腐り落ちても連綿と

 芳親と仙女が向かったのは、雷雅を閉じ込めた洞窟とは反対方向。静謐の膜が張る洞窟では、変わらず山犬が身を横たえている。


『……あれー? 交代しちゃったんだー』


 のんびりとした雷雅の声が頭に響いて、山犬はパチリと金色の目を開いた。立ち上がって体を伸ばし、またぶるりと震わせると、音もなく積もっていた霧の小粒が吹き飛ばされる。同時に、静謐の膜も破られた。


『仮にも我が弟に、嫌がらせはやめてほしいものだな』


 山犬は無視を決め込まず、しかし洞窟に顔を向けはせず応じる。再び腰を下ろす頃には、雷雅の口調が空虚な明るさを取り戻していた。


『えー、名前呼んでただけなのに。ふふふ。芳親ってば頑張って無視するんだもん。どれくらい無視していられるかなーって思ったら、試したくなっちゃうよー』

『それが嫌がらせだというのに。己の行いが何なのかも分からぬ蒙昧もうまいか、お主は』


 嘲笑交じりに言っても、雷雅はへらへら笑い声を零すばかり。芳親ほどではないが、山犬も毛並みを逆撫でされるような心地にされていた。崩壊した忘花楼へ呼ばれた時から、ずっと。

 駆けつけたのと入れ替わりに芳親は気絶してしまったため、事情は雷雅から、目論見とその達成方法まで含めて丁寧に説明されている。芳親どころか志乃のことさえ踏み躙る姿は噛み千切ってやりたいほどだったが、ぐっと堪えて芳紅に報告し、三人を連れて来て今に至る。

 常世に入ることは容易でなく、それはたとえ芳親という、稀有な帰還者がいても変わらない。その帰還者に助けを求めさせることで、常世側から道を開けさせるという強引さもまた腹立たしかった。その分、常世に入るなり体が鈍って、最後に倒れるしかなくなった姿には胸が空いたが。


『あははぁ。俺も、芳親をここまで気に入るなんて思ってなかったんだよー。それに、気に入らなくたって、芳親のことは調べることになっただろうし』


 そこまでして常世に入った理由は、芳親の素性を探る以外にないという。ところが、雷雅の求める回答は未だに出ていない。


『何度問われても、私が答えられることは同じだ。芳親は赤子の頃、唐突に常世へ現れた。それを私と芳紅様が拾い、育て、七年が経つ前に現世へ戻した。それだけだ』

『じゃあ、やっぱり仙女の方に訊くしかないんだねぇ。でも、君はなーんにも感じなかったのー?』

『それも前に答えた通り。芳親は何の変哲もない赤子だった。どうして常世へ紛れ込んでしまったのかは分からぬ。赤子や幼子だったために、現世から幽世に零れ落ちる例など数多あるだろう。それが今回は、常世で起こっただけのことと思った程度だ』


 山犬とて、芳親の素性が気にならなかったわけではない。けれど、今はもう些細なことになった。芳親の出自がどうであれ、弟分であることに変わりはないのだから。


『ああ、そうだ。花居志乃が意識を取り戻した。芳紅様の手もこれから空いて、お前の問いかけにも答えられるだろうが……無礼を働けば、その首は噛み千切られるものと心得よ』

『さすがに礼を失することはしないよぉ。常世には何の繋がりもないもの。下手なことはしないしー、賭けるみたいな行動もしないってー。でも、楽しく話せる相手はなかなかいないから、調子には乗るかもしれないけどねぇ』


 誠意とは程遠い暢気な声だが、確かに雷雅は下手な動きをしないという直感もある。認めるのは癪だが、雷雅は芳紅と上手く対話してみせるのだろう。


八千草やちぐさ


 じわじわと煩わしさが積もる中、りんと落ちた呼び声が山犬の頭を動かす。山犬から見て左方向、霧が重なる濃緑を背に、忽然と女童が現れていた。

 仙女の身代わりであるそれは、一体だけではない。一人は志乃の傍に、一人は芳親の前に。そして今、山犬を呼んだのは三体目。いずれもほとんど同じ姿かたちをしている。


『雷雅殿と話をしに来た。引き続き見張りを頼む』

『は、お任せを』


 告げて洞窟へ入る芳紅にも、命令を即座に受け入れ控える八千草にも無駄がなかった。再び周囲には森閑が降り積もったが、かすかな緊張が各位の毛先で震えているようでもある。

 洞窟は深くないが、凝った闇が見通しを効かなくしている。芳紅は手燭の類を持っていなかったが、一歩踏み出しただけで牡丹の道を咲かせた。朧に光り咲き駆ける花道は、すぐさま牢の格子に辿り着いて止まる。芳紅も追いつくと、残っていた花の一部が格子を伝って上部に咲き、牢の中と芳紅とを照らし出す。


『こんにちはー、芳紅殿。口頭だけの挨拶になりますが、どうかご容赦を』

『本来なら口頭の挨拶さえ困難だというのに。何事もそう易々とこなすのは可愛げがありませんぞ。その姿勢のように、無力を晒していれば良いものを』


 女童が見下ろす先では、縄で縛られた雷雅が茣蓙ござに横たわっている。芳紅が扱う中でも上位の結界を敷いているにも関わらず、囚われた鬼はいつも通りの空虚な微笑を浮かべていた。


『そうはいきませんよぉ。こちらは調査のために来たのですからー。神代の終わりから千年以上が経過する中、一度として現れなかった〈常日とこひの特使〉、その実態をようやく紐解ける』

『その口ぶりだと、〈幽月かくりつきの特使〉についてはある程度ご存じと見える。ぜひ聞かせてほしいものだ。淀みなく話せる程度に、結界も緩めておこう』

『ありがとうございます。もちろん、お望みとあらばお話いたしますよー。等価交換は基本ですからぁ。と言っても、貴女にとってどれほどの価値があるのかは未知数ですが』


 口を開かずとも、にっこり笑う雷雅の表情は動きに満ちている。芳紅が宣言通りに結界を緩めたことで、口調も安定を取り戻していた。


『まず、情報の確認をしましょうかー。〈特使〉と呼称される存在は妖雛であり、人間が物の怪に対して劣勢になると現れる。常世に滞在したのち現世へ帰ってくる〈常日の特使〉が確認されれば、片割れの〈幽月の特使〉も存在するとされている。〈幽月の特使〉は、〈常日の特使〉によって見つけられる。これらは〈特使〉に関する記録書物、『特令使者録』に記されています。原本は残っていませんから、現存しているのは紙片の写しのみですがー』

瀬織せおり家が所蔵している書物だな。此方も、麗部から色護衆を経由して、目を通したことがある』


 色護衆の中枢十三家、そして四大術家の一角であり、麗部家に仕える瀬織家。その歴史は十三家の中でも最古であり、貴重品の収蔵も担う家である。

 麗部家、産形家、瀬織家の三家は、隠密調査や秘匿にまつわる役目も担っている。色護衆の中でも謎めいていると評されるのは、この側面を持ち合わせている故だった。


『そうでしたかぁ。しかしどうやって? またさらに写してー、献上させたとかー?』

『合っているが、言い方を考えてほしいものだ。一応それも持ってきたが、ご覧になられるか』


 雷雅が頷いたのを確認すると、女童は袖から巻物を取り出し、牡丹で照らし出した。


『わー、本当だ。百元ももと家の署名まである。よく用意させたものですねぇ』

『常世の存在に対する契約は、未だ効力を発揮するからな。仮に場所が常世でなく、間隙の世界であったとしても、常世の存在と交わした契約は絶対になる』


 現世や幽世では血判が必要だが、常世では不要。そもそも穢れであるが故に使えない。代わりに、逆らうことのできないおきてが敷かれている。常世に存在しているモノもまた、常世という世界を構築する一要素であるために、掟が自ずと適用される。


『現存しているのが、この写しを元にした紙片のみであることも把握している。それに対して、何者かが原本ほか、〈特使〉にまつわる記録を抹消した疑いが出ていることも』

『そこまでご存じでしたらー、その疑いが内裏だいり、もっと言えば、内裏の術者を中心に向いていることもご存じですよねぇ』


 用が済み次第、さっさと写しをしまう芳紅に、雷雅はにやりと笑みを向けた。


『そもそも貴女は人間の頃、内裏の関係者だったのでしょう。呪力や霊力を花にかたどり、幅広い対応をこなす術者の家系が存在していたことは記憶しています。尤もー、極鬼ごくきがもたらした災禍によって、他の家系と共に滅んだことも記憶していますがぁ』

『……そうか。貴様はかの須榧すがや在雅ありまさだったな。紛れもなき天才であったはずが、極鬼を解き放ち自らも鬼となり、苑雲えんうんの年号より始まる災禍を引き起こした元凶だったな』


 芳紅の顔は動かない。しかし、無表情に居座る影は、黒さを増したように見える。


『いかにも。かつてこの身が連なっていた家は、古の内裏にお仕え申し上げていた術者の家、その一つ。今も昔も、百元家が睨んでいた家々のこと、それにまつわる黒い噂も知っている』

『でしたら話が早い。その家々は今も内裏に仕えていますがー、水面下では色護衆と敵対しています。妖雛に対する扱いの面で。もちろん、貴女も存じていますよねぇ。そうでなければ、色護衆の中枢を担う家系に芳親を預けはしないでしょー?』


 一つ浅い呼吸をして、凛然と答える芳紅に対して、雷雅は変わらず緩々と笑っている。しかし、普段は空虚な黄金の瞳に、どことなく違う色合いも混ざり合っている。

 もしや、と。芳紅の脳裏に予測が挟まった。雷雅は「術者側による妖雛の扱い」に対して、不快を抱いているのではないか、と。術者側と色護衆の違いは、妖雛を道具として遣い潰すか、一人の兵士として共闘するかの違い。この鬼は、前者を許容していないのかもしれない。


『……今のところ、知っていることばかり話されているな。良い思い出ではないことまで掘り返されている』

『ああー、失礼しましたぁ。前提になる知識がどれくらい合致しているか、確認しているかで、話の進み具合が異なるものですからぁ』


 だが、予測は予測。問わずに芳紅が話題を戻せば、空虚も黄金の目に戻ってきた。


『では、率直に言ってしまいますねぇ。〈幽月の特使〉というものは、極鬼をその身に宿すためだけに作り出され生まれた、人工の生命体です。材料や製造方法の詳細はまだ考察の域を出ませんがー、まあ、人間であることに間違いはないでしょう。貴女が術者の家系について聞いた噂もー、そういった内容だったのではありませんかぁ? 身寄りのない人間だとかー、憑き物に遭った人間だとかを利用している、という』


 沈黙。無言の肯定は雷雅にも伝わった。答えられずとも、雷雅は話を続ける口調をしていたが。


『神代が終わり、常世とも途絶する以前なら、まだそこまでではなかった。生贄はいたでしょうけどねぇ。でも、以降は一人で生贄足りうる存在がいなくなり、作るしか道がなくなった。そうして作られた人間は、より生贄としての耐性を得るために、幽世へ放り出された。帰ってきた人間も、帰ってこなかった人間もいたでしょう。前者は物の怪討伐に採用され、失敗すればまた、次の特使を作るべく材料となった』


 淡々と並べられる言葉に、どれだけ残虐な風景が詰まっているのか。芳紅は想像しかできないが、それだけでも劣悪を極める。人の情が希薄になった今でさえ、眉をひそめてしまうほどに。


『ちなみにー、何故か幽世へ迷い込む人間が増えてからは、妖怪自体も興味を示すようになりました。これによって、特使と関係がなくとも、迷い込んだ人間を育てては帰すという風習が生まれたのですねぇ。これが妖雛という存在の始まりであり、特使の製造を始めた術者たちの隠れ蓑にもなった』


 至って軽く雷雅が付け足したことにもまた、悲劇は潜んでいる。妖怪の力も取り入れ流し雛として作られたモノ、妖怪の雛として育ち変容した者。どちらも、ただの人間として生きることは叶わない。


『長らく試行錯誤を重ねられた〈幽月の特使〉は、今回やっと完成しましたぁ。それこそが、花居志乃という器です。極鬼によって鬼となった私という親を通し、極鬼の血もまたその身に宿した子ですから、器としては最高傑作と言えるでしょう。事実、志乃は利毒が生成した呪詛も吸収して耐えきり、回復しています』


 そこに、讃えるような言葉が降ってきて、芳紅の目が見開かれた。女童の瞳が、しぼみつつも牡丹と同じ色に光り、横たわる鬼に視線を突き刺す。


『よもや、貴様もまた術者たちに加担するモノか』

『あはははぁ、あり得ませんよぉ。私は色護衆に協力していますしー、あちらと色護衆なら後者を取ります。志乃は大事な娘、大好きな愛娘ですからー、道具扱いする連中とは相容れません』


 ゆるりとしているのは変わらないが、軽くはない響きを感じ取って、芳紅は敵愾てきがいの矛を収めた。どうやら、妖雛の道具扱いが不快という予測は合っていたらしい。


『とまあ、志乃にはこういった製造過程があるわけですが、芳親は違うでしょう。そうでなければ常世に入れるわけがない。ですから、こうして貴女にお尋ねすることにしたのです。あの子はいかにして〈常日の特使〉として完成したのか』


 軽さを取り払ったままの声と細められた双眸が、芳紅を探りにかかる。拘束された横臥おうがの姿勢でも静かな迫力を伴う鬼に、仙女は狼狽えず背筋を伸ばす。


『その前に見解を聞かせてもらおうか。現状、そちらは〈常日の特使〉について何を考えているのか』

『ふふ。用途に関する見解しかありませんが、こちらも率直に申し上げましょうか。みかどの汚れ役かと』


 仙女の毅然を見てか、雷雅は何の躊躇ちゅうちょもなく、古くから凝る人界の陰を即答した。


『〈常日の特使〉が、極鬼をその身に宿した〈幽月の特使〉を殺す。その功績を英雄譚として、〈常日の特使〉を帝の臣下として吸収する。後は執政者として表に出る帝の下、飼い殺しにされながら、殺傷の穢れを引き受ける。それが役目なのではと考えています』


 あっさりとした口調は、至極当然と言っているようでもあった。芳紅も内心、認めている。雷雅が述べた事柄は、まつりごとの場に限らずとも、幾度となく繰り返されてきたことなのだから。


『貴殿の見解は、おそらく当たっている。芳親はどうやら、名のある大社の敷地内から捧げられたようだからな。代々の帝とも縁深い場所だ』

『おや。最初から貴女が拾ったわけではなかったのですねぇ』

『ああ。その大社と繋がる神域に捧げられ、そして返還できなかった。何せ非正規の道筋から捧げられた上、赤子ゆえに衰弱が速かった。常世に慣れさせなければ死に至り、穢れの根源になってしまうおそれもあった』


 そうなった場合、芳親は川へ流され、海原の常世へ送られることになっていた。海原の常世は、黄泉よみへ通づる世界でもある。奥深くには境界すらなく、現世や幽世の死穢しえも等しく降り積もっているという。


『芳親は延命のため、かつて万能の霊薬が焼かれたここ、天藤山あまふじやま近辺の常世へと連れてこられた。そして我らが引き取り育てた。後から聞いた話だが、大社の者たちは無関係で、捧げた何者かも謎のまま。とは言え、神代から遺された最上級の結界を張った神域に侵入できる存在など限られているが』


 芳紅の声が、一度途切れた。赤子の芳親を危機に晒したのが誰なのか、判明すれば呵責する気はあれども、それより先に重視することがある。


『何らかの素質があった、という可能性もあるだろう。だが、常世に来る前、馴染む前の芳親について分かっていることは何もない。満足したか?』

『もちろん。知らない時と知っている時では大違いです』

『では、こちらからもお尋ねする。貴殿はこの先、花居志乃にいかなる道を歩ませたいのか』


 長らく笑みが枯れなかった雷雅の顔に、きょとんとした表情が浮かぶ。次いで、すぐさま大輪の笑みが咲いていた。


『何だっていいですよー、どんな志乃でも大好きですからぁ。志乃が生きているなら、それで構いません。いつまでもいつまでも、ずうっと楽しく笑っていれば』


 言葉だけなら、子煩悩な親が笑顔で語っていると思われそうだが。大輪の笑みは歪みを隠しきれておらず、弾む声にはどろりと歪みが滲み出ている。


『人の側にいられなくなったなら、いつだってこちらに来ればいい。こちら側になって、楽しく幸せになればいい。人のことが忘れられないなら、ぜーんぶ忘れてしまえばいい。ふふふ。本当、こっち側に来ればいいのになぁ。楽しいことでたーっくさん埋め尽くしてあげるのに』

『よく分かった。その点、貴様とは相容れぬ』


 痛いほどの酷薄で固められた声が、鬼の笑い声を切り裂く。それでも雷雅は笑い続けていた。どこまでも無邪気でおぞましく、楽しげな声を響かせて。

 無言で結界の強度を戻すと、雷雅の声もふつりと切れる。雷雅は最後に、にっこりと芳紅へ微笑みかけると、流れるように休眠を開始した。芳紅もまた花を閉じ、霧満ちる常盤ときわの森へと歩いて行った。

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