第59話 血塗られた記憶
8年前。ミカインやクノッサスから遠く離れた小さな農村があった。
人口は30人ほどで、近くに小川が流れるのどかな場所だった。村の男たちは農業に勤しみ、女たちは水汲みをし、子供たちは遊ぶ。そんな代わり映えのない毎日が続いていた。
その中の少年、アルベールもまた、元気のいい子供だった。
8歳になった彼は、村の大人たちの手伝いをするようになり、森で薪を拾い集めるのが日課であった。仕事が終われば歳が近い子供と遊び、夜になれば母と食事をする。彼の人生の幸せの絶頂は、間違いなくこの時であった。
ある日、いつものように森から枝を集め、村へ戻ると、そこには見知った顔があった。
「父さん!」
門の前にいたのは、アルベールの父親だった。彼にそっくりな赤髪の父は、息子を見つけてほほ笑んだ。
「アルベール、ただいま」
「おかえりっ! 商品、売れた?」
「もちろん。アルベールにもおみやげがあるぞ」
「やった! 早く帰ろうよ!」
アルベールの父は、商人だった。月に1度か2度、村に帰ってきては、遠くの街で買って来たものを村で卸売りする。父の背中にはいつも、大きなバッグが背負われていた。
そんな父の背中に、いつもはないようなものを見つけた。アルベールは父の背中に回り、じっとそれを見つめる。
「ねえ、父さん。これはなに?」
それは、一本の剣だった。漆を塗ったように真っ黒な大剣が、バッグと一緒に父の背中に背負われている。アルベールの背丈の倍はありそうな、大きな剣だった。
「ああ、これはな。父さんが途中で買い取ったものなんだ。いいだろう?」
「うん。すごくかっこいい。父さんが使うの?」
「父さんにはちょっとな……アルベールがもっと大きくなって、冒険者にでもなったらあげてもいいぞ」
幼いアルベールの無垢な瞳に、その大剣はとても美しく映った。吸い込まれてしまいそうな漆黒。自分より大きい全長。何より、その独特な雰囲気に惹かれた。
「さ、帰ろう。父さんも旅で疲れたから、少し休みたい」
「うん! わかった!」
月に一度の、父が帰ってくる日。アルベールにとって、これほど心が躍ることはなかった。家族で机を囲み、夕食を摂る。そのあとで、街であったことを話してもらう。ひとときの
アルベールにとって、家族は全てであった。
これから彼は村人として生き、父の仕事である商人を続けるはずだった。しかし、歯車はある瞬間、狂い始める。
夜になって、家族で食事をしているときのことだった。なんだか外が騒がしいと思ったその時、村の誰かの叫び声が聞こえてきた。
「二人はここにいなさい!」
父は食事の手を止め、素早く外へ出た。突然のことに、震えるアルベール。彼の手を、母の温かい手が包み込んだ。
その瞬間だった。
「あがるぜー」
一人の男が、家の中に入ってきた。髪は糸のように真っ白で、黒いマントを身に纏っている。物語に出てくる貴族のような見た目だ。
何より特徴的だったのが、その人物の目が真っ赤だったということだ。
「お、あったあった。いきなりビンゴとはな」
男が見ていたのは、父が持ってきた一本の大剣だった。男は剣に向かって近づこうとする。
「や、やめろ! それは父さんのだぞ!」
アルベールが男に向かって言い放つと、男はピタリと止まって彼のことを見る。
「なんだ? これはお前の親父のものなのか?」
「そうだ。だから、お前には渡さないぞ!」
「面白いなあ。でもな、坊主。物を守りたいなら、自分で守らなくちゃいけないんだぜ? こういうのを人間の世界では確か……『自助努力』って言うんだっけな」
「自分で……?」
男の言葉に、アルベールはごくりと生唾を飲む。
「そうだ。物を守るためには力が必要だ。力がないやつは何も守ることもできない。失い続けるだけだ」
「力……」
そんなことを言われても、幼いアルベールに力はない。彼に出来るのは、手に力を込めて拳を作る事だけだ。
「アルベール! そいつから逃げ――」
「お前は黙っていろ軟弱者!!」
家の中に入ってきて、男に鍬を振り下ろす父。しかし、攻撃は男に当たることなく、逆に父は顔面を殴られて床に転がってしまった。
「父さん!」
「さあ、坊主。俺を止めないと、その剣だけじゃなく父親も、母親も失うことになるぞ?」
男はアルベールを試すように笑う。
「でも、力なんか……」
「教えてやる。その剣には、俺を殺すだけの力がある。その剣を手に持って、俺の腹に突き立てれば全てを守ることができるぞ?」
アルベールは、最初に疑問に思った。何故この男はどうしてそんなことを言うのだろう、と。
男にとって不利になる情報でしかないのに、彼はニタリと口元を歪め、アルベールのことを見ている。
選択肢はない。アルベールは歩き、父が持ってきた剣を手に取ろうとする。
「駄目よ、アルベール!」
「お前も横からゴチャゴチャと、口を挟むな!!」
次の瞬間、男は大声を上げて右手を横に薙ぎ払う。風を切って、指先から斬撃が飛んだ。
母の悲鳴が上がる。彼女の右腕には爪でひっかれたような跡ができ、傷跡から血がダラダラと流れていた。
「母さん!」
「さあ坊主。剣を抜け。戦わなければ、お前は両親だけじゃなく、村の人間も、生活も、全てを失うんだぞ?」
そんなのは絶対に嫌だ。だけど、アルベールは怖くてたまらなかった。両親を傷つけて笑っているような目の前の男に、自分が敵うはずがないとわかっているからだ。剣に手を伸ばすことができないでいた。
悔しくて、涙が出た。敵を目の前にして、アルベールは何もできずに嗚咽していた。
「おいおい……人間っていうのはこれだからわからねえなあ。俺だったら、チャンスとわかったら喜んで斬りかかるんだが。こういうの人間の世界では確か……『
男はふうと息をつき、首を横に振った。
「もういい。興ざめだ。楽しめないなら、一思いに殺してやるよ」
男は、アルベールに向かって近づいてきた。あの爪が、彼を襲おうとしているのだ。
「逃げろ、アルベール!!」
その時、父が起き上がり、男に掴まった。父は必死だ。
「アルベール!」
母がアルベールの手を取って引く。
「逃げるわよ!」
でも、そんなことをしたら父さんが。その言葉は、アルベールの小さな腹の中で霧散した。そんなことを言っている場合ではない。
「そうだ!」
アルベールは咄嗟に部屋にあったストックバッグを手に取り、その中に大剣を入れた。男の狙いが剣だとわかっていたからだ。
「さあ、早く!」
母に手を引かれ、アルベールは一目散に駆けだした。
月が照らした夜の村には、見たことのない男たちがうごめいていた。アルベールはその男たちに、人間とは違う何かを感じ、気味悪く思った。
のちに、それが吸血鬼であったことを知る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます