フットボール至上主義
あきかん
第1話
この世はフットボールこそ全てである。或いは全ての事柄はフットボールへ至る過程なのだ。
時にフットボールに詳しくない、と語る人がいる。全く理解できない。何故ならば、その人が好きな事を語ればそれがフットボールを語る事になるからだ。
例えば、歌について語るとしよう。それはつまりチャントについて語ることである。フットボールにおいてチャントは欠かすことができない文化で有ることは述べるまでもない。リズムや歌詞、又は時勢によって好まれる歌の特徴、宗教歌や民謡に至るまで全ての歌はスタジアムで聞くことができる。
そうは言ってもフットボールに全く関係がない事に思える事もあるだろう。しかし、それはまだフットボールに至る事ができていないのだ。または、フットボールであることに気がつかないだけだ。この点は抽象的で分かり難いので例を上げよう。
かつてアフリカの時代が来ると言われたことがある。しかし、未だにアフリカの時代は来ていない。むしろアジアの発展こそ目を見張るものがある。
これは何故か。フットボールで重要なのはそれを支える土台だ。ピッチ内のプレイヤーのみに捕らわれていては見えるものも見えなくなる、ということの証左でもある。つまり、人々を真に支える土台なくしてフットボールの発展はないのだ。アフリカの主要な選手はヨーロッパ等の他国へと旅立つが、これが行き過ぎると国内の発展は望むべくもない。国内リーグの発展こそが真のフットボールの成長へとつながるのだ。
つまり、時にはそれがフットボールと関係がないと思われる事にこそフットボールの真髄が隠されている。我々人類はフットボールの表層のみしか理解できずその深淵を覗くことすら叶わない。
これまで述べた事は逆説的にこう言い表す事ができる。全ての事象はフットボールなのだ。故に、真にフットボールを愛していれば、この世の全てを愛する事ができる。しかし、人はまたフットボールに至れないのも事実である。私の目には不幸が写りすぎている。それもまたフットボールである可能性は高いのだが愛する事ができないのだ。
そこで私は以下のように仮定する。人々の行いや感情はフットボールへ至るための過程なのだ。フットボールへと至ろうとするその信仰を私はフットボール至上主義と呼ぶ事にしている。
最後に偉大なるフットボーラー、ディエゴ・マラドーナの言葉を添えて本稿を終えよう。
『私は多くの過ちを犯してきたが、フットボールは汚れない。』
フットボール至上主義 あきかん @Gomibako
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