約束なんてしなくても
意識を取り戻してから、さらに数日。志乃は
芳紅から動き回る許可を貰い、自力で動けるようになった志乃が最初に向かう先は、三段に連なる滝の二段目。そこで芳親が待っている。話をしなければならないと、志乃も分かっていた。
染まることも
療養の場だった草庵の中からでも感じ取れたことだが、常世はほとんど無音だった。風すら起こる気配もなく、滝の近辺に踏み入るまで、音は志乃が立てるものだけ。土と緑が放つ香りも、命あるものが醸し出すそれとは妙に異なっている。ひんやりとして、薄ら寒い。
人間や妖怪が来られない理由をぼんやり察しつつ、志乃は滝へと辿り着いた。濃さを増した霧の中でも、牡丹色の線が相変わらず、緩やかに行く手へ伸びている。草地より悪くなった足場に気を付けて、しっとりと重みの増した空気の中を進んでいく。
ゾッとするほど透き通った滝壺に吸い込まれていく、幾筋もの
『……志乃、話せる?』
『何とか。と言っても……あまり、流暢とは、言えませんが』
何の不自由もなく念を伝えてくる芳親と違い、志乃は途切れ途切れに念を発する。これまでとは話し方が逆になってしまっているが、守りを施されたこの場に邪魔は入らない以上、大した問題ではない。
『ご迷惑、ご心配、おかけ、しまして。申し訳、ありません』
『謝るのは僕の方。僕は間に合わなかったし、それに……夜蝶街で顔を合わせた時から、間違ってた』
するり。用を終えた紐が手放されると、これまでと同じく消えていく。どちらともなく、妖雛二人から離れて落ちた標は、濡れた岩々に触れるより先に
『僕が師匠の言いつけを守らなかったから、僕がちゃんと考えなかったから、志乃は酷い目に遭った。人になることも、前より難しくなった。僕がずっと考えなしだったから、こんなことになったんだ』
仮面を付けずとも前髪で覆われる芳親の顔で、浮き彫りの心情が最も目につきやすい口が歪む。悔い、怒り、悲しみ……
『いずれ、こうなっていたと、思います。俺は』
慰めに値するような言葉も分からないため、ただ考えを発する。ここまでいつも通りだが、志乃には見えるものが増えていた。ただ空洞に相手の音が反響するだけだったのに、今は自分から発せられる音がある。
『俺が、何も知らない、間に、よくない事が、たくさん起こったと。でも、それは、貴方のせいでは、ないと、思います、芳親。元々、俺自身が、よくないもの、だったわけ、ですし』
『そんなの』
『俺が、よくないもの、であることは、本当ですよ。自覚も、あります、し……説明して、いただいて、ようやく、合点が、いきました』
雷雅が語った〈特使〉という存在の役割は、志乃と芳親にも伝わっている。〈
穴が空いている以外にも、志乃はずっと、自分の内に広がる
『雷雅さんが、言うには。俺は、流し雛の、役割を、果たすモノで。芳親は、厄を、溜め込んだ、流し雛を、破壊し、
とっくに役目を受け入れたと言わんばかりの響きに、芳親は返す言葉を思いつけない。その必然が嫌で嫌でたまらないのに、どうしてもしっくり嵌まってしまう。間違いなど一つも無いのだと分かってしまう。
『俺は……貴方に、殺してもらえる、ことを。嬉しいと、感じていますよ、芳親』
――否。志乃の笑みは、空虚ではない。
『長く、忘れて、いましたけど、俺だって、あの時、嬉しかったんです』
確かな喜色が浮かび、溢れ出した震えがあった。笑みにも、伝う声にも。
夜蝶街での戦闘、喧嘩を言っていることは明白だった。芳親とて分かっているし、今も感じ続けている。思い出せば笑みも零れる。あんなに嬉しく楽しいことは、この世に二つとないと確信さえしている。
『夜蝶街の、人々のことは、好きです。好きです、けれど、殺せません。殺してくれる、ことも、ない。そんなことで、好意を、示す、のは……人の、営み、では、ない』
異常な願いが、まとわりついているもどかしさが、芳親の頭を揺すぶる。志乃が今、揺すぶられているのと同じように。
『でも、貴方は、違います、芳親。貴方は、俺を殺してくれる。それを、嬉しいと、思ってくれる。傷つけ合い、殺し合う、ことで、分かち合う、ことが、できる。そんな、唯一の、片割れ、です、貴方は』
途切れの言葉に代わる代わる打たれ、月下の記憶が、芳親の脳裏で鮮やかに弾けた。
氷輪のような、黄色みも混ざる青白い瞳。前髪の隙間から覗く、鮮烈な牡丹色の瞳。弧を描く口から覗く牙。歪んだ口から覗いた犬歯。どこまでも純粋な狂喜。刃と刃が交わる一瞬に生じる、狂おしいまでの楽しさ。
目の前にいる相手と戦うこと以外、全てどうでもいい。それに勝ることなど、世界のどこにも存在してはいない。
『ねぇ、嬉しい、でしょう? 俺を、殺せることは、嬉しいこと、でしょう、芳親』
違う。
即答の文字が浮かんで、けれど瞬く間に押し流されていった。それは善良な模範解答で、芳親の答えではない。
違うのなら、口の端が上がる感覚なんて、しないはずだ。
いつかの
その果てに、志乃の肉を突き断ち。骨をすり抜けて。心臓を貫いて。熱い血潮を手に被ることは――想うだけで、嬉しい。嬉しくて、たまらない。
『嬉しい、でしょう。――きょうだい』
初めての呼び声に、芳親はふらりと一歩を踏み出し、しかし膝をついた。しゃがみ込むようにゆっくりと。濡れた岩がじわじわと衣を侵食し、色を変え、芳親の体を冷やしてくる。
どうして一歩踏み出したのか、どうして膝をついたのか、全くもって分からない。どうして動けなくなっているのかも、分からない。芳親に分かることは、自分が喜んでいること、笑っていること、それを嫌だと思う気持ちが消えていないことだけ。
『……きょう、だい』
震える声で呼び返されると、志乃は一呼吸置いてからゆっくり歩み寄り、同じように膝をついた。顔を上げられない芳親に頬を寄せ、丸まった背に腕を回した。布越しでも、芳親の体は温かい。冷やされても、すぐ
濡れて重くなった袖を引きずって、芳親も身を起こす。ほとんど同じ背丈の志乃に、同じように腕を回す。
鋼で結ばれた縁の先にいた
逃げることはできない。殺し殺されることが終点。それに歓喜してしまうことは変わらない。所詮は使命に組み込まれた通りに動いているだけ――心臓とはまた別の、胸中に潜む自分の核を凍らせるような現実は、砂地から拾い上げてきたものを容易にかき消してしまう。
『殺したく、ない』
吹雪にかき消され奪われないよう、芳親は
『殺したく、ない。志乃を殺したくない。僕たちは、一緒に……』
『同じ道を、行くことなど、できませんよ、きょうだい』
吹雪にかき消されるのも構わず、志乃は手のひらから散っていくものを眺めていた。
『俺は、人の側に、いると、決めました、が。人になる、ことは、できません。元から、人では、ないのですから。人に戻れる、貴方と、人の世界で、生きて、いくことは、できない』
志乃は芳親の隣から離れてしまった。同じ場所で過ごしていたのに、同じ道を歩くと思っていたのに、気付けばその背は夜に向かっている。手は届くはずなのに、芳親は止める
『いずれ、俺は、人にとって、害と、なります、から。人の、敵に、なるように、できて、いますから。人である、貴方に、殺されるのは、当然です』
背に回っていた腕が離れていく。伝わっていた微熱は、瞬く間に冷えて消え失せる。空虚ではなくなった穏やかな笑みが、芳親の眼前で咲いていた。
『だぁい、じょぉぶ、ですよぉ。俺は、かなしく、ないので。かなしい、なんて、分からない、ので。えへへ……芳親に、殺して、もらった、ことを、嬉しく、思いながら、死ねる……それは、とても、良いことでは、ないです、かぁ?』
狂った喜びを糧にした笑みは、おぞましいほど雷雅に似ている。
こんなに近く、温もりが分かるほど近くにいるのに。両手も掴んだままでいるのに。志乃はどんどん
志乃にとどめを刺すのは、芳親しかいない。代わりはおらず、芳親もまた、誰かに代わることなど考えられない。夜蝶街での喧嘩を経て、鋼の縁を持ちかけたのは芳親だ。唯一の
『……良いことだなんて、思わない』
それでも。逃げられないと分かっていても、芳親は首を横に振った。駄々と切り捨てられるほど弱い抵抗に過ぎなくても、縦に振ることはできなかった。
『君が壊れて、壊されたのは、僕の罪だ。僕が清算しなきゃいけない。でも、それで君が消えることは、絶対に良いことなんかじゃない』
『良いこと、ですよ。……そう、やって、貴方が、首を、横に振る、ことも』
どこもかしこも、自分の手さえ冷たい中。ひたすらに温かい片割れの手を握りながら、志乃は笑う。あらかじめ
だが、それは志乃を殺してから。背負わされた役目を果たしてからの話だ。
『殺して、くれますよ、貴方は。約束の、ような、取り決めを、しなくても。貴方は、俺を、終わらせて、くれます。俺たちは、そういう風に、できている』
芳親は人として生きられるように。道具の思考などしないで、首を横に振れるように。
志乃は人のため
『ですが……俺が、壊れ切って、使い物に、ならなくなる、まで。貴方が、俺を、殺してくれる、まで……
――お前は道具じゃない。
身体が冷えて麻痺していく中、記憶が切り火を散らす。夢を誘うような春の夜、志乃を拾い上げた男の声が降りかかる。
――道具にだけは成り下がるなよ。
受け売りだと言いながら、志乃に糸口を握らせた男の声は、振り返らずとも共にある。
自分はいつか流される雛人形で、屍になるための器だ。明らかになった事実を認め、望ましいことだと頷きはしても、それだけに留まりはしない。
だって、それだけでは、楽しくも嬉しくもないのだから。
『お互いに、得た、道標の、灯火が……照らす、道を、行きましょう。いつか、俺たちが、終わる時……設計、通りの、幸せなどと、誰にも、言わせない、ように』
伝う念の響きが揺らぎ始める。現世で話す芳親がそうだったように、志乃にも疲労が溜まり、限界が近づいてきていた。けれど、言葉が少なくなったところで、妖雛たちに支障はない。
『約束、なんて、しなくても……そうして、くれる、でしょう、きょうだい』
『――うん』
ずっと冷たいながら、か細くも熱を失わない志乃の手を、芳親は握り繋ぎ直す。どんなに手を尽くしても消えてしまう熱を、芳親が消してしまう温もりを焼き付ける。いつか友の死せる日に、友の意志が消える日に、か細くも友が得られた火だけは、己の内で燃え続けられるように。
『誰にも、なんにも、言わせない。僕たちが手に入れたものは、僕たちだけのものだ』
震えも揺らぎもない、明瞭な芳親の声を聞き届けると、志乃はゆっくり倒れていく。手を離さないまま、芳親は片割れの冷たい体を肩にもたれさせた。
ざあざあ、ぱしゃぱしゃ、絶えない滝の音が沈黙を埋める。巣立ったばかりで翼も編めなかった二羽の雛は、常盤から隔てられ、互いに身を寄せ合っている。その羽毛、二人の性質を映す衣の色合いと形が、じわりじわり変わりつつあった。志乃の衣は暗色が増して深まり、芳親の衣は明色が増して淡く。加えて、両者とも、戦に臨む備えを新たに纏っている。
うつろな蝶の夢から覚め、物言う花にもなった半妖二人は、夜へと歩を進めていく。鋼で結んだ縁を手で結び直し、一方は明ける方へ、一方は深まる方へ。終点は定められているだけなのだから、急いで到着する必要はない。何度、今のような休憩を挟んでも、誰にも文句を言われる筋合いだってない。
約束なんてしなくても、約束なんてされなくても。志乃と芳親は最果てに辿り着き、
憂き世で抱える熱の夢に浮かされ、
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