絡まる生糸
浄化や祓魔に用いられる結界より、数十段も格上の霊気が溢れる世界は、人間や妖怪には強力すぎる。穢れに類するものを徹底的に弾きもするため、踏み入ることすら容易ではない。踏み入れはできずとも歩み寄れる、限られた存在たる天授の家系や歴史ある大社でさえ、ほんの一瞬繋がるためだけに膨大な時間や体力を費やさなければならない。
そんな場所で、芳親は六年を過ごしたどころか、現世へ帰還もしてみせた。常世と他の世界との途絶が確認されて以降、千と数百年以上の年月が流れた上で、初めての生還者だった。
現世へ戻り順応すれば、常世に戻る必要はない。育て親となってくれた仙女に告げられ、夢に見れども触れることはないだろうと思っていた芳親は、しかし再び常世へ入った。自分の力では助けられなかった友のために。
『ねーえー、よーしーちーかー。ふふふ、まーだ怒ってるのかなぁー?』
何度目かも分からなくなった悔恨を、同じく何度目か分からなくなるほど聞いた呼びかけが遮る。にっくき相手からの呼びかけなど応じたくなく、芳親は眼前に広がる森から視線を逸らさなかった。背後に口を開ける洞窟からは、楽しさを前面に押し出した声が絶えない。
洞窟内には一時的な牢屋があり、事の元凶である雷雅を絶賛勾留中だった。歳を二十も数えていない志乃と比べれば、千年以上もの穢れを蓄積した雷雅はとんでもない劇薬。常世に入った際、霊気に弾き飛ばされかけつつ倒れたところをすぐさま拘束し、結界を張った
『よーしーちーかー、よーしーちーかーってばー、あはははぁ』
少しは痛い目を見たかと思ったのに、楽しそうにしやがって――記憶を掘り返しても、今この時も腹が立つばかりだが、芳親は努めて平静を保っていた。感情任せに返せば相手の思うつぼになることなど、とっくに承知している。
常世は時の流れがあるかどうかも疑わしいため、こちらに戻って来てからどれほど経ったのかは定かでない。分かるのは芳紅だけだが、かの仙女は志乃の治癒や、穢れを流出させないための雑務をこなしている。訊けば答えてくれるだろうが邪魔したくは無かったし、そもそも、ここを離れていいとは言われていない。
幸い、雷雅の適応は休みを挟まない域まで到達していなかったため、しばらくすると森閑が戻ってくる。風の音も、獣が立てる音も滅多にしない幽玄な森は恐ろしいが、芳親にとっては慣れた無音だった。自分の体と周囲の境が薄まり、一体となっていくような心地がする。
夢心地めいた感覚は、さくりさくりと近づいてくる足音に、ゆっくりと引き剝がされた。視線を上げて見れば、霧を通してしっとりとした白銀の毛並みと、顔に浮かぶ牡丹の模様に金色の双眸がある。
人ではない方の姿を取った芳親とも共通する色の持ち主は、通常ではあり得ない体躯をした山犬だった。
『
芳親の頭に直接響くのは、仙女とはまた別の聡明を秘めた女性の声。落ち着き払った声は、雷雅にうんざりしていた気分を忘れさせ、静穏を守ってくれる。しかし、告げられた内容が落ち着けるものではなかったせいで、芳親は目を見開いて立ち上がった。
『まだ見舞うなと、芳紅様のお達しだ。大人しくしろ』
そうなることはお見通しだとばかりに、山犬は前足を芳親の頭に乗せる。再び座らされるほどではないが、ぐぐぐと押さえつけられる感覚は、芳親の胸中も平らかにした。
『……志乃は無事だったの、姉上』
『当然だ。そのために奔走しただろう、お前も。それと、交代の頃合いだ。
簡潔に伝達を済ませると、山犬は芳親の座っていた場所に回り込み、人を乗せられるほどの巨体を横たえる。金色の目も閉ざされ、これ以上話すことはないと示された芳親は、言われた通り禊の場所へ歩き出した。
滝の近辺は水飛沫もあって霧が濃い。芳親が出た二段目の滝壺はまだ全容が見えるものの、その下にある滝壺は覗いても見えない。流れ落ちていく水がどこへ行くかも定かではないが、海の方にある常世へ繋がっている、という話は聞かされた記憶があった。山林の常世と海原の常世は、同じ世界だが分かたれている、とも。
海の方にあるという常世は、芳親も行ったことがない。それ以前に興味がないため、話を思い出しても想像を巡らせはしない。滝裏の洞窟に入るなり、衣服も仮面も脱がずそのまま、洞窟内へ入り込んでいる水に浸かった。
底の岩盤がはっきり見えるほど澄んだ水中に、狩衣の白袖がひらひら揺らめいている。水は温かくも冷たくもない。肩まで浸かった後、芳親は仮面をつけっぱなしの頭ごと、ざぶんと
この滝壺に棲んでいる魚はいない。たまに来客の魚はいるが、今は芳紅が近づけないようにしている。透き通った世界にあるのは、水同士のぶつかりを示す泡に歪みと、底を支える岩盤に砂だけ。
戻ってきた当初と比べれば穢れが少ないため、禊は簡単なものになるし、かける時間も短くなる。早々に水から上がると、芳親の衣服も体も急速に乾いていく。何故なのか、芳親は分かっていないというか気に留めていないが、どんな損傷を受けても勝手に直っていくのと仕組みは同じ。不便だったことはないのだから、構わない。
禊を終えても、芳親はその場から動かなかった。以前は芳紅から雑用を任せてもらって暇を潰していたが、今は見舞いを控えろとしか言われていない。けれど、一人になれるのはちょうど良かった。雷雅のせいで立ったささくれが残る胸裏を、やっと手入れできる。
だが、心穏やかだったのは
『志乃……』
口を開かずとも響く声が、水と一緒に滝壺へ消えていく。おのずと、芳親は膝を抱えて座り込んでいた。寒くもないのに震えそうな体を抑え付けた。
『僕は、君と友達にならない方が……友達になるべきじゃ、なかった』
誰かと仲良くなることを間違っていたと、信じて疑わなかったことを間違っていたと言うのは、これが初めて。自分のように何の成長もできていない存在が、志乃の傍にいるべきではなかった。
『友達になるべきじゃなかったかもしれない、けど』
それでも志乃は既に、芳親の友だ。隣を歩き、同じ道を行く同胞。満たされず空虚なまま、かつての自分を彷彿とさせる友。一度切り結んだ鋼の縁を解くことも、何も無かったと忘れることも、できない。
言いかけた言葉を飲み込む。この先は志乃に、面と向かって言うべきだ。言って伝えるということがどれほど重要かは、芳親がよく分かっていることの一つ。声も言葉も、誰かと繋がるためにあるのだから。
『……あ』
ふと、思い出して声が転がり落ちる。通じる声と言葉があればと、初めて自分の願望めいた意思を抱いた時のことを。まだ常世にいながら、幽世の近くまでさ迷い出てしまったある日のことを。
現世、幽世、常世といった三つの世界のそれぞれに挟まる、三つのどこかに属しきらない間隙の世界。そこに一人、芳親と同じ年頃の少女が迷い込んで、鉢合わせたことがあった。少女は何かから逃げてきたらしかったのだが、あの時の芳親は異常を認識はすれども、少女が何かに「怯えている」という状態を理解できなかった。
――助けて、助けて。
そう言われて袖を掴まれても、芳親は言葉を返せなかった。けれど、願われたことを叶えてあげられない、望みを実行できないということに引っかかりを覚えた。
とは言え、具体的にどうしてやればいいのかなど分からない。黙したまま参考例を探して出した結論は、彼女に触れることだった。獣が毛繕いをするように。
『芳親』
動き出した回想は、聞き慣れた女性の声に止められる。隣を見上げれば、いつの間にか
『花居志乃への説明を終えた。あの娘はまた寝入ってしまったが、もう警戒は不要。しばらくは慣れるために時間を費やすゆえ、お前との面会はまだ少し先になる』
『そうですか……ありがとうございます、芳紅様』
『少しは挨拶が様になったな。気になることを後回しにできる我慢も身につけたらしい』
立ち上がって一礼した芳親だったが、鳴りを潜めた焦心がざわめきだしたせいで、また抑えることに徹する羽目になった。晴成の腕について志乃がどんな反応をしたか、もちろん訊きたかったが、質問を作る言葉も上手くまとめられない。
『人肉を食べることがどういうことかは、あの子も把握していた。だが、何を感じ入り、考えているかはまだ分からん。あの子からすれば、寝ている間に起きていたこと。常世の空気に慣れることも含めて、まだ時間が必要だろうよ』
それもまた見透かして答えられ、芳親が抱える胸中の騒ぎも収まったが、すぐに情けなさが入り込んできた。感情を律せず振り回されてばかりの自分が、どんどん嫌になっていく。
『あの子を待つ間、ただじっとしてはおられんのだろう、芳親。またいくつか、雑務を手伝ってくれるか』
『はい。……ごめんなさい、芳紅様』
『ん? 謝られることなど何もないが。まず初めにやってもらうのは物資の収集ゆえ、そちらに集中しなさい。考え事は、休憩を挟みながらするものだ』
山犬と同じく簡潔に流すと、芳紅はさっさと歩いていく。芳親もまた後に続いた。自分の中に居座って、責め苦を垂れ流す影を振り落とすように。
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