約束なんてしなくても

 意識を取り戻してから、さらに数日。志乃は女童めのわらわに助けられながら、常世の空気に慣れていった。芳紅が結界を調節したり、志乃本人に薬を煎じたりといった対処のお陰で、清浄に押し負ける妖雛の性質が改善するほどに。とは言え、劇的にというわけではなく、常世で最低限の活動ができる程度にだが。

 芳紅から動き回る許可を貰い、自力で動けるようになった志乃が最初に向かう先は、三段に連なる滝の二段目。そこで芳親が待っている。話をしなければならないと、志乃も分かっていた。


 染まることもせることも知らない、常盤ときわを留めた森の中に伝う紐を辿たどって、志乃はゆっくり歩いていく。道標として事前に芳紅が巡らせてくれた紐は、伝う志乃の手が通過すると解けて消えた。霧深い森の中でもよく目立つ、牡丹色をした道標は、消えてもしばらく残影を滲ませている。

 療養の場だった草庵の中からでも感じ取れたことだが、常世はほとんど無音だった。風すら起こる気配もなく、滝の近辺に踏み入るまで、音は志乃が立てるものだけ。土と緑が放つ香りも、命あるものが醸し出すそれとは妙に異なっている。ひんやりとして、薄ら寒い。


 人間や妖怪が来られない理由をぼんやり察しつつ、志乃は滝へと辿り着いた。濃さを増した霧の中でも、牡丹色の線が相変わらず、緩やかに行く手へ伸びている。草地より悪くなった足場に気を付けて、しっとりと重みの増した空気の中を進んでいく。

 ゾッとするほど透き通った滝壺に吸い込まれていく、幾筋もの水簾すいれん。ぱしゃぱしゃと砕け散った滝の欠片が濡らす簾内に、芳親の姿があった。志乃を導いた牡丹の紐を、袖の中に握り込んで。


『……志乃、話せる?』

『何とか。と言っても……あまり、流暢とは、言えませんが』


 何の不自由もなく念を伝えてくる芳親と違い、志乃は途切れ途切れに念を発する。これまでとは話し方が逆になってしまっているが、守りを施されたこの場に邪魔は入らない以上、大した問題ではない。


『ご迷惑、ご心配、おかけ、しまして。申し訳、ありません』

『謝るのは僕の方。僕は間に合わなかったし、それに……夜蝶街で顔を合わせた時から、間違ってた』


 するり。用を終えた紐が手放されると、これまでと同じく消えていく。どちらともなく、妖雛二人から離れて落ちた標は、濡れた岩々に触れるより先にほどけ失せた。


『僕が師匠の言いつけを守らなかったから、僕がちゃんと考えなかったから、志乃は酷い目に遭った。人になることも、前より難しくなった。僕がずっと考えなしだったから、こんなことになったんだ』


 仮面を付けずとも前髪で覆われる芳親の顔で、浮き彫りの心情が最も目につきやすい口が歪む。悔い、怒り、悲しみ……如何様いかようにも受け取れる歪みに対して、志乃は常備の笑み一つしか持ち合わせていない。


『いずれ、こうなっていたと、思います。俺は』


 慰めに値するような言葉も分からないため、ただ考えを発する。ここまでいつも通りだが、志乃には見えるものが増えていた。ただ空洞に相手の音が反響するだけだったのに、今は自分から発せられる音がある。


『俺が、何も知らない、間に、よくない事が、たくさん起こったと。でも、それは、貴方のせいでは、ないと、思います、芳親。元々、俺自身が、よくないもの、だったわけ、ですし』

『そんなの』

『俺が、よくないもの、であることは、本当ですよ。自覚も、あります、し……説明して、いただいて、ようやく、合点が、いきました』


 雷雅が語った〈特使〉という存在の役割は、志乃と芳親にも伝わっている。〈幽月かくりつきの特使〉は未だ死なない極鬼ごくきという物の怪を取り込む器であり、〈常日とこひの特使〉は器ごと極鬼を討ち果たす刀。バケモノになる役割と、英雄になる役割をそれぞれ担うことこそ、志乃と芳親の存在理由なのだと。

 穴が空いている以外にも、志乃はずっと、自分の内に広がるうろの全貌が分からなかった。その中で不確かだった場所がようやく分かって、奇妙な安堵さえ覚えていた。


『雷雅さんが、言うには。俺は、流し雛の、役割を、果たすモノで。芳親は、厄を、溜め込んだ、流し雛を、破壊し、はらう役割を、果たすモノだと。それなら、俺がこうして、呪詛を溜め込むのは、必然で。貴方が、ここへ、連れてきてくれた、ことで、一定数、祓われた、ことも、必然だった、と言えます』


 とっくに役目を受け入れたと言わんばかりの響きに、芳親は返す言葉を思いつけない。その必然が嫌で嫌でたまらないのに、どうしてもしっくり嵌まってしまう。間違いなど一つも無いのだと分かってしまう。


『俺は……貴方に、殺してもらえる、ことを。嬉しいと、感じていますよ、芳親』


 ぬぐっても拭ってもキリがない不快と戦っているうちに、上から塗り潰すような波濤の言葉が打ち寄せる。弾かれたように芳親が視線を上げれば、変わらず志乃が空虚に笑っている。

 ――否。志乃の笑みは、空虚ではない。


『長く、忘れて、いましたけど、俺だって、あの時、嬉しかったんです』


 確かな喜色が浮かび、溢れ出した震えがあった。笑みにも、伝う声にも。

 夜蝶街での戦闘、喧嘩を言っていることは明白だった。芳親とて分かっているし、今も感じ続けている。思い出せば笑みも零れる。あんなに嬉しく楽しいことは、この世に二つとないと確信さえしている。


『夜蝶街の、人々のことは、好きです。好きです、けれど、殺せません。殺してくれる、ことも、ない。そんなことで、好意を、示す、のは……人の、営み、では、ない』


 異常な願いが、まとわりついているもどかしさが、芳親の頭を揺すぶる。志乃が今、揺すぶられているのと同じように。


『でも、貴方は、違います、芳親。貴方は、俺を殺してくれる。それを、嬉しいと、思ってくれる。傷つけ合い、殺し合う、ことで、分かち合う、ことが、できる。そんな、唯一の、片割れ、です、貴方は』


 途切れの言葉に代わる代わる打たれ、月下の記憶が、芳親の脳裏で鮮やかに弾けた。

 氷輪のような、黄色みも混ざる青白い瞳。前髪の隙間から覗く、鮮烈な牡丹色の瞳。弧を描く口から覗く牙。歪んだ口から覗いた犬歯。どこまでも純粋な狂喜。刃と刃が交わる一瞬に生じる、狂おしいまでの楽しさ。

 目の前にいる相手と戦うこと以外、全てどうでもいい。それに勝ることなど、世界のどこにも存在してはいない。


『ねぇ、嬉しい、でしょう? 俺を、殺せることは、嬉しいこと、でしょう、芳親』


 違う。

 即答の文字が浮かんで、けれど瞬く間に押し流されていった。それは善良な模範解答で、芳親の答えではない。


 違うのなら、口の端が上がる感覚なんて、しないはずだ。


 いつかの如月きさらぎに感知した気配を思い出す。ようやくその源を見つけた喜びを思い出す。月下、ぶつけ合った殺気を思い出す。鋼の縁が結ばれる感覚を、手を伸ばさずにはいられない一瞬の交わりを、思い出す。

 その果てに、志乃の肉を突き断ち。骨をすり抜けて。心臓を貫いて。熱い血潮を手に被ることは――想うだけで、嬉しい。嬉しくて、たまらない。


『嬉しい、でしょう。――きょうだい』


 初めての呼び声に、芳親はふらりと一歩を踏み出し、しかし膝をついた。しゃがみ込むようにゆっくりと。濡れた岩がじわじわと衣を侵食し、色を変え、芳親の体を冷やしてくる。

 どうして一歩踏み出したのか、どうして膝をついたのか、全くもって分からない。どうして動けなくなっているのかも、分からない。芳親に分かることは、自分が喜んでいること、笑っていること、それを嫌だと思う気持ちが消えていないことだけ。


『……きょう、だい』


 震える声で呼び返されると、志乃は一呼吸置いてからゆっくり歩み寄り、同じように膝をついた。顔を上げられない芳親に頬を寄せ、丸まった背に腕を回した。布越しでも、芳親の体は温かい。冷やされても、すぐぬるくしてほどいてしまいそうなほどに。

 濡れて重くなった袖を引きずって、芳親も身を起こす。ほとんど同じ背丈の志乃に、同じように腕を回す。みてくる水よりも冷たい志乃の体は、容易く熱を殺してしまえそう。しかし、奥底にはわずかながらも確かな熱が、緩やかな拍動に合わせて明暗を繰り返している。


 鋼で結ばれた縁の先にいた同朋きょうだいは、どうしてこんなにもぬくいのだろう。どうして温いと知ってしまったのだろう。どうして、この温もりを失わせる一瞬が喜ばしいと、笑ってしまうのだろう。


 逃げることはできない。殺し殺されることが終点。それに歓喜してしまうことは変わらない。所詮は使命に組み込まれた通りに動いているだけ――心臓とはまた別の、胸中に潜む自分の核を凍らせるような現実は、砂地から拾い上げてきたものを容易にかき消してしまう。


『殺したく、ない』


 吹雪にかき消され奪われないよう、芳親はうずくまって、握りしめたものを守っていた。


『殺したく、ない。志乃を殺したくない。僕たちは、一緒に……』

『同じ道を、行くことなど、できませんよ、きょうだい』


 吹雪にかき消されるのも構わず、志乃は手のひらから散っていくものを眺めていた。


『俺は、人の側に、いると、決めました、が。人になる、ことは、できません。元から、人では、ないのですから。人に戻れる、貴方と、人の世界で、生きて、いくことは、できない』


 志乃は芳親の隣から離れてしまった。同じ場所で過ごしていたのに、同じ道を歩くと思っていたのに、気付けばその背は夜に向かっている。手は届くはずなのに、芳親は止めるすべも力も持っていない。どうしようもなさに、それでも嫌だと藻掻もがくしかできない。


『いずれ、俺は、人にとって、害と、なります、から。人の、敵に、なるように、できて、いますから。人である、貴方に、殺されるのは、当然です』


 背に回っていた腕が離れていく。伝わっていた微熱は、瞬く間に冷えて消え失せる。空虚ではなくなった穏やかな笑みが、芳親の眼前で咲いていた。


『だぁい、じょぉぶ、ですよぉ。俺は、かなしく、ないので。かなしい、なんて、分からない、ので。えへへ……芳親に、殺して、もらった、ことを、嬉しく、思いながら、死ねる……それは、とても、良いことでは、ないです、かぁ?』


 狂った喜びを糧にした笑みは、おぞましいほど雷雅に似ている。

 こんなに近く、温もりが分かるほど近くにいるのに。両手も掴んだままでいるのに。志乃はどんどんほころび崩れていく。はねすら編めず、何度も何度も落ちて壊れていく。芳親が断ち切らない限り、壊れ果てることさえできないまま。

 志乃にとどめを刺すのは、芳親しかいない。代わりはおらず、芳親もまた、誰かに代わることなど考えられない。夜蝶街での喧嘩を経て、鋼の縁を持ちかけたのは芳親だ。唯一の同朋きょうだいと行き着く結末が、永遠の断絶だったとしても、終止符を打てるのは芳親だけ。


『……良いことだなんて、思わない』


 それでも。逃げられないと分かっていても、芳親は首を横に振った。駄々と切り捨てられるほど弱い抵抗に過ぎなくても、縦に振ることはできなかった。


『君が壊れて、壊されたのは、僕の罪だ。僕が清算しなきゃいけない。でも、それで君が消えることは、絶対に良いことなんかじゃない』

『良いこと、ですよ。……そう、やって、貴方が、首を、横に振る、ことも』


 どこもかしこも、自分の手さえ冷たい中。ひたすらに温かい片割れの手を握りながら、志乃は笑う。あらかじめしかばねとなれるよう作られたらしい自分と違って、芳親は人の中に戻って、生きていくことができる。

 だが、それは志乃を殺してから。背負わされた役目を果たしてからの話だ。


『殺して、くれますよ、貴方は。約束の、ような、取り決めを、しなくても。貴方は、俺を、終わらせて、くれます。俺たちは、そういう風に、できている』


 芳親は人として生きられるように。道具の思考などしないで、首を横に振れるように。

 志乃は人のためべられるように。道具の思考を変えないで、首を縦に振れるように。


『ですが……俺が、壊れ切って、使い物に、ならなくなる、まで。貴方が、俺を、殺してくれる、まで……猶予ゆうよは、まだ、あります』


 ――お前は道具じゃない。


 身体が冷えて麻痺していく中、記憶が切り火を散らす。夢を誘うような春の夜、志乃を拾い上げた男の声が降りかかる。


 ――道具にだけは成り下がるなよ。


 受け売りだと言いながら、志乃に糸口を握らせた男の声は、振り返らずとも共にある。


 自分はいつか流される雛人形で、屍になるための器だ。明らかになった事実を認め、望ましいことだと頷きはしても、それだけに留まりはしない。

 だって、それだけでは、楽しくも嬉しくもないのだから。


『お互いに、得た、道標の、灯火が……照らす、道を、行きましょう。いつか、俺たちが、終わる時……設計、通りの、幸せなどと、誰にも、言わせない、ように』


 伝う念の響きが揺らぎ始める。現世で話す芳親がそうだったように、志乃にも疲労が溜まり、限界が近づいてきていた。けれど、言葉が少なくなったところで、妖雛たちに支障はない。


『約束、なんて、しなくても……そうして、くれる、でしょう、きょうだい』

『――うん』


 ずっと冷たいながら、か細くも熱を失わない志乃の手を、芳親は握り繋ぎ直す。どんなに手を尽くしても消えてしまう熱を、芳親が消してしまう温もりを焼き付ける。いつか友の死せる日に、友の意志が消える日に、か細くも友が得られた火だけは、己の内で燃え続けられるように。


『誰にも、なんにも、言わせない。僕たちが手に入れたものは、僕たちだけのものだ』


 震えも揺らぎもない、明瞭な芳親の声を聞き届けると、志乃はゆっくり倒れていく。手を離さないまま、芳親は片割れの冷たい体を肩にもたれさせた。


 ざあざあ、ぱしゃぱしゃ、絶えない滝の音が沈黙を埋める。巣立ったばかりで翼も編めなかった二羽の雛は、常盤から隔てられ、互いに身を寄せ合っている。その羽毛、二人の性質を映す衣の色合いと形が、じわりじわり変わりつつあった。志乃の衣は暗色が増して深まり、芳親の衣は明色が増して淡く。加えて、両者とも、戦に臨む備えを新たに纏っている。


 うつろな蝶の夢から覚め、物言う花にもなった半妖二人は、夜へと歩を進めていく。鋼で結んだ縁を手で結び直し、一方は明ける方へ、一方は深まる方へ。終点は定められているだけなのだから、急いで到着する必要はない。何度、今のような休憩を挟んでも、誰にも文句を言われる筋合いだってない。

 約束なんてしなくても、約束なんてされなくても。志乃と芳親は最果てに辿り着き、相見あいまみえる。誰の意志も介さない一刹那ひとせつなを、自分たちのものにする。


 憂き世で抱える熱の夢に浮かされ、うなされながら、それでも二人は息をした。研ぎ澄まされすぎた不変の冷気が、純然と二人の臓腑ぞうふを切りつけていった。

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