きっとこの仕事に就くものとしてあるまじき行為であろうことをしてしまった。

『ごめんなさい

 私にもどうすればいいかわかりません』

その後に、急いで付け足した。心なしか、指が少しだけスムーズに動くような気がした。

『今すぐ解決はできません

 でもよかったら、二人で解決策を考えませんか』

送って次の瞬間、パッと既読がついた。今回は一切の後悔を感じなかった。ぼんやりと、安心した気持ちで返信を待つ。しかしそんなに待つでもなく、返信は届いた。

『ありがとうございます

 そんなことを言ってくれたのはあなたが初めてです』

その日のやり取りはそれが最後だった。特に伝えたいこともなかったんだろうし、今日話したいことはそれで終わりだったのだろう。私から話しかけるべきではないのだろうし、返事をせぬまま放置した。暇になった私は、常にスマートフォンをポケットに入れたまま与えられた雑務をこなした。

 それから三日ほどだろうか。終業時間ギリギリにメッセージが届いた。反射でアプリを開きそうになって手を止める。四桁のパスワードのうち、既に三桁は入力されていた。鞄に荷物を詰め直している隣の先輩に目線を送る。すぐに声をかけるつもりだったのだが、彼女が私に気づくほうが速かった。失礼かなと承知しつつも、暗殺者みたいだなぁと思ったことは彼女には秘密にしておこう。先輩は笑顔で私に話しかけた。

「ん?牧ちゃんなにかあったの?」

優しい笑顔に促されて、私はすぐに用件を告げる。普段なら質問などは遠慮してどもってしまいがちなのに、彼女の前で言いにくいだとかそういうのを感じたことはない。対人技能に長けているんだと実感しながら、口を開く。

「えっと…この部署って時間外でも残って大丈夫なんですか…?」

きっと駄目だと言われるのはわかっていたのだが、思わずそう聞いてしまった。さっき届いたのは恐らく彼からの救難信号。それを無視できるほど、私の良心は腐っていないようだった。私の質問の意図を察したのか、彼女はほんとは駄目なんだけどね…と前置きしてから話し始めた。自然と声は小さくなって、少しだけ体の距離は縮まった。

「ほら…まぁこういう特殊な部署じゃない…?相手の都合とか色々関わってくるから、しばらく残るのは許されてるよ」

彼女はそう言ってにっこりと笑った。私はほっと息をつく。残れるなら、彼の話を聞くことができる。仕事終わりにあまり気持ちの良い話ではないだろうけど、それで少しでも力になれるのなら安いものだ。私が意気込んでスマートフォンを改めて開こうとすると、彼女が口を開くのが視界の端で見えた。どうかしたんだろうかと思い、再び彼女に向き直る。先輩は人差し指をビッと立てて、真剣な面持ちで言った。

「ただし!バスの最終便までには帰ること!あとスマホを持って帰らないこと!」

そう言い残した先輩は、すぐに鞄を持って立ち上がった。

「わかりました…ありがとうございます!」

私がそう言うと彼女は微笑んで、手をひらひらと振りながら帰っていった。本当に良い先輩に恵まれたなぁと心の底から思った。再度スマートフォンを握り直す。電源ボタンを押して、見慣れた海の景色を表示させる。まだ何日もしていないのに指が覚えたパスワードを入力して、彼からのメッセージを確認した。トーク画面には本文は表示されないシステムになっていて、その件数だけが見てわかるようになっている。さっきまで一件だった通知は二件に変化していて、私はそれの中身を把握するために画面をタップした。

『今日はテスト返しでした』

これが一件目。

『母に叱られました』

これが二件目。とても端的で、冷たいとは思うのだけれど、なんだか心を痛めた人間の書く文章には思えなかった。どこか業務めいている。上司に仕事内容を連絡する部下のような文章だった。事実だけが綴られていて、端的で簡潔。本人の感情や意思は一切感じられなかった。その文章を目の前に、私は硬直してしまう。悲しいだとか、苦しいだとか、そんな感情を表に出してくれれば慰めの言葉をかけることができた。しかし、その感情というか、彼の本意は一ミリたりとも感じられなくて。なんと言えばいいかわからなくて、私は彼の本心を探ろうとした。

『失礼でなければ、何点か聞いても…?』

個人情報を聞き出すのはよくない。それはわかっているけれど、今日ばかりは許してほしい。これを聞かなければ二進も三進もいかないのだ。メッセージを送った瞬間に既読がつく。どうやらスマホを開いて待機していたようだ。返信はすぐに飛んできた。たった一言。その四文字は、私の思考回路を一瞬白く染めるのに十分なほど衝撃的で、非常識だった。

『九十八点』

はぁ…?と、心の中で毒を吐きそうになって踏みとどまる。昔の私だったら、そんな点数を平然と告げられた時点で発狂してしまうだろう。そしてその後地団駄を踏みながら、そんな点数で怒られるなんてあり得ない、おかしいと喚き散らしていたに違いない。その感情が思わず出てしまっていたようで、画面を見ると既に私から送信済みのメッセージがあった。

『え、なんですかそれ、おかしいじゃないですか』

校閲や推敲の類いは一切行われていない。心の声がそのまま感じ取られてしまったような、そんな文章にはもう既読がついてしまっていた。あぁぁと少し声を上げて嘆く。周りに少しだけ残っている私と同じ境遇であろう人達がこちらを見て、迷惑そうな目線を送ってきた。

「あっごめんなさぃ…」

私が消えかけの声でそう呟くと、満足したのか、私への目線は消えた。きっと私の声は彼らには届いていなかっただろうが、彼らは言うだけ言えれば満足なのだ。人間誰だってそうなのだろう。今画面の向こうにいるであろう彼も、そんなものに苛まれているのかもしれない。ビッと、控えめにスマートフォンが鳴く。私は少し楽しみだった。不謹慎なのはわかっているけれど、この理不尽な状況に彼がどう返すのか気になって仕方がなかった。私は半ば、ゲームのような気分で、彼とのやり取りを楽しんでいる節があった。人命がかかっているというプレッシャーをほとんど忘れかけていた。意気揚々と画面を覗き込む。届いたのはたった五文字。なんの面白みもない、ほんの五文字。

『慣れました』

面白くない。本当に面白くない。慣れてしまったことなのに、どうしてわざわざ私に報告したのか。楽しくない。つまらない。そう思っていた矢先、いくつかのメッセージが連投された。一つ一つが送られてくるのには十秒も間がなく、私は返信することもできないまま画面を眺める。

『慣れた、んですけど』

『今回のテスト難しくて』

『平均点とか五十台で』

『頑張って頑張って、頑張って』

『それでも一問だけ間違って』

『一番難しい問題、ちょっとだけ』

『さんかく貰ったんです』

『ばつじゃなくて、さんかく』

『学年一位で』

『それでも怒られて』

そこで少しだけメッセージが止まった。私はまだ思考が追いついていなくて、たった一つだけ、これが彼の感情だということしか理解できていなかった。伝えているのは相変わらず事実だけ。彼が頑張ったことも、学年一位を取ったことも、怒られたことも、その全てが事実。それでも何故か、彼の心の葛藤や感情の濁流が手に取るようにわかった。苦しくて吐き出した言葉なのだろうと、そう思った。

『本当に慣れたけど』

私が見たのは、心の奥の奥で蓋をされていた彼の本心だ。

『悲しくて辛かった』

私は何か、感動のような、喜びのような、罪悪感のような、そんなものを感じていた。感情の濁流に飲まれてしまったのは私のようで、その後本当に何が何だかわからないまま数分を過ごしてしまった。とにかく今考えるべきは彼への慰めや謝罪の言葉であって、こんな感情に流されるべきではない。それはわかっているのだけれど、どうにも体が動いてくれない。そんなまま、刻一刻と時間は過ぎていった。

 私が再び思考を己の支配下に置いたのは、それから五分程経ってからだった。向こうにも向こうの都合があるだろうし、しばらく返信しようか悩む。どの思考ルートでも返信することになるのだけれど、私は返信する理由をひたすらに探していた。その行動に、特段深い意味はない。やっとのことで指を動かす。これから綴るのは私の本心。だけど、どこか取り繕った本心だ。都合のいいところだけを抽出して、隠して、誤魔化した本心なのだ。それでも、ありのままを伝えるよりはいいと思った。彼を更に傷つけるよりも、私が嘘を吐く方がマシだと判断した。この嘘がいつかバレてしまっても、今の苦しみに比べればマシだと思ったのだ。ぽちぽちと、ゆっくり文を書いていく。彼が今見ていなくても大丈夫なように、簡潔にまとめて、通知は一件で。九割の本音に一割の建前。それを推敲して整えた。タップ一つで知らない人の元へ届くそれを、私は少しの不安を抱えながら見送った。

『ちゃんと感じたことを教えてくれてありがとう

 貴方はよく頑張っていると思います

 私からの言葉なんて少しの足しにもならないかもしれないけど

 それでも貴方はよく頑張ってる

 負けないで』

こんな言葉で彼が救われるなんて思っていない。見知らぬ大人からこんなことを言われて、何を言っているんだと噛みつかれても私は文句も言えない。だってその通りだから。私が彼の立場ならきっと、何を偉そうになんて毒づいて、そのまま会話をやめてしまっただろう。でも彼は違った。送って数秒で既読がつく。そのすぐ後、メッセージが届く。

『ありがとうございます』

無機質な文章なのに、そこに込められた本気さは私にひしひしと伝わった。少しは力になれたのかな、という安堵感も感じてはいるものの、まだ心配してしまう気持ちが大きかった。これは彼の家庭の事情で、私が首を突っ込んだところで無駄なのは明確だ。私なんかの言葉で彼の傷が癒えるわけもなかった。

『あとは一人で頑張ってみます

 遅くにごめんなさい

 本当にありがとうございました』

彼が会話を締める。不安など何一つ残さない、綺麗な締め方だった。それでも私はなにかと不安になってしまって、家で酷い目に遭ってないかなとか、お節介だったかなとか、そんなことをだらだらと考えていた。無駄な熟考をしているうちに、終電の時間は慈悲もなく迫ってくる。終電までには帰ること、という先輩の強い言葉を思い出して、話は慌てて役場を後にした。

 見慣れた帰路を、バスの車窓から眺める。電車程ではないにしろ揺れは大きく、その車体は不規則に跳ね上がった。体は何を勘違いしたのかその揺れをゆりかごのそれと錯覚して、次第に睡眠欲を強く押し出してくる。私はそれが心地良くて、うとうとと舟を漕ぎながら家に着くのを待った。ぷしゅーっという音と共にドアが開く。自宅の最寄りのバス停に着いたようだ。重くのしかかった睡魔が立ち上がるのを邪魔する。

「んしょっ…」

小さく声を上げて立ち上がった。膝に置いていた鞄を持ち直して、電子決済してからバスを降りる。家までは数分だ。重く絡まりそうになる脚を無理矢理動かして、ゆっくりと前に進んだ。帰宅してすぐにシャワーを浴びる。誤って浴びてしまった出始めの冷たい水が体を叩き起こす。そのまま思考も冴えて、また今日のことを考えながら全身を清めた。

 私の家庭は恵まれていた。両親は私のことをよく褒めてくれたし、比べられる兄弟姉妹もいなければ、他の家庭と比べるなんてことはあり得なかった。母も父も私のことをよく考えてくれて、できるだけ気持ちを理解しようと努力してくれていたと思う。私はあまり勉強ができる方ではなかったけれど、そんな私を両親は責めるでもなく、私の能力に見合った評価をしてくれた。いつもより点数が高ければ褒めてくれる。いつもより点数が低ければ改善点を教えてくれる。一度たりとも理不尽な叱り方をされたことはなかった。思い返せば、友達もいい人ばかりだったなぁと感じる。中学校や高校に問題児がいなかったわけではないが、今も繋がりを保っている友達は皆真面目で優しい。いじめや暴力沙汰、その他不祥事に関わった人はいない。人間関係だって良好だったし、本当に恵まれていたのだ。私は幸せ者だ。そんなことを考えているうちにシャワーは終わっていた。雑に体を拭く。髪を乾かすのは面倒臭くて、毛先から滴る水滴をタオルで拭き取りながらベッドに座り込んだ。お腹は空いているはずなのに、なぜか食事をする気にはなれなかった。今日はもうお腹いっぱいだ。心の辺りが苦しくて、肺や内臓を圧迫している。ずっと周りの人に興味はなかった。家庭環境とか、友人関係とか、そんなものは気にしなかった。要領の悪い私は、自分たちのことで手一杯だったのだから。今初めて気づいた。みんながみんな幸せではないのだと。みんながみんな、私のように恵まれた環境で生きてきたわけではないのだと。昔仲良くしていた人も、もしかしたら今の友人達も、何かしらの悩みを抱えているのかもしれない。そんなことを思うと更に心が苦しくなって、枕に顔を埋めるように倒れ込んだ。息が苦しい。胸も苦しい。今日は快眠とは言えそうにないな。眠りにつくのも遅いだろうし、寝覚めは最悪だろう。夢見も悪いに違いない。あぁ、どうか寝坊だけはしませんように。そんなことを祈りながら一人目を閉じた。翌日いつもより一本遅いバスで出社した私に届いていたメッセージは以下の通り。

『僕の名前は青です

 ブルーの青です

 これからは名前で呼んでくれると嬉しいです』

 それから数ヶ月経った。私達はお互いの名前を教え合って、タメ口で話すようになった。彼からは些細な悲しいことや苦しいこと、嬉しいことでもメッセージがくるようになっていた。彼の思考をだんだん理解できるようになってきたのが嬉しい。この頃気づいたことがある。彼が欲していたのは解決策ではなく、理解者だということ。話を聞いてくれて、共感してくれて。そんな人が欲しかったのだとわかった。逆に考えれば、彼には、悩みを打ち明ける人やそれに共感してくれる人さえいなかったのだということが浮き彫りになる。こんな公共機関を頼らなければいけないほどの環境なのか。それが心に深く突き刺さった。そんなある日のことだ。昼食から帰ってくると、一件のメッセージが届いていた。

『牧さんこんにちは

 今日電話できます?』

彼からだった。私はじっとその文を見つめる。頭の上にはクエスチョンマークがたくさん浮かんでいた。咄嗟に先輩に目を向けてしまう。私と同じく昼食から帰ってきたばかりの先輩は、しなやかな黒髪を首から払いつつ椅子に腰掛けた。そしてこちらに気づき、首を傾げる。

「ん?牧ちゃんどうしたの?」

「えっと、青…相談者さんから電話しよってメッセージ来たんですけど…」

彼女とはよく話すようにはなっていたが質問するのは久しぶりで、ついたじたじになってしまう。それでも彼女は優しく、私に答える。

「あー、電話ね」

彼女はにっこりと笑って、廊下へと続く道を指差した。あっちにね、と、そちら側を見るように促してから続ける。

「喫煙所みたいなスペースあるのわかる?あれ実は電話ボックスみたいなものなんだけど…」

電話ボックス、って言ってもわかんないか。彼女はそう言って恥ずかしそうに笑った。それにしても、電話をできるコーナーがあることに驚きだ。というか、電話というシステムがあったことに驚いた。まぁ文章だけでは伝わらないこともあるだろうし、当然といえば当然なのだが。ともかく、電話できることがわかった。私は先輩にお礼を告げて、すぐに席を立った。

『電話、できるみたいだよ

 準備できたらメッセージ送るからかけてきて』

そうメッセージを送って、歩き出す。少しだけ早足な自分には気づかなかった。

 いつも上ってくる階段を通り過ぎ、いそいそと画面をタップしている同職者たちを横目に私は進む。授業中に立ち歩く不良生徒になったようで気が引けるが、これも仕事なんだ、という事実を胸に歩いた。フロアの突き当たりを右に曲がるとその奥には廊下が続いていて、左右にはたくさんの扉が連ねられていた。そこそこ奥まで続いているようだ。扉は壁と同色で、金色に塗装された大きめの取手がついている。扉同士の間隔から考えるに、中はそんなに広くなさそうだ。広くはないだろうが、一般的な電話ボックスよりは広いと思われる。学生の頃に使った田舎の電話ボックスよりは広そうだ。扉は一部分だけ四角く切り取られており、その中にすりガラスがはめられている。使用中か否かを確かめるためだろう。小窓から漏れ出る明かりを避けて進む。もうすぐ廊下も突き当たりだというところで、暗い部屋を見つけた。よくよく見ると、奥の方は使われている数が少ない。手前から詰めていく方針なのだろうか。そんなことを考えながら私はぽつんと存在する空き部屋の扉を潜った。中はやはり広い。人が二人は入れそうだ。高めの椅子と、それから控えめな二段の棚が壁に取り付けられていた。腰掛けると少し沈んだ椅子に焦りつつ、私は青にこう送った。

『用意できたけどそっちは?』

静寂の中で返信を待つ。隣で人が話しているのにこんなに静かなのは、壁が防音仕様になっているからだろう。どことなくカラオケと雰囲気が似ている。歌う気にはなれないけれど。隣の声が聞こえるかなぁと耳を澄ませていると、リリリリ、とけたたましくスマートフォンが鳴った。一瞬肩を揺らしてから対応する。相手は画面を見ずともわかっていた。

「…もしもし、青?」

初めて話すのだと思うと少し緊張してきた。別に親が厳しいとかではなかったが、ネット上で知り合った人と仲良くすることはなかったのだ。私は相手の顔はおろか、趣味も、性格も、声も知らない。青はどんな声で、どんな話し方で、どんな気持ちで話すのか。それを考えるとだんだんと緊張が高まってきて、次に一言発せば声が裏返ってしまうのだと察した。そうなるのはあまりにも恥ずかしくて、彼の言葉を待つ。少しの間返事はなかった。私が出るべき着信を間違えたのかと不安になる。耳からスマートフォンを離して確認するか悩んでいたところ、あー、と言う声が耳に届いた。

「もしもし、牧さん…でいいんだよね?ごめん、イヤホン挿してた」

その発言に私は裏返りかけの声を忘れてぽかんと口を開けた。動揺している。動揺しまくっている。物語の終盤で、今まで暗示されていた情報が全くのデマだったことを告げられた小説の読者のように動揺している。私はおずおずと問いかけた。

「えっと…青、なんだよね…?」

「うん。青だよ。牧さんにずっと相談してたあの青」

彼…いや、彼女は当たり前のように答えた。そう、『彼女』なのだ。青は女性だった。幼さが残る綺麗で高く透き通った声が電子の板から発されている。私が動揺していると、察したように彼女が口を開いた。

「…あー、もしかしなくても男だと思ってた?僕は女だよ」

騙したみたい、ごめんね。彼女はそう言って笑った。こうやって察したところから見ると、よくある勘違いなのだろうか。控えようとは思っていたけれど、あまりにも気になってしまった私はついつい口走る。

「あの、一つ質問いい?」

彼女は一言、

「うん?」

と言って私の話を促した。少し踏み込んだ話になるのかもしれない。そんなに聞かない方がいいとはわかっているが、それでも気になってしまうのだ。

「どうして一人称僕なの…?」

彼女は少しだけ言葉を濁した。あー、うーんとしばらく悩んで、少しした後話し始めた。

「僕さ、男だからーとか女だからーってのが苦手でさ。男だからズボン、女だからスカートっていう見た目上の区別ももちろん嫌い。でも、それより嫌いなのは内面すら指定されること。僕は女だからそっち側の意見しか言えないけど、男は笑わない方が寡黙でたくましいとか言われるのに、女が笑わないと無愛想だとかもっと愛想良くしろとか言われるでしょ?僕も言われたことあるんだけど本当に嫌でさ。だからそれへの小さい反抗?的な」

青はそう言った。とても流暢に話しているのに、話し声がゆっくりと聞こえた。いわゆる性差別である。彼女はそれが嫌で、世の中のその流れに抗うように生きているのだ。彼女は続ける。

「別になんかそういう、セクシャルマイノリティー?とかではないんだけどね。社会のための反抗とか、そういう偏見を壊したいとかじゃないし。僕はただ、僕自身がその枠に当てはめられて区別されるのが嫌なだけなんだよ」

「そうなんだ…」

私はそう言わざるを得なかった。実感が湧かない。私の中では、現在で言われる性差別は当たり前のものだった。男性は男性らしく、女性は女性らしく。それが好ましいとされていた。だからこそ彼女の話に違和感を感じてしまうのだ。今の時代では私がおかしいとされてしまうのか。そう考えると少し恐ろしくもあった。性差別は今でさえ立派な社会問題となっているけれど、私の世代ではそんな教育をされた人は少ないだろう。私だって、中学の時に道徳の授業でさらっと話されただけだ。そういう考え方も。

「…牧さん?なんかあった?」

彼女が心配そうに声をかけてくる。黙ってしまっていたようだ。

「あっ、うん、大丈夫。ごめんね」

私がそう言うと青は笑って言う。クスクスと溢すような笑い方だったけれど、本当に楽しそうな笑い声だった。心の底から笑っていたと思う。この素敵な声がずっと続くことはない。

「んーん、大丈夫だよ。そういう反応されるのも慣れっこだしね」

気にしないで気にしないで、と彼女は二回繰り返した。その後しばらくは、画面の向こうから運動部のランニングの掛け声が聞こえていた。私の口は、きっと彼女の口も、きゅっと一文字に閉じられていて、その呼吸音すらもこの電子機器が拾わないくらい静かだった。私はただひたすらに、彼女が話し始めるのを待っていた。耳を澄ませ、虚無を見つめていた。少しの後、彼女が話を切り出す。私はすかさず相槌を打って、それからはただ頷いたり感嘆の声を出したりした。でも、今では彼女とどんな話をしたのかは覚えていない。きっと他愛無い、くだらない世間話だったのだろう。もう既に、記憶からすっぽりと抜けてしまっている。私に向けて話してくれた青の身の上話に興味がなかったわけではないけれど、きっとそれ以上に興味深くて、衝撃的で、心が痛むような出来事があったのだろう。その事象を私ははっきりと覚えている。しかし、思い出したくない。その場限りでは割り切れたと思っていたのに、今になって思考の大半を占めてくる。そのことが、私の首を絞めてくる。

 あ、そうだ。しばらく続けていた話題を、彼女はその一言でさっぱりと切り捨てた。私はそれを、別に何でもない、単なる話題の切り替えだと思った。その前にしていた話のような、軽くて笑える楽しい話だと思った。いや、それより前に何を話していたかは覚えていないのだけれど。彼女は少しだけ言い淀んで、その後すぐに淡々と話を始める。それはあまりにも、頭から言葉が消え失せてしまうほどに衝撃的で。

「僕今日死のうと思ってるんだ」

意味が通る最低限の抑揚で、無感情で、彼女は言った。頭の中が真っ白になってしまって言葉が出てこない。喉が詰まる。言葉も詰まる。息が止まる。そんな私を知ってか知らずか、青は一人でずんずんと話を進めていった。

「別になにかあったとかじゃなくてさ、堪えてた分全部出たっていうか、なんだろ。あ、今日三者面談なんだけどね。今屋上で時間待ってて、だからここから飛んでやろうかなって」

話についていけない。死ぬ?どうして?今まであんなに楽しそうに話していたのに?あれは全部遺言だったの?急にわけのわからないことを聞かされたが故に思考があちらこちらへ飛んで集中できない。私が何か道を間違ってしまったのか。私がかける言葉を間違ったから、こんなことになってしまったのか。その時は何故か、彼女の心配をするべきなのに自分のことばかりが気にかかってしまっていた。彼女を死に追いやったのは私のような人間だったのだろう。利己的で、偽善者で、自分の物差しでしか物事を見ることができない人間だ。

「あ、ぇ、なん…えっ、そんな」

思考の濁流は言葉にならないまま口から溢れ出た。言葉を覚えたての子供のような、嗚咽のような、そんな何かがただ漏れ出ていた。そんな中彼女は。私をこんな風にした張本人の青はけろっとして、なんでもないような声色で言うのだ。

「…どしたの牧さん、まぁびっくりするとは思ってたけど」

こっちはびっくりどころの騒ぎじゃないのに、それを彼女は知らないようだった。知っていてわざと無視している可能性は大いにあるが。

「え、どうする?引き止めてみる?」

心底楽しそうだった。私を揶揄っている程度の認識なのかもしれない。さっきの爆弾発言から今までの会話全てが嘘と冗談なのかもしれない。現時点で消せる可能性など一つもないのだ。全てが冗談だと割り切って話を聞くこともできた。それでも。それでも私には、『死のうと思ってる』と、そう言った彼女の気持ちに嘘はなかったように思えるのだ。

「…私は」

思考は未だまとまっていない。昔からそうだ。考えていることをまとめるのが苦手で、見切り発車で話を始める。作文の分構成も下手くそで、もらう判子はいつでも『がんばりましょう』だった。でも今はそれでもいい。ぐちゃぐちゃでも、読みにくくても、言葉の奥底に込めた思いが通じるなら。

「私は、青を止める気はない。止めたいけど、これは青の人生だから私は口出ししない。…口出しできない。青が選んだ道なんだから。私はもう黙って見守るよ」

必死だった。何度も言葉に詰まったと思う。何度も何度も深呼吸をした。電話口の彼女は口を噤んだままだ。

「引き止めてほしかったのなら…それはごめん。でもそれは私を選んだ青の責任だから。私は、青の人生の責任は持てない。最後の最後に突き放すみたいでごめんね。それでも私は変わらない。これが私の中での最適解なの」

知らず知らずの間に浅くなっていた呼吸を元に戻すために深呼吸をした。心臓が激しく脈を打って、口から何かが出てきそうだった。青からの返事はない。その時の私は動揺しているのに一方では冷静で、この奇怪な出来事の結末を頭のどこかで察していたようだった。今となってはもうなにもわからないが。私の想定は最悪なのか最善なのか、それすらも覚えていなかった。声がしなくなったスマートフォンを、恐る恐る耳から離した。真っ暗な画面を一回だけタップする。表示されたのは見慣れた画面。オーディオ接続なし。バックグラウンドの通話なし。電話は彼女の方から切られていたようだった。パスワードを入力してロックを解除する。アプリのアイコンを確認するも、通知はない。淡い期待ではあったが、私は彼女が謝罪なりなんなりのメッセージをくれるのではないかと思っていた。だからこそアプリを開く。パスワードの入力は以前よりもだいぶ手早くなっていた。開いた先は、デフォルトで設定された背景。その一番上にあるトークルームを開く。はずだった。見慣れた画面。押し慣れた位置。そこに指が触れたはずなのに画面は変わらなくて。

「…え、あ?」

ない。どこにもない。彼女との唯一の繋がりが。私たちが約半年かけて積み上げた絆の証が。何度画面をタップしても、一度電源を落としても、それは消えたままで帰ってこない。

「あ、ぁ…」

やっと襲い来る動揺。焦り。緊迫。最悪の状態を悟った。もう声は出ない。浅くなった呼吸と緩く迫る吐き気だけが頭を占めていた。そのあと気がついたのは何分後だろうか。心配の色が滲む声に顔を上げると、そこには少しだけ髪を乱した梶先輩が立っていた。

「大体の流れはわかってる。牧ちゃん大丈夫?」

椅子にへたり込んでいた私の手を引き、彼女は言う。一瞬の軽い抱擁のあと、彼女はまた小さく言った。

「今日はもう帰りなよ、上には私が説明しておくからさ」

ありがとうございます。私はその一言だけを告げて帰路についた。

 幸いその翌日は休みで、疲れた心身を労わることができた。もっとも、一日程度で回復できるほど私の精神は強くはないのだが。私は深く考える。人間の命について。彼女の、青の死について。彼女は生きていると思う。いや、そう思いたい。彼女が飛び降りたのを見たわけでもないのだから、死んだと言い切るのは難しいだろう。彼女はきっと生きている。そう、きっと。いつかまた、一週間後か、一年後か、来世くらいで、ひょっこり、牧さん、だなんて言って私の前に姿を現すのだ。きっとそう。だから私は生きる。彼女の分まで、と言ってしまえば全てが終わるから言えないのだけれど。自ら姿を消した彼女と、過去に会っていたかもしれない彼女と、また巡り合うために。この深い苦しみを背負って生きていくのだ。

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